打ち上げ
西暦××××年××月××日 種子島宇宙センター 午前5時
暗いうちから、人が動いていた。
発射台の周囲に照明が当たっている。白く、鋭い光だ。その光の中に、ロケットが立っている。H-IIAの改良型。機体は白い。先端に観測衛星と測位衛星を組み合わせた複合衛星を搭載している。地球用の設計を、この惑星の条件に合わせて調整したものだ。完全ではない。だが、何もないよりはいい。
式典はない。見学者もいない。メディアも呼んでいない。打ち上げの事実は、成功した後に発表する。失敗すれば、燃料を消耗しただけになる。
だから、今ここにいるのは必要な人間だけだ。
発射台の周囲を技術者が歩いている。チェックリストを持ち、一つ一つ確認している。声は少ない。問いを立てる時間も、雑談をする時間もない。今日やるべきことを、今日やる。それだけだ。
「燃料充填、完了」「圧力正常」「温度安定」「誘導系、チェック完了」「通信系、正常」
報告が続く。技術者たちの声は落ち着いている。感情を削ぎ落とした声だ。やるべきことをやる。それだけだ。
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管制室には緊張があった。
静かな緊張だ。叫び声も、駆け足も、余分な動きもない。全員が自分のコンソールを見ている。数字を見ている。数字が全てを語る。
「天候、問題なし」「上空風、許容範囲内」「海上警戒、異常なし」
管制官の一人が、コンソールの横に写真を置いていた。家族写真だ。ここで打ち上げを行う前、いつもそうしている。なぜそうするのかを、自分では説明できない。ただ、そこに置いておきたい。
今日の打ち上げが成功すれば、北西方向の観測精度が上がる。この惑星の地図が、また少し埋まる。向こうに何があるのかが、少し見えてくる。その情報が、何かを決める材料になる。
失敗すれば。
失敗の話はしない。準備できることは全部した。あとは数字を見るだけだ。
「……打ち上げまで、三十分」
誰かが言った。その声に感情はない。だが、その三十分が持つ重さを、全員が理解している。
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種子島の夜明けは早い。
東の空が白み始めるころ、発射台の照明は相対的に暗く見え始める。ロケットの白い機体が、夜明けの光の中に溶け込むように立っている。
技術者の一人が、その姿を一瞬だけ見た。
何ということもない機体だ。この仕事を十五年やっている。打ち上げはこれで何回目か。数えるのをやめた頃から、見方が変わった。最初の打ち上げのときは緊張で手が震えた。今は震えない。だが、この静けさは緊張ではない別の何かだ。
「打ち上げまで、十五分」
作業に戻った。コンソールを見る。数字を確認する。
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「打ち上げまで、五分」
管制室に、わずかな音が消えた。空調の音だけが残る。全員の呼吸が、少し浅くなっている。
誰かが、コンソールの縁を静かに握った。意識してではない。手が動いた。それだけだ。
「打ち上げまで、一分」
「T-六十秒」
「T-三十秒」
カウントダウンが続く。一秒が長く感じられる。数字が減るたびに、部屋の空気が少しずつ変わる。誰も動かない。誰も話さない。
「T-十秒」「九、八、七、六」「メインエンジン点火」「四、三、二、一」
「リフトオフ」
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轟音。
管制室の窓の外、遠くの発射台から、炎と煙が上がる。ロケットが、ゆっくりと、しかし確実に、地面を離れる。
白い機体が空に向かっていく。最初の一秒は遅い。だが速度が上がる。炎の柱が伸びる。機体が傾き始める。軌道投入のための姿勢制御だ。
「飛翔、正常」「姿勢、正常」「速度、正常」
報告が続く。数字は正常だ。正常な数字が積み重なるたびに、管制室の空気がわずかに変わる。
肩から力が抜ける、という動きではない。手の位置が、少しだけ変わる。視線が、画面から外れる瞬間がある。そういう小さな変化が、数字と数字の間に起きている。
「固体補助ロケット、分離」「正常分離確認」「フェアリング、分離」「正常分離確認」
機体は大気圏を抜けていく。もはや窓からは見えない。画面の中の数字だけが、今どこにいるかを語っている。
「第一段エンジン、燃焼停止」「第一段、分離」「正常分離確認」「第二段エンジン、点火」「燃焼確認」
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「衛星分離、確認」
その一言が来た瞬間、管制室に小さな音が上がった。
拍手ではない。ため息のような、安堵の音だ。全員が少しずつ、体の緊張を解いている。誰かがコンソールの縁を握っていた手を、静かに離した。
誰かが目を閉じた。一秒だけ。それから、また開いた。
「衛星、軌道投入確認」「通信確立」「姿勢制御、正常動作中」
打ち上げ成功。
「お疲れ様でした」誰かが言った。
「ありがとう」誰かが返した。
