集団的自衛権
西暦××××年××月××日 首相官邸 会議室 午前10時
「オーストラリアから正式な打診が来ました」
後藤が言った。机の上に文書が置かれた。英文と日本語訳が並んでいる。表題は簡潔だった。
「日豪共同防衛体制の構築について」
「読め」
後藤は要点を読み上げた。「一、両国が直面している安全保障上の脅威は共通である。二、一国での対処には限界がある。三、日豪間での集団的自衛権の行使を視野に入れた、共同防衛体制の構築を提案する。四、具体的には、共同哨戒・共同防衛計画の策定・装備品の相互融通・情報の完全共有を求める。以上です」
室内は静かだった。
「……来たか」相馬が言った。
誰も驚いていなかった。いつか来ると思っていた。来るとすればこのタイミングだとも思っていた。だが、実際に文書が目の前に置かれると、重さが違った。
黒崎は文書を手に取った。
英文が先に書かれていて、日本語訳が後に続いている。それだけで、この文書が向こう側で作られたことが分かる。向こうから来た提案だ。こちらから求めたわけではない。
「法制局の見解は」黒崎が聞いた。
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内閣法制局長官が口を開いた。
「現行憲法の解釈について整理します。集団的自衛権とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていない場合でも、実力をもって阻止する権利です」
「現行の解釈では」
「二〇一五年の安全保障法制により、限定的な集団的自衛権の行使が認められています。ただし行使できる要件は厳格です。一、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生したこと。二、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命・自由・幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること。三、他に適当な手段がないこと。四、必要最小限度の実力行使にとどまること。この四要件を満たす必要があります」
「今回のケースに当てはめると」
「問題が複数あります。一点目、"武力攻撃が発生したこと"という要件について。北西の反応は、攻撃が発生したとは言えない段階です。来るかどうかも分からない。来たとしてもオーストラリアへの攻撃かどうかも分からない。要件を満たしていません」
「では行使できないか」
「現時点では難しい、ということです。ただし」長官は続けた。「二点目の問題があります」
「何だ」
「この惑星における憲法の前提の問題です。日本国憲法は、地球上に存在する日本国という前提で作られています。この惑星において、日本国が存続しているかどうか、という根本的な問いがあります」
室内が静まった。
「……どういう意味だ」
「国家は、領域・国民・主権の三要素で構成されます。領域については、日本列島がこの惑星上に存在しています。国民についても、日本国民が存在しています。しかし主権については、問いが生じます。主権とは、国家が他の国家から独立して、自国の意思で行動できる権利です。この惑星において、日本国の主権がどの範囲に及ぶかは、まだ整理されていません」
「整理されていない、とはどういう意味だ」
「地球上であれば、国際法と国際社会の合意によって、主権の範囲が定められています。この惑星には、その合意がまだありません。日豪間での合意すら、まだ途中です。この惑星において新たな国際法的枠組みを作る必要がありますが、それには時間がかかります」
「つまり」黒崎が言った。「憲法の問題より前に、この惑星における国際法の問題がある」
「その通りです。ただし」長官は続けた。「現実的な問題として、今すぐこれらを全て整理してから動くことはできません。整理しながら動く必要があります」
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「整理しながら動く、とは具体的にどういうことだ」黒崎が聞いた。
白瀬が口を開いた。「段階を分けます。一、今すぐできること。二、手続きを踏めばできること。三、時間をかけて整理が必要なこと。この三つに分けて考えます」
「今すぐできることは」
