表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/57

陸が見える

西暦××××年××月××日 海上 ダーウィン沖 午前5時47分


三日間かかった。


ワラマンガの速度に合わせて、三艦はゆっくりと進んだ。二・七ノット。海図上ではほとんど動いていないような速度だ。だが止まらなかった。止まらなければ、いつかは着く。


その三日間、「しょうなん」の観測では捕虜近傍の周期振動が継続していた。周期は少しずつ縮まり続けた。何かに近づいている。あるいは、何かが近づいてきている。どちらなのかは、まだ分からない。


捕虜の男は隔離区画で生きていた。食事を受け取った。水を飲んだ。言葉は通じなかった。だが観察は続けていた。こちらの動きを。機器の配置を。人の顔を。


「あさひ」乗員は交代で眠った。眠れた者と眠れなかった者がいた。眠れなかった者は、窓の外を見ていた。海は暗く、静かだった。何も変わらなかった。


三日間、海は同じ顔をしていた。


────


夜明け前の空が、東から白み始めた。


当直が交代した直後だった。


「……陸が見えます」


若い水測員が言った。声は平静を保っていた。だが、その一言が艦橋の空気を変えた。


「方位は」


「北北東。距離、約十二海里」


川上は双眼鏡を構えた。


暗い。まだ暗い。だが水平線の上に、空とは違う密度の暗さがある。低く、長く、横に広がっている。


陸だ。


それだけだ。形は分からない。高さも分からない。何があるかも分からない。ただ、確かにそこに「ある」。


あの朝以来、日本の外側は「応答がない状態」だった。電波を送っても返ってこなかった。ロシアが来なかった。韓国が来なかった。中国が来なかった。帆船が来るまで、外側からは何も来なかった。


だが今、外側が「ある」。


地図の上の話ではない。画面の中のデータでもない。双眼鏡越しに、目で確認できる「ある」だ。


────


艦橋に数人が集まってきた。


交代直後の当直員が残っている。非番のはずの者も来た。誰も「来ていいか」とは聞かなかった。だが誰も追い返さなかった。


全員が、同じ方向を見ていた。


誰も何も言わなかった。しばらくの間、艦橋には沈黙があった。空調の音と、主機の遠い振動だけが聞こえた。


「灯りが見えます」


別の当直員が言った。「北北東、水平線付近に複数の光点。規則的な間隔です。港湾施設か、あるいは市街地の灯りかと思います」


灯りがある。


灯りがあるということは、電力がある。電力があるということは、社会が動いている。社会が動いているということは、人がいる。


当然のことだ。オーストラリアが存在することは、マクブライド少佐が来た日に確認した。ワラマンガと合流したときに確認した。だが「知っている」と「見える」は違う。


今、初めて「見えている」。


「……本物だな」


誰かが言った。誰が言ったのか、川上には分からなかった。艦橋にいる全員の声が重なったように聞こえた。


────


ワラマンガから通信が来た。「「あさひ」、ダーウィンの灯りが見えるか」


川上は答えた。「見えています」


「どう見える」


川上は少し間を置いた。「……本物だと思います」


一拍の沈黙があった。


「そうだ」ワラマンガ艦長の声が言った。「本物だ。三日間よく来てくれた」


「こちらこそ。案内していただきました」


「いや」ワラマンガ艦長は続けた。「「あさひ」が来てくれたから、我々も戻れた。感謝している」


川上は答えなかった。答えようとしたが、言葉が出なかった。


感謝を受け取る言葉が、今は用意できなかった。


「しょうなん」から割り込み通信が来た。「周期振動、変化しています。周期が急激に縮まっています。一・二秒。一・一秒」


「捕虜の状態は」


「安定しています。ただし、意識が明確になっています。灯りの方向を見ています」


「灯りの方向を」


「はい。艦橋とは隔離区画の向きが違いますが、ダーウィンの方向を正確に向いています。壁越しに分かるわけがありませんが、その方向を見ています」


川上は双眼鏡を下ろした。


捕虜も、この灯りを知っている。あるいは感じている。それが何を意味するのかは、まだ分からない。


「記録しろ」


「了解です」


────


同時刻 官邸地下


「「あさひ」よりダーウィン沖到達の報告が入りました」藤堂が言った。「入港許可をオーストラリア側と調整中です。ワラマンガの損傷修理を名目に、「あさひ」と「しょうなん」もダーウィン港に入る方向で話が進んでいます」


「日本の艦が外国の港に入る」相馬が言った。「あの朝以来、初めてだな」


「はい。日本の艦艇が外国の領土に接触するのは初めてです」


黒崎は少し考えた。「問題は何だ」


「整理します」白瀬が言った。「一点目。外交上の正式な取り決めなしに、自衛艦が外国港湾に入港する。法的な根拠を整理する必要があります。二点目。乗員が外国の土地に降り立つ可能性がある。その場合の行動規範が定まっていません。三点目。現地で何を見て、何を報告し、何を持ち帰るか。情報管理の基準が必要です」


「全部、今から決めるんだな」


「はい。前例がありません」


「だが」黒崎は言った。「「あさひ」はもうそこにいる。決める前に現実が来ている」


「確定」白瀬が言った。


「「あさひ」艦長に伝えろ」黒崎は続けた。「入港は許可する。乗員の上陸は艦長判断に委ねる。ただし記録は全て残せ。見たもの、聞いたもの、感じたこと、全部だ。判断はこちらでやる」


「了解です」


「それと」後藤が言った。「オーストラリア側への対応ですが、今回の入港を機に、政府間での正式な情報共有の枠組みを作る提案をしたいと思います。これまでは軍同士の非公式接触でした。今回は艦が港に入る。それは非公式では済まない段階です」


「タイミングは」


「入港後、速やかに。現場の事実が先行している以上、政府間の整理はなるべく早い方がいい」


「準備しろ。ただし急かすな。こちらから急かせば、条件を付けられる」


「了解です」


────


「あさひ」艦橋 夜明け


空が白くなっていく。


水平線の上の陸の輪郭が、少しずつはっきりしてくる。低い丘。平らな海岸線。点在する灯り。それらが、夜明けの光の中に浮かび上がってくる。


「ダーウィンです」当直士官が言った。「間違いありません」


川上は頷いた。


艦橋に集まっていた乗員たちは、誰も動かなかった。交代の時間を過ぎていたが、誰も持ち場に戻らなかった。全員が同じ方向を見ていた。


「……あそこに人がいるんですね」


若い水測員が言った。独り言に近い声だった。「あの灯りの下に、人がいる。生活している。あの朝から、外にも人がいたんですね」


誰も答えなかった。


答える必要がなかった。


「しょうなん」の艦長から通信が来た。「「あさひ」、見えているか」「見えています」「……長かったな」その一言だけだった。


長かった。あの朝から今日まで。外側が「ない」と思っていたわけではない。「確認できていない」と言い続けてきた。確認できないものに名前を付けなかった。


だが今日、名前を付ける必要がなくなった。


見えているからだ。


────


夜明けの光の中に、ダーウィンの港湾施設が見えてくる。クレーン。桟橋。係留されている船。建物の輪郭。


それらはすべて、見慣れた形をしていた。


クレーンはクレーンだった。桟橋は桟橋だった。船は船だった。建物は建物だった。


当たり前だ。だが、その当たり前が、今日だけは特別な重さを持っていた。


この惑星は、地球ではないかもしれない。外縁の向こうには、帆船が来る世界がある。測定できない現象が起きる。


だが、クレーンはクレーンだった。


人が作ったものが、そこにある。その事実だけで、今日は十分だった。


────


「入港手続き、ダーウィン港湾管制と交信開始します」通信士が言った。


「頼む」


「こちら海上自衛隊護衛艦「あさひ」。ダーウィン港湾管制、聞こえますか」


一拍。


スピーカーから、はっきりした声が返ってきた。


「こちらダーウィン港湾管制。「あさひ」、聞こえています。待っていました。入港を歓迎します」


「……待っていた」誰かが繰り返した。


待っていてくれた。三日間の航行を、向こうで知っていた。待っていてくれた。


川上は前を向いた。「入港します」


「了解。誘導を開始します。ワラマンガを先行させてください。「あさひ」と「しょうなん」はその後に続いてください」


「了解しました」


三艦が、ゆっくりとダーウィン港へ向かって進み始める。ワラマンガが先頭に立つ。損傷を受けながらも、自国の港へ帰っていく。


「あさひ」がその後に続く。


川上は、桟橋に人影が見えるのに気づいた。まだ距離があるが、確かに人がいる。並んでいる。こちらを見ている。


「……出迎えがいます」


「そうだな」


川上は頷いた。待っていてくれた人がいる。


あの朝から今日まで、日本は沈黙を守ってきた。外側を「確認できない」と言い続けてきた。その沈黙の向こうで、外側も待っていた。


同じ朝を経験した人たちが、港で待っている。


「あさひ」が、ゆっくりと日本の外側へ進んでいく。


────


同時刻 隔離区画


捕虜の男は、壁に向かって座っていた。


ダーウィンの方向を向いている。壁越しに、港が見えるわけがない。だが男は、その方向を向いている。


男の胸元の紋様が、ごく微かに光っていた。


「しょうなん」の観測では、周期振動が一・〇秒に達していた。


一定。揺らぎがない。


まるで、何かが同期を完了したかのように。


「しょうなん」の観測士が報告した。「振動周期、一・〇秒で安定しました。揺らぎがありません。何かが完了した可能性があります」


「完了、とはどういう意味だ」


「分かりません。ただ、三日間かけて縮まり続けた周期が、今ここで止まりました。何らかの目的が達成されたと考えられます」


川上はその報告を聞いた。


目的が達成された。


捕虜は何かを達成した。この三日間、この場所を移動しながら、何かを達成した。何を。


「記録しろ」


「了解です」


────


官邸地下


「「あさひ」、ダーウィン入港を開始しました」


相馬は目を閉じた。数秒。


あの朝から今日まで。「確認できない」を守り続けてきた。確認できないものに名前を付けなかった。測れるものだけを測ってきた。


今日、日本の艦が、外国の港に入る。


それは、「外側がある」という確認の、最も具体的な形だった。


「次の段階の準備を始めろ」相馬が言った。「オーストラリアと正式に話す。これまでは非公式だった。今日からは違う」


「話す内容は」


「全部だ」相馬は言った。「今まで言えなかったことを、全部話す。その準備をしろ」


「了解です」


白瀬がメモ帳を出した。廊下で何度も書いてきた三つの言葉。


「確認できない」「理由がない」「前提」


今日、その三つが少しずつ形を変え始めていた。


「確認できた」ものが、増え始めていた。

◆ダーウィン(Darwin)

オーストラリア北部、ノーザンテリトリー準州の州都。人口約15万人。オーストラリア最北端の主要都市で、アジアとの玄関口でもある。RAAF(王立オーストラリア空軍)基地とオーストラリア海軍の施設を持つ軍事的に重要な拠点。今回、損傷したワラマンガの母港として設定した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