それだけだった。歓声も、握手も、抱擁も、なかった。全員が自分のコンソールに戻り、次の確認を始めた。打ち上げが終わったから終わりではない。衛星が正常に動き始めてから、本当の仕事が始まる。
管制官の一人が、コンソールの横の写真を見た。一秒だけ。それから、画面に視線を戻した。
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同日 官邸地下
「打ち上げ成功」藤堂が報告した。「衛星、軌道投入確認。通信確立。正常動作中です」
「確定」白瀬が言った。
「初期データが届き始めています。北西方向への観測精度が上がっています。詳細な分析には数時間かかりますが、すでに変化が出ています」
「変化とは」
「これまでの衛星では、北西の反応は形状が不明確でした。今回の新しい衛星と組み合わせることで、より細かい情報が取れています。方向はこれまでの推定と一致しています。ただし」
「ただし」
「規模の推定が変わりました。これまでより大きい可能性があります。詳細は分析中です」
「大きい、とはどのくらい」
「現時点では数字を出せません。数時間後に改めて報告します」
黒崎は頷いた。「待つ。報告が来次第、判断する」
「急ぐな。だが止まるな」
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同日 ダーウィン基地 分析室
新しい衛星データが届き始めていた。
十六夜は画面を見ていた。これまでの衛星と、新しい衛星を組み合わせたデータ。解像度が上がっている。精度が上がっている。
「……見えてきた」
独り言だ。
北西の反応が、これまでより鮮明に見える。点の集まりだったものが、形を持ち始めている。
「赤城さん」十六夜は言った。「来てください」
赤城が入ってきた。「何だ」
「北西の反応が見えてきました。形が分かってきています」
画面を見た赤城は、しばらく黙った。
「……多いな」
「はい」十六夜は言った。「これまでの推定より、はるかに多い可能性があります。ただし精度の問題で、正確な数はまだ出せません。ただし確実に言えることが一つあります」
「何だ」
「帆船だけではありません。帆船より大きな艦が複数含まれています。艦隊として組織されています。統制が取れています」
「大型艦の規模は」
「現時点では不明です。ただし」十六夜は少し間を置いた。「面白いことに気づきました」
「何が面白い」
「移動速度です。全体が均一な速度で移動しています。最も遅い艦に合わせて、全体が速度を調整している。つまり、統制が取れているというだけでなく、最も遅い艦を守っている可能性があります」
「最も遅い艦を守っている、とはどういう意味だ」
「輸送艦の可能性があります。物資か、人員か、何かを輸送している。戦闘艦隊ではなく、輸送を護衛する艦隊の動き方です」
赤城は画面を見た。「……攻撃に来ているのではなく、移動している、ということか」
「可能性として。断定はできません。ただし、戦闘を前提とした艦隊の動き方とは、少し違います」
「官邸に上げる」
「はい。言葉は慎重に」
「どう言う」
「"北西の反応について、新衛星データにより詳細が見えてきた。規模はこれまでの推定より大きい。帆船以外の大型艦を複数含む。全体が均一速度で移動しており、輸送艦を護衛する艦隊の可能性がある。断定はできない"。それだけです」
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同日 午後 官邸地下
「新衛星のデータ分析が出ました」藤堂が言った。「北西の反応について報告します」
資料が配られた。衛星画像の解析結果。数値と、概略図。
「規模は、これまでの推定より大きいです。帆船以外の大型艦を複数含んでいます。全体が均一速度で移動しており、最も遅い艦に合わせて全体が調整しています」
「均一速度」吾妻が言った。「輸送艦を護衛する動きか」
「そう解釈できます。ただし断定できません。戦闘を前提とした編成とも、輸送を護衛する編成とも、現時点ではどちらとも言えません」
「規模の数字は」
「出せません。精度が足りません。ただし、日豪の現有戦力と単純比較すれば、数の上では圧倒的です。ただし相手が帆船主体であることも踏まえる必要があります」
「帆船に対して、こちらの装備は有効だ」吾妻は言った。「一隻の帆船は止めた。問題は、一隻の帆船と艦隊は違う、ということだ」
「はい。数が変われば、戦い方が変わります」
「外縁を越えてきた場合の対応は」
「現時点では決まっていません。情報が足りない。ただし」白瀬が言った。「今日の情報で、一つはっきりしたことがあります」
「何だ」
「向こうが輸送艦隊の動きをしているなら、侵略のために来ているとは言い切れません。何かを運んでいる。どこかへ行こうとしている。その途中にオーストラリアと日本がある。あるいは、目的地がオーストラリアや日本だとしても、攻撃が目的でない可能性があります」
「攻撃が目的でなければ何だ」
「分かりません。だから、捕虜と話す必要があります」
黒崎は少し間を置いた。「言語解析を最優先にしろ。捕虜が話したがっているなら、話せる状態にする。それが今一番重要だ」
「了解です」