「現行の安全保障法制の範囲内での協力です。情報共有、共同訓練、装備品の相互融通。これらは集団的自衛権の行使ではなく、同盟国との協力として現行法の範囲内で可能です。ワラマンガの護衛がすでにその実績です。あの判断は海賊対処法を根拠にしていましたが、結果として日豪の艦艇が共同で行動した事実が生まれました」
「手続きを踏めばできることは」
「限定的な集団的自衛権の行使です。ただし先ほどの要件を満たす必要があります。北西の反応がオーストラリアへの武力攻撃に発展した場合、要件を検討できます。現時点では要件を満たしていませんが、状況が変われば検討できます」
「時間をかけて整理が必要なことは」
「この惑星における日豪間の条約締結です。現行の日豪安全保障共同宣言は地球上の文書です。この惑星における新たな枠組みを作ることが、長期的には必要です」
「時間はかけていられないが」
「はい。だからこそ、今すぐできることから始めます。段階を踏みながら、できることを増やしていく」
黒崎は少し間を置いた。「オーストラリアへの回答は」
「三点で回答します」後藤が言った。「一、情報の完全共有と共同哨戒については、即時開始することに同意する。二、装備品の相互融通については、共通規格の確認を進めた上で実施する。三、集団的自衛権の行使については、現行法の要件を踏まえながら、状況の進展に合わせて検討する」
「"検討する"で通じるか」
「通じると思います。オーストラリア側も、すぐに行使を求めているわけではありません。枠組みを作りたいということです。枠組みを作る意思があることを示せば、今日のところは十分です」
「それでいい。その方向で進めろ」
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同日 午後 法制局内
長官は執務室に戻った。
机の上に資料が積まれている。安全保障法制の解釈。国際法の文献。国家承認の理論。主権の定義。
どれも、地球上の国際社会を前提に書かれたものだ。
この惑星に、その前提は当てはまらない。
長官はしばらく窓の外を見た。官庁街が見える。いつも通りの景色だ。法律の文脈では、あの朝以前と変わっていない。建物は建物だ。道路は道路だ。行政機関は行政機関だ。
だが、その下を支えている前提が、変わっている。
国際法は国際社会の合意で成立する。合意があって初めて有効になる。この惑星の「国際社会」は、今のところ日豪二国だけだ。二国で合意したことが、この惑星の「国際法」の出発点になる。
長官はメモ帳を出して書いた。「この惑星における日本国の法的地位」「この惑星における国際法の適用可能性」「日豪間の新たな法的枠組みの構築」
三つの問いが並んだ。どれも、これまでの法律の教科書には答えがない。
前例がない問いに、前例のない答えを作る。それが今日から始まる仕事だった。
「急ぐな。だが止まるな」
黒崎の言葉を、長官は思い出した。
急いで作った答えは、後で崩れる。だが止まれば、現実が先行する。現実が先行すれば、法律が後追いになる。法律が後追いになれば、行動の根拠が曖昧になる。
丁寧に、しかし止まらずに。
長官はペンを取った。
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同日 ダーウィン基地 マクブライド少佐
少佐は呼び出しを受けた。
部屋に入ると、十六夜さくらと赤城蓮人が待っていた。通訳も一人いた。装置は台の上に置かれている。密閉容器の蓋が、半分だけ開けられていた。
「協力をお願いしたいことがあります」
十六夜が、通訳を介して説明した。装置への接触試験。症状が出た者の証言。「何かが見えた」という共通点。言語解析への応用の可能性。
少佐は静かに聞いていた。表情は変わらない。何かを考えている顔だ。
「もう一度、触れてほしいということですか」
「強制ではありません。リスクがあります。前回と同じ症状が出る可能性があります。それ以上の症状が出る可能性も排除できません。ただし、協力していただければ、言語の解析が進むかもしれません。言語が分かれば、捕虜と話せるようになるかもしれない」
少佐は少し間を置いた。「捕虜と話せれば、向こうの意図が分かる可能性があるということですか」
「そうです」
「北西の反応が、来るかどうかも分からないものへの対処法が、見つかるかもしれない」
「可能性として」
少佐は窓の外を見た。ダーウィンの空が見える。青い。先日まで、こんな空を見る余裕はなかった。アデレードへの帰還の見通しも立っていない。家族への連絡も取れていない。
