準備という名の現実
西暦××××年××月××日 首相官邸地下 危機管理センター 午前8時
「衛星の現状を整理します」
藤堂が言った。スクリーンに図が映し出される。この惑星の概略図。円の中央に日本列島。その周囲に、衛星の軌道を示す線。線は少ない。
「現在機能している衛星は四種類です。一、みちびき。準天頂衛星システム。日本上空に軌道があったため残存しています。ただし地球での精度を前提に設計されています。この惑星では照合基準がないため、精度は大幅に低下しています」
「具体的にどのくらい低下しているんだ」
「地球での精度は数センチメートルから数メートルです。現在は数キロメートルから数十キロメートルの誤差が出ています」
「使い物にならないに近いな」
「航行の補助程度には使えます。ただし精密誘導には使えません」
「二つ目は」
「あの朝に日本上空にいたGPS衛星です。複数機が残存していますが、もともと全球配置を前提としたシステムです。全球の衛星が揃って初めて正常に機能する。現在は日本上空の数機しかないため、カバーできる範囲が極めて限定的です」
「三つ目は」
「オーストラリアのGPS衛星です。同様に数機残存しています。同じ問題を抱えています」
「四つ目は」
「ひまわりです」
藤堂は少し間を置いた。
「気象衛星ひまわりが、静止軌道上に残存しています。高度約三万六千キロメートルの静止軌道にいたため、転移後も軌道を維持している可能性が高い。実際に信号を確認しています」
「使えるのか」
「一部は使えます。ただし問題があります。ひまわりは地球の特定位置の上空に静止している前提で設計されています。この惑星では、厳密に同じ位置の上空に静止できているかどうかの照合ができません。ただし広域観測という意味では、現存する衛星の中で最も有効です。日本上空とその周辺の広い範囲を、継続的に観測できます」
「気象以外にも使えるか」
「雲の観測という形で、海域の状況をある程度把握できます。また、大型の艦隊が移動していれば、気象データに影響が出る可能性があります。間接的な観測に使えます。ただし精度は低い」
「使えるものは全部使え」
「了解です」
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スクリーンの図に、衛星のカバー範囲が示された。
日本周辺と、オーストラリア周辺。そして、ひまわりが観測できる広域の範囲。それでも、この惑星全体から見れば、ごく限られた範囲だ。
「この惑星は地球の何倍だったか」
「推定で直径が地球の二倍以上です。表面積は四倍以上になります」
「その四倍以上の惑星に対して、これだけか」
「はい。残りは完全に空白です。何があるか分かりません」
室内が静まった。
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「大艦隊の件に戻ります」藤堂が続けた。「衛星観測で北西方向に反応を確認しています。ただし」
「ただし」
「精度が低すぎます。方向は北西と特定できましたが、距離が分かりません。規模が分かりません。速度が分かりません。そもそも」
藤堂は一拍置いた。
「艦隊かどうかも、確定していません」
「どういうことだ」
「統制の取れた移動パターンを示している、という分析が出ています。ただしそれは、衛星精度の低い状態での観測から導いた推定です。艦隊に見えているが、別の何かである可能性も排除できません。また、こちらへ向かっているように見えているが、途中で針路を変える可能性もあります。来るかどうかも、いつ来るかも、今の段階では分かりません」
黒崎は少し間を置いた。「確認できていないことは確認できていないと言え。"大艦隊が来る"という言葉は今日は使わない」
「了解です」
「正確に言えば」
「北西方向に、統制の取れた移動パターンを持つ複数の反応を確認しています。こちらへ向かっている可能性があります。詳細は衛星精度の問題から確認できていません」
「それで足りるか」
「足ります」
「ならいい」
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「防衛計画の見直しについて」
吾妻が口を開いた。「現状の問題を整理します。通常の防衛計画は、脅威の方向・規模・速度・装備が分かった上で立てます。今回はそのどれも確定していません」
「立てられないか」
「通常の形では立てられません。ただし、立てられないからといって何もしないわけにはいかない。今日から考え始めます。衛星が上がり次第、計画を更新する前提で、現時点での最善を考えます」
「何から始める」