「それと」黒崎は続けた。「防衛計画については、二つの想定を並行して立てろ。一、向こうが攻撃目的で来た場合。二、向こうが攻撃目的ではない場合。どちらの場合でも対応できるように準備する。どちらかに絞るな。まだ分からない」
「了解です」
「急ぐな。だが止まるな」
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同日 夜 種子島宇宙センター
管制室には、まだ人が残っていた。
衛星の初期運用確認が続いている。通信状態の確認。軌道の精密測定。各センサーの動作確認。打ち上げが成功しても、次の仕事がある。
管制室の空気は、午前中とは違う種類の静かさだった。緊張が解けた静かさではない。次の作業に入った静かさだ。一つが終わって、次が始まる。その繰り返しの中の、ひと呼吸。
担当者の一人が、コンソールから離れて窓の外を見た。
夜空が見える。星が出ている。
あの星の中のどこかに、今打ち上げた衛星が飛んでいる。あの星の中のどこかに、この惑星がある。地球ではない惑星。地球と同じ宇宙の、別の惑星。
「……飛んでいるな」
独り言だった。
誰かが聞いた。「何が」
「衛星が。あの空のどこかを飛んでいる。あれが見えれば、向こうも見える。見えれば、分かる」
「分かれば、どうするかを決められる」
「そうだ」
二人は少しの間、夜空を見た。
何も見えない。衛星は肉眼では見えない。だが、飛んでいる。
飛んでいることが、今日一番重要なことだった。
そしてもう一つ。分かっていることがある。
飛んでいる衛星が今夜見ている方向に、何かがある。北西に。大きな陸地から出てきた、均一速度で移動する艦隊。来るかどうかも分からない。いつ来るかも分からない。目的も分からない。
だが、見えるようになった。
見えるようになったことが、今日の成果だ。
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同日 深夜 ダーウィン 十六夜さくら
分析室に明かりがついていた。
十六夜は新衛星のデータを見続けていた。北西の反応。形が見えてきた艦隊。均一速度で移動する集団。
「輸送艦隊」と言ったが、断定はできない。
だが、一つのことが気になっていた。
移動の方向だ。
これまでの観測では、北西の反応はこちらへ向かっている、という推定だった。だが、新衛星のデータで精度が上がった今、改めて移動方向を確認すると。
「……真っ直ぐではない」
艦隊の進行方向が、日本やオーストラリアを直接指していない。わずかにずれている。
航路上に日本やオーストラリアが入っているとも言える。だが、目的地が日本やオーストラリアではない可能性もある。
そのずれの先に何があるのか。地図にはまだ何も書かれていない。
十六夜は画面から目を離して、壁を見た。
あの朝、外側には何もなかった。今日、北西に艦隊がある。帆船以外の大型艦が複数いる。均一速度で移動している。真っ直ぐではない方向に。
分からないことが増えた。
だが、分からないことが増えるということは、見えているものが増えたということだ。見えていなければ、分からないことすら分からない。
「面白いですね」
十六夜は独り言を言った。怖いが、面白い。
向こうは、どこへ向かっているのか。
何のために動いているのか。
捕虜は、何を伝えようとしているのか。
問いが重なる。答えはない。だが問いがある以上、次がある。
今夜の最後の問いが、次の朝の最初の問いになる。
その繰り返しが、この惑星での仕事だった。
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同日 深夜 官邸廊下
白瀬は廊下でメモ帳を出した。
あの朝から何度も書いてきた三つの言葉。「確認できない」「理由がない」「前提」。
そして後から加わった言葉。「確認できた」「話す」「地図」。
今日、また一つ加わった。
「見えた」
衛星が上がった。北西の艦隊の形が見えてきた。輸送艦隊かもしれない。方向がずれている。捕虜が話しかけてきた。LNGタンカーが出た。
全部が今日起きた。
全部が繋がっているかどうかは、まだ分からない。だが、全部が起きた。
あの朝、外側には何もなかった。
今日、北西に艦隊がいる。捕虜が話したがっている。タンカーが動いている。衛星が飛んでいる。
「急ぐな。だが止まるな」
黒崎の言葉を、白瀬は廊下で繰り返した。
止まれない。止まれば、次の問いに追いつけなくなる。
廊下の蛍光灯がいつも通りに唸っていた。あの朝からずっと、そうだった。
その音がいつも通りであることが、今夜は少しだけ頼もしく感じられた。
変わらないものがあるから、変わっていくものが分かる。
◆H-IIA改良型
JAXA(宇宙航空研究開発機構)が開発した大型ロケット。今回は地球用の設計をこの惑星の条件に合わせて調整した版を使用。完全な最適化はできていないが、軌道投入は成功した。失敗リスクを承知の上で、情報収集の緊急性を優先した打ち上げだった。
◆複合衛星
観測衛星と測位衛星の機能を一機に統合した衛星。本来は別々に打ち上げるものだが、打ち上げ能力と燃料の制約から、機能を統合した。精度は専用機より落ちるが、一度の打ち上げで複数の機能を確保できる。




