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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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18/57

引き上げられた者

西暦××××年××月××日 海上 外縁方向 午後


煙はまだ海面を漂っていた。


黒煙は低く垂れ込み、潮と油と焦げた塗装の匂いが混ざり合っている。波は穏やかだが、水面は薄く虹色に光っている。陽光はある。空も青い。だが海だけが、戦闘の記憶を引きずっていた。


「あさひ」は救難行動に移行していた。


対空警戒維持。対潜警戒継続。主砲待機。


射撃は止まっても、索敵は止まらない。救難は戦闘の延長だ。救助中が最も無防備になる。それを全員が知っている。


「左舷二十度、漂流者確認」「担架前へ」「救命索準備」


足音は速いが、慌ててはいない。全員が手順を知っている。感情は持ち場に置いてきた。今は手順だけだ。


救難艇が降ろされる。ウインチの金属音が甲板に響き、艇体が水面に触れた瞬間、油膜がわずかに揺れる。海面には、破片と油と人影。


────


乗員は全部で十二名。そのうち七名が交戦中に死亡していた。残る五名を収容した。


最初に引き上げられたのはワラマンガ乗員だった。顔は煤で黒く、制服は裂けている。しかし脈はある。「意識あり。呼吸安定」酸素マスクが装着され、担架へ。


次に、帆船の乗員。


装備が違う。


鋼板鎧のようだが、接合部の構造が不自然だ。リベットがない。溶接もない。金属同士が継ぎ目なく一体化している。衝撃で歪んだはずなのに、割れ目がない。裂けていない。


布地には幾何学紋様。刺繍というより、織り込みだ。糸が単なる装飾ではなく、何らかの構造体の一部のように見える。回路のようでもあり、古い宗教文様のようでもある。


救難員が腕を掴んだ瞬間。


わずかに、空気が震えた。


ほんの一瞬、耳鳴りのような圧迫感。


「……今の、感じたか」「気のせいだろ」


だが、互いの目が合う。同じ違和感を共有している。


数値に変化はない。電磁計測、異常なし。気圧変動、検出なし。磁場変動、なし。


だが、何かが違う。


意識を取り戻した男の目が開く。視線が合う。怯えではない。混乱でもない。計算している目だ。周囲を確認し、人数を数え、装備を見ている。自分の状況を即座に把握している。


「あさひ、救難艇より。帆船乗員の装備に異常な反応あり。詳細不明」


────


「あさひ」艦橋 川上一佐


報告を聞きながら、川上は短く命じた。「帆船内の装備は全て密閉容器に入れて「しょうなん」に移送する。直接触れるな。接触した者は医療観察に入れる」「了解します」


武装解除で回収した器具が解析室に運ばれた。腰部から収容された短剣状のもの。金属ではない。刃はあるが、刃物の質感ではない。表面に同じ紋様が走っている。それは武器というより、媒介装置のように見える。


布の紋様に触れた瞬間、微弱な振動が記録装置に走った。ほんの一瞬。波形は不規則。周期性なし。エネルギー源推定不能。


「再試験を」別の技術員が触れる。何も起きない。最初に症状が出た技術員がもう一度触れる。今度も頭痛を訴える。「同じ人間には再現する。別の人間には起きない」解析班が顔を見合わせる。人間の側に条件がある。


「面白い発見ですね」十六夜のような言い方だ、と技術員は思った。だがそれは適切な反応だった。面白い。怖いとも言える。しかし今は、両方が同時に正しい。


────


隔離区画


男は椅子に座らされていた。拘束は最小限だ。


壁の材質。天井の配線。カメラの位置。空調の音。ドアの形。人の動き。まるで、こちらが観察対象であるかのように、一つ一つを確認している。


医療員が近づく。男は視線を外さない。バイタルを測られる間も、医療員の動きを目で追い続けている。


「……普通の捕虜じゃないな」医療員が低く言った。「恐怖反応が出ていない。ストレスホルモンの値が戦闘直後とは思えないほど低い」


川上は副長に言った。「データを全て本国へ即時転送しろ。発光時の映像、音声スペクトル、微振動波形、全部だ」「了解です」


数分後、返信。


『分解禁止。現状維持。可能であれば観測艦「しょうなん」へ移送。』


艦長は頷く。「しょうなんとの合流を最優先にする。ヘリ搬送準備」格納庫でローター整備が始まった。


────


そのとき。


隔離区画の環境センサーが反応した。「空気密度、微変動」


通常では起きない数値。誤差範囲とも言える。だが直前の事象と重なる。


男が目を開く。


意図的に、ゆっくりと、音を発する。明確な発声。抑揚がある。意味がある。目的がある。


胸元の紋様が発光。今度は五秒。先ほどより長い。光は脈打つように強弱を持つ。一定のリズム。まるで信号。


監視カメラが一瞬ブラックアウトした。電源系統は正常。しかし映像だけが落ちた。ログにはエラーが残らない。記録媒体だけが空白を示している。


「……妨害か?」「電源、正常です」「電磁波、検出なし」「何が起きたのか分かりません」


映像が戻ったとき、男の表情が見えた。


優越。


自分が「理解されていない」ことを知っている者の表情。


これは事故ではない。実験だ。こちらの反応を観察している。


「こちらが観察しているつもりが、向こうに観察されている」当直士官が小さく言った。川上もそれを感じていた。


川上は短く命じた。「しょうなんとの合流を最優先」


────


同日 ワラマンガ機関区画


蒸気と油の匂いが混ざる狭い空間で、応急班が膝をついていた。工具が軋み、ボルトが締め直される。


「主機第一系統、軸受損傷」「第二系統、回転可能。ただし振動大」


止水は完了している。だが推進軸は歪んでいる。回転はする。だが完璧ではない。


「全力は無理だ」機関長が短く言った。「二・五ノットが限界」


それでも回る。それは「生きている」ということだ。


CICへ報告が入る。『ワラマンガ、微速前進可能』


「あさひ」艦長は即座に判断した。「曳航は行わない。あさひの機動が制限される。未知の敵がいる海域でそれは危険だ。自走で移動。あさひは外周護衛」


ワラマンガ艦長の声は疲労しているが、はっきりしている。『了承。本艦、微速航行開始』


艦体がわずかに震える。ゆっくりと前へ進む。


速度二・七ノット。


海図上ではほとんど動いていないように見える。だが停止ではない。それが決定的に違う。


────


「あさひ」はワラマンガの左舷側、五百メートル外側を並走した。距離は近すぎず遠すぎず。即応可能な間合いだ。レーダーは全周警戒。ソナーは断続的にアクティブ照射。「しょうなん」はやや後方で観測を継続する。


三艦が隊形を組む。三角陣形。中央に損傷艦。外周に防護。


それは戦時の陣形だった。


「確認」という言葉から始まった航海が、今日この陣形に変わった。言葉の意味と現実の重さが、今日ようやく一致した。


────


「あさひ」艦橋


川上は窓の外を見た。ワラマンガの灯りが見える。損傷を受けながらも動いている。


ワラマンガから通信が来た。「目的地はダーウィンを想定。航路を共有する」


「了解しました」川上は海図を見た。約八百海里。この速度では数日かかる。その間、何も起きない保証はない。


「護衛を続けます」


「感謝する。「あさひ」が伴走してくれれば心強い」


通信が切れた。


ワラマンガはゆっくりと進む。あさひはそれを守る。それだけだ。今夜のうちに答えは出ない。だが、動きを止めるわけにはいかない。


────


そのとき。


「しょうなん」から通信が入った。


「局所空間振動、微弱ながら持続検出。発信源はワラマンガ近傍です」


「あさひ」CICに緊張が走る。


「詳細を」


「捕虜が隔離区画に収容されてから継続して検出されています。距離が離れても反応は持続しています。周期を持ち始めています」


周期を持つ振動。距離が離れても続く。


「偶発ではないということか」


「はい。まるで何かの同期を取るように、あるいは座標を合わせるように、周期が整いつつあります」


川上は副長を見た。副長は何も言わない。言えることがない。


これは退避航行なのか。それとも、何かに「導かれている」のか。


────


官邸地下


「現状整理です」藤堂が言った。「「あさひ」と「しょうなん」はワラマンガを護衛しながら外縁方向からの離脱を開始しました。捕虜一名を収容し、「しょうなん」への移送準備中です。帆船内部の装置も「しょうなん」への移送準備中です。現在「しょうなん」が捕虜近傍で局所空間振動を継続検出しています。周期性があります。方法不明です」


「捕虜はどういう状態だ」


「安定しています。医療的には問題ありません。ただし」藤堂は少し間を置いた。「生体データが異常です。戦闘直後の捕虜としてはストレス反応が極端に少ない。恐怖反応がほとんどない」


「……落ち着いている、ということか」


「計算しているように見えます、と現場から報告が来ています」


黒崎は少し間を置いた。「「あさひ」の艦長判断については」


白瀬が言った。「海賊対処法第六条の適用は法的に問題ありません。ワラマンガが被弾した事実、公海上での武装船舶による攻撃という要件は満たしています。今回は問題ありませんでした。ただし」「ただし」「次に同じことが起きたとき、同じ根拠で動けるかどうかは別の問いです。相手が何者かが分からないまま、毎回この解釈を適用することの危うさは整理が必要です」


「整理しろ。今夜中に」「了解です」


十六夜が口を開いた。「捕虜近傍で検出されている振動についてですが」「何だ」「これは、帆船から検出されていた電磁的な信号と周波数帯が重なっています。同じ発生源から来ている可能性があります」


「捕虜自身が発信しているということか」


「捕虜の体内か、あるいは回収できていない装備か。どちらかが発信源の可能性があります。ただし、いずれにしても、計測器には映らない何かが使われています。私たちが持っている手段では捉えられていない」


「装置に触れて症状が出た者と出ない者がいる件は」


「それも同じ問題と繋がっているかもしれません。装置が触れた人間を何らかの方法で識別している。そしてその識別を行う原理が、計測器に映らない。同じ仕組みが、複数の現象の背後にある可能性があります」


「「しょうなん」に移送すれば分かるか」


「分かるかもしれません。分からないかもしれません。ただ、今の「あさひ」では手に負えない問題です。「しょうなん」の方が計測装置が充実しています」


「移送を急がせろ」


「急ぐな。だが止まるな」


────


「あさひ」艦橋 深夜


川上は窓の外を見た。


ワラマンガの灯りが見える。遅い。だが動いている。あの艦も眠っていない。


「しょうなん」は後方で静かに観測を続けている。三艦が三角陣形を保ちながら、ゆっくりと外縁から離れていく。


捕虜は隔離区画にいる。生きている。落ち着いている。そして「しょうなん」の計測には、今もその近傍で周期的な振動が検出されている。


川上は副長に言った。「捕虜の監視ログを全て残せ。言葉、発光のタイミング、空気密度の変化、全部だ。何かのパターンがあるかもしれない」「了解です」「それと」「はい」「今日の交戦の記録も全部残せ。帆船がこちらに向かってきた理由が分かるかもしれない。なぜ止まらなかったのか。なぜ向かってきたのか。理由があるはずだ」


副長は少し間を置いた。「……向こうは何をしようとしていたんでしょうか」


川上は答えなかった。答えが出ない問いだからではない。答えを言葉にした瞬間、それが前提になるからだ。


「記録しろ。判断は地上がやる」


「了解です」


────


夜が明けかけていた。


東の空がわずかに白み始める。ワラマンガの灯りが夜明けの光に溶け始める。


三艦は動いている。遅い。だが動いている。


「しょうなん」の観測では、周期振動はまだ続いている。二・八秒。二・七秒。わずかに縮まっている。


「また縮まっています」通信士が報告した。「何かに近づいているようです」


「何に向かっているんだ」


誰も答えない。答えられない。


川上は前を向いた。


海は青く、静かだった。


あの朝からずっと、そうだった。

◆救難行動の原則

海上での戦闘後、勝者は敵味方を問わず漂流者を救助する義務が国際法上定められている。これは人道上の規範であると同時に、海上における秩序の根幹でもある。今回「あさひ」は帆船の生存者を収容した。それは選択ではなく義務だった。


◆「観測対象の逆転」

捕虜の男は収容された後も「こちらを観察している」ように見えた。こちらが確認しに来たのに、確認されている。「確認」という行為が、今回初めて双方向になった瞬間。


◆局所空間振動の周期短縮

捕虜収容後から「しょうなん」が検出し続けている振動。距離が離れても持続し、周期が徐々に縮まっている。これが「何かへの同期」なのか「座標の収束」なのかは、現時点では不明。ただし「偶然ではない」という判断が艦内で共有されつつある。


◆「あさひ」の役割

護衛艦は戦闘と護衛に特化した艦だ。未知現象の分析は測量艦「しょうなん」の役割。今回「あさひ」は戦闘・護衛・捕虜管理を担い、分析を「しょうなん」に委ねる判断をした。それは能力の問題ではなく、役割分担の理解だ。

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