「まず現状の戦力の棚卸しです。自衛隊が持っている装備・人員・燃料・弾薬の現状を正確に把握します。次に、帆船との交戦から得られた情報を分析します。76ミリ砲が有効だった。レーダーには映らなかった。計測器に映らない現象があった。その情報をもとに、どの装備が有効で、どの装備が有効でないかを整理します」
「計測器に映らない現象への対処は」
「現時点では手段がありません。ただし「しょうなん」での分析が進めば、何か分かるかもしれません。分析結果を待ちながら、現状の装備でできる最善を考えます」
「急ぐな。だが止まるな」
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「資源の現状を確認する」
黒崎は経産省の担当者を見た。
「現状をお伝えします」担当者が言った。「石油は現在の消費ペースで約百日分。LNGは約六十日分。石炭は約九十日分。節約を徹底した場合、それぞれ一・五倍から二倍程度に延ばせます」
「食料は」
農水省の担当者が引き取った。「カロリーベースでの備蓄は約百二十日分。ただし輸入依存の品目、特に小麦・大豆・トウモロコシは早期に不足します。国内生産だけでは、現在の消費量の四割程度しか賄えません」
「オーストラリアから供給できるものは何だ」
後藤が答えた。「LNG・石炭・鉄鉱石については豊富に供給できます。食料も、小麦・牛肉・砂糖は可能です。ただし」
「ただし」
「石油については、オーストラリアも同じ問題を抱えています」
「どういうことだ」
「オーストラリアは石油の産出国ではありますが、国内消費量が国内生産量を大幅に上回っています。精製能力も限られています。あの朝以前から、石油については輸入に大きく依存していました。LNGや石炭とは違い、石油の供給をオーストラリアに頼ることはできません」
室内が静まった。
「つまり」黒崎が言った。「石油については、日本もオーストラリアも同じ問題を抱えている、ということか」
「その通りです。両国とも、石油の新たな供給先を、この惑星のどこかに求めなければなりません。どこに石油があるかを探すには、地図が要ります。地図を作るには衛星が要ります」
「また循環するな」
「はい」白瀬が言った。「どこかで循環を断ち切る必要があります。LNG・石炭については先にオーストラリアとの取引を始めることができます。そこから資源確保の枠組みを作り、衛星打ち上げの燃料を確保する。石油については、衛星が上がって地図ができてから、供給先を探す。順番を分けて考えます」
「それでいい。その方向で進めろ」
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「衛星の追加打ち上げについて」赤城が資料を出した。「種子島から追加打ち上げが可能です。ただし制約が複数あります」
「言え」
「一、打ち上げ能力の問題。一度に打ち上げられる衛星の数は限られます。最速で三ヶ月。通常は六ヶ月から一年です」
「三ヶ月か」
「はい。二、燃料の問題。ロケット燃料の備蓄は有限です。LNGはオーストラリアから確保できますが、ロケット燃料に使える形への転換に時間と設備が要ります。三つ目の制約は優先順位の問題です。測位衛星、通信衛星、観測衛星。何を先に打ち上げるかを決める必要があります」
「どれが最優先だ」
赤城は少し間を置いた。「状況によって変わります。北西の反応の詳細を知るなら観測衛星。防衛計画を立てるなら測位衛星。資源の供給先を探すにも観測衛星が要ります。ひまわりが生きているため、気象観測は最低限維持できています。優先は観測衛星と測位衛星の組み合わせです」
「オーストラリア側の打ち上げ能力は」
「独自の打ち上げ施設はありますが規模が小さい。日本の種子島の方が能力が高い。オーストラリアは土地と資源を提供し、日本が打ち上げを担う形が現実的です。異なる位置から打ち上げれば、カバー範囲が広がります。それでもこの惑星全体をカバーするのは現実的には不可能です。優先する方向を決めて、そこから始めるしかありません」
「優先する方向は北西だ」黒崎は言った。「何が来るかも分からないが、来た場合に備えて、まず北西を見られるようにする」
「了解です」
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「集団的自衛権について」後藤が口を開いた。「ダーウィンでの会議後、オーストラリア側から非公式な打診がありました。日豪間での共同防衛体制の構築です」
「詳しく」
「北西の反応について、オーストラリアも同じ懸念を持っています。一国では対応できないと判断している。日本の防衛力を必要としている。同時に、日本もオーストラリアのLNG・石炭・食料・土地を必要としている。お互いが必要としているものを持っている」
「集団的自衛権の行使は」黒崎は言った。「憲法上の問題がある。手続きが要る。時間がかかる」
「はい。ただし」後藤は続けた。「この惑星における憲法の前提が変わっている可能性があります。日本国憲法は地球上の日本という前提で作られています。この惑星において、その前提がどこまで有効かという問いが出てきます」
「その問いは今日は置く」黒崎は言った。「ただし整理しておけ。法制局を動かせ。時間をかけて丁寧にやる。ただし止まるな」
「了解です」
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「整理する」黒崎が言った。「今日決まったことを確認する」
白瀬が引き取った。「一、衛星の追加打ち上げを最優先とする。観測衛星と測位衛星を優先。北西方向のカバーを先に行う。二、オーストラリアとのLNG・石炭・食料の取引枠組みを先行させる。石油については別途供給先を探す。三、防衛計画の見直しを開始する。現状の戦力の棚卸しと、帆船との交戦データの分析から始める。四、集団的自衛権の行使については法制局が検討を開始する。結論は急がない。ただし止めない。五、北西の反応については、来るかどうかも含めて確認を継続する。断定はしない」
「確定」白瀬が言った。
「急ぐな。だが止まるな」
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同日 防衛省 吾妻英二
吾妻は地図を見ていた。
日本列島の地図だ。だが、その外側が空白だ。大艦隊と呼んでいいのかも分からない何かが、どの方向から来るかも、どの海域を通るかも分からない。
これまでの防衛計画は、地球上の日本を前提にしていた。ロシア、中国、北朝鮮。脅威の方向は決まっていた。装備の種類も、配置も、訓練も、すべてその前提の上にあった。
今、その前提が全部崩れた。
ロシアはいない。中国はいない。北朝鮮はいない。代わりに、言語も目的も技術体系も不明な何かが、北西の方向から来つつあるかもしれない。
「計測器に映らない現象」を持つ相手に、現代の兵器がどこまで有効か。帆船を止めたのは76ミリ砲だった。だが、あの帆船一隻と、複数の反応は違う。
吾妻は資料を閉じた。
「まず地図だ」
衛星が上がらなければ、防衛計画は立てられない。立てられない防衛計画を、今日から考え始める。それが今日の仕事だった。
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同日 ダーウィン 分析室 十六夜さくら
衛星の五周目のデータが届いた。
北西方向の反応は、また変化していた。
大きくなっている。だが今回は、単純に拡大しているのではなく、形が変わっている。点だったものが、広がりを持ち始めている。
「……複数かもしれない」
独り言だ。
単体が大きくなったのか、数が増えたのか。精度が低すぎて断定できない。ただ、点が広がりに変わりつつあるように見える。
「面白いですね」
その言葉が出た。怖いが、面白い。
十六夜は赤城に連絡した。「来てください。形が変わっています」
赤城が入ってきた。画面を見た。
「……複数に見えるな」
「見えます。ただし断定できません。精度が低すぎます。複数に見えているが、単体が広がって見えているだけかもしれません」
「移動方向は」
「依然として、こちらへ向かっている可能性があります。ただし途中で変わるかもしれません。今の段階では可能性に過ぎません」
赤城は画面から目を離して、十六夜を見た。「官邸に上げる。ただし言葉は慎重に」
「どう言いますか」
「"北西方向の反応の形状が変化している。複数である可能性が出てきた。断定はできない。衛星精度の向上が急務"。それだけだ」
「それだけで十分です」
赤城は短く言った。「了解だ」
画面の中で、広がりを持ち始めた反応が、ゆっくりと、しかし確実に、変化し続けていた。
◆ひまわり(気象衛星)
静止軌道(高度約36,000km)上に位置する気象衛星。低軌道衛星と異なり、地球と同じ速度で回転するため特定の地域を継続的に観測できる。転移後も軌道を維持している可能性が高い。ただしこの惑星での位置照合基準がなく、精度の確認ができていない。広域観測という意味では現存する衛星の中で最も有効。
◆オーストラリアの石油事情
オーストラリアは石油産出国ではあるが、国内消費量が国内生産量を大幅に上回っており、精製能力も限られている。LNG・石炭・鉄鉱石は豊富だが、石油については日本と同様に輸入依存の構造にある。両国が共通して石油の新たな供給先を必要としている。