「やります」
「理由を聞かせてもらえますか」
少佐は少し考えた。「ダーウィンから北東に飛んで、日本に来た。あのとき、燃料が尽きる寸前だった。日本の戦闘機が来て、基地まで誘導してくれた。あなた方に助けてもらった。それだけです」
十六夜は頷いた。「ありがとうございます」
「それと」少佐は続けた。「前回、何かが見えた。何が見えたのか、まだ説明できていません。もう一度触れれば、今度は説明できるかもしれない。それも気になっています」
「面白いですね」十六夜は思わず言った。
少佐は少し笑った。「そうですね。怖いですが、面白い」
「同じことを感じていました」
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試験は翌日に設定された。今日は少佐の体調確認と、試験の手順の説明に充てる。
医療士官が少佐を診察した。「血圧、脈拍、神経学的所見、いずれも正常です。前回の症状が再現した場合に備えて、鎮痛剤と点眼薬を準備します」
「了解です」
十六夜は分析室に戻った。
赤城が待っていた。「少佐は同意したか」
「はい」
「動機は」
「「あさひ」に助けてもらったから、と言っていました。それと、前回見えたものが何だったか気になっているとも」
赤城は少し間を置いた。「川上艦長が知ったら、何と言うかな」
「複雑な顔をすると思います」十六夜は言った。「ワラマンガを護衛したのは法的根拠があったからだ、と言うかもしれません。恩を感じてほしくて助けたわけではない、と」
「だが、少佐は恩を感じた」
「ええ。それが今日、一人の人間を動かしました。法的根拠とは別のところで、何かが動いています」
赤城は黙った。
「面白いですね」十六夜は言った。「国家と国家の話をしているのに、結局、人と人の話になっていく」
赤城は短く言った。「そういうものだろう」
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同日 官邸地下 夜
「今日の整理をします」白瀬が言った。「一、オーストラリアへの回答方針を決定。情報共有・共同哨戒の即時開始、装備品融通の交渉開始、集団的自衛権については状況に応じて検討。二、法制局が、この惑星における法的枠組みの検討を開始。三、マクブライド少佐が装置への接触試験に同意。明日実施予定」
「確定」白瀬が言った。
「北西の反応は」黒崎が聞いた。
「変化なしです。移動は継続していますが、速度・規模ともに変化は確認されていません」
「来るかどうかも、まだ分からない」
「はい。分からないまま、準備を続けています」
黒崎は頷いた。
あの朝から今日まで、「確認できない」を守り続けてきた。確認できないものに名前を付けなかった。だが今日、法制局が「この惑星における日本国の法的地位」という問いを立てた。
名前を付けなかったものに、少しずつ輪郭が生まれていく。
「急ぐな。だが止まるな」
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同日 深夜 ダーウィン基地 隔離区画前
廊下に人影があった。
十六夜だった。一人で、隔離区画のドアの前に立っている。
中を見ようとしているのではない。ただ、そこに立っている。
捕虜の男は、この部屋の中にいる。
あの朝から今日まで、「向こう」は謎だった。外縁の向こうに何があるか。帆船がどこから来たか。捕虜が何者か。北西の反応が何なのか。
明日、少佐が装置に触れる。何かが見える。見えたものが、少しだけ「向こう」を教えてくれるかもしれない。
「面白いですね」
誰にも聞こえない声で言った。
「あなたは何を待っているんですか」
ドアの向こうから、音はない。静寂だけが返ってくる。
だが十六夜は、その静寂が変わり始めていると感じていた。
明日、何かが動く。
◆集団的自衛権の四要件
二〇一五年の安全保障法制で認められた限定的な集団的自衛権の行使には、厳格な四要件がある。現時点では北西の反応が「武力攻撃の発生」という要件を満たしていないため、行使できる段階ではない。ただし状況が変われば要件の検討ができる。
◆「この惑星における日本国の法的地位」
国家の三要素は領域・国民・主権。領域と国民はこの惑星に存在している。しかし主権の範囲は、国際社会の合意によって定まるものであり、この惑星にはその合意がまだない。地球上の法律・条約・国際法が、この惑星でどこまで有効かという問いは、前例のない問いだ。




