海に落ちた名
豪州基地 交渉の場
ナサが、名前の書き写しを終えた夜のことだった。
その日、ナサは朝から晩まで言葉を行き来させていた。午前は、浜の検疫天幕でノックスと商人の間に立った。午後は、北岸の町の住民の名を本国の文字に直した。夕方には、ジュディの報告書の一部を本国の言葉に訳した。
部屋には、ランプが一つだけ灯っていた。窓の外では、湾の水面が月を映していた。
十六夜は、ナサの手元の紙を見ていた。北岸の町の住民の名が、本国の文字で並んでいる。その横に、ナサが日本語で注を書き添えていた。
注は、一人ずつ丁寧に書かれていた。その人が何をしていたか。家がどこにあったか。今、何を待っているか。
注の一行に、十六夜の目が止まった。
グレアムさんは、町で金物屋をしていた人です。家が建つまで、壁に日を刻んでいます。
助詞が、全部入っていた。
十六夜は、その一行を何度も読み返した。「は」も「で」も「を」も「に」も、あるべき場所に収まっていた。句点で区切られた単語の並びではなかった。一つの文だった。
「ナサ」十六夜は言った。「これ、自分で書いたの」
「書きました」ナサは言った。「おかしいですか」
十六夜は、ナサの顔を見た。
ナサの声は、いつもと同じだった。だが、言葉と言葉の間に、句点が無かった。
「おかしくない」十六夜は言った。「一つも、おかしくない」
ナサは、少し考えてから、自分の口に手を当てた。
「あれ」ナサは言った。「今、つなげて話しましたね」
ナサは、もう一度何か言おうとした。口を開いて、閉じて、また開いた。自分の声を確かめるように、ゆっくりと言った。
「十六夜さんが、この部屋で、私の言葉を書いてくれていました」
一語も、途切れなかった。
ナサは、自分でも驚いたように目を見開いた。それから、困ったように笑った。
「いつもの話し方に、戻せなくなりました」
────
十六夜は、帳面を開いた。一年分の記録だった。
帳面は、もう十冊を超えていた。最初の一冊は、角が擦り切れて丸くなっていた。
最初は、単語だけだった。水。船。名前。次に、単語と単語をつなぐ小さな言葉が入った。疑問の「か」が入った。過去の形が入った。未来の形が入った。
一冊目の最初の頁には、ナサが初めて基地に来た日の記録があった。ナサが言った言葉は、二つだけだった。自分の名と、頼み、ある。十六夜は、その二語を書き留めて、横に小さく注を付けていた。助詞なし。動詞は終止形のみ。
三冊目には、ナサが初めて「か」を使った日が書かれていた。これは、何、か。問いの形を見つけた日だった。
五冊目には、過去の形。見た。来た。落ちた。証言の準備をしていた頃だった。
七冊目には、未来の形。行く。帰る。伝える。本国へ向かう舟の上で、ナサが繰り返していた言葉だった。
それが、今、一つの文になって流れていた。
「いつから」十六夜が聞いた。
「分かりません」ナサは言った。「ノックスさんの話を本国の言葉に直して、本国の言葉を日本語に直して。毎日それをやっていたら、頭の中で、二つの言葉が同じ速さで動くようになりました」
ナサは、少し照れたように笑った。
「片言の方が、皆さんに覚えてもらいやすかったんですけど」
「片言じゃなくても、覚えるわ」十六夜は言った。
十六夜は、帳面の新しい頁を開いた。日付は書かなかった。代わりに、一行だけ書いた。
ナサ、文で話す。
その下に、少し考えてから、もう一行書き足した。
注記、不要。
────
扉が開いて、白瀬が入ってきた。東京への報告を終えたところだった。
「まだ残っていたのか」白瀬は言った。
「白瀬さん」ナサは言った。「今日の報告は、もう終わりましたか。明日の船団のことで、ノックスさんから伝言があります」
白瀬は、扉の前で足を止めた。
ナサの顔を見て、それから十六夜の顔を見た。
「今のは」白瀬は言った。
「今日から、だそうです」十六夜は言った。
白瀬は、しばらく黙っていた。それから、手帳を開いて何かを書きかけた。だが、ペンを持ったまま、手を止めた。
「書くのは、やめておく」白瀬は言った。「記録に残すようなことじゃない気がする」
「記録には、私が残しました」十六夜は言った。
白瀬は、少しだけ笑った。それから、ナサに向き直った。
「伝言を、聞かせてくれ」
ナサは、ノックスからの伝言を伝えた。明日の船団の荷のうち、赤い芯の木は全て検疫天幕を通すこと。北岸の町の住民の一人が、その木を見に浜へ来ること。
一度も、言葉は途切れなかった。白瀬は、それを聞きながら、何度か頷いた。
────
その夜、ナサは宿舎の小さな部屋で、なかなか眠れなかった。
頭の中で、日本語が流れ続けていた。本国の言葉で考えようとすると、すぐに日本語が割り込んできた。逆も、同じだった。
ナサは、寝台の上で天井を見つめていた。
本国にいた頃、ナサは技術者だった。図面を引き、数字を計算した。その頃、頭の中にあったのは本国の言葉だけだった。
あの朝の後、この海に来た。言葉の通じない者たちの中で、名前と「頼み、ある」の二語だけで生きた。それから一年。
ナサは、目を閉じた。
夢の中で、母が本国の言葉で何か言っていた。ナサは、日本語で答えていた。母は、それを不思議そうに聞いていた。
────
豪州の側でも、同じことが起きていた。
浜の検疫天幕では、ジュディが本国の言葉を十ほど覚えていた。芯喰い。病の旗。皮を剥げ。焼け。それから、ありがとう。
本国の船大工は、英語を五つ覚えていた。虫。木。燃やせ。よし。それから、ありがとう。
二人は、それだけで大木を一本検めることができた。
ジュディが「皮を剥げ」と本国の言葉で言う。船大工が鑿を入れる。白い木肌が現れる。ジュディが虫眼鏡で覗き込む。何も無ければ、船大工に向かって英語で言う。
「よし」
船大工が、英語で同じ言葉を繰り返す。それから、二人で次の木に移る。
芯喰いの穴が見つかった時だけ、言葉が変わった。ジュディが「焼け」と本国の言葉で言い、船大工が英語で「燃やせ」と言う。同じ意味の言葉を、互いに相手の言葉で言い合っていた。
若い検疫官が、それを見て感心したように言った。
「通訳がいなくても、仕事ができていますね」
「十個あれば、足りる仕事もある」年配の検疫官は言った。「空港でも、そうだった。荷物を開けろ、これは何だ、持ち込めません。三つで足りた」
ノックスも、本国の言葉を一つ覚えていた。
ナサに教わった、名前、という言葉だった。北岸の町の住民の名を本国の文字で書いた紙の、一番上に書かれていた言葉だった。
ノックスは、その言葉を手帳の表紙の裏に書いておいた。本国の文字は、ナサに書いてもらった。その下に、自分で発音を書き添えた。
浜で本国の商人と向き合った時、ノックスは一度だけその言葉を使った。手帳を開き、北岸の町の住民の名が並んだ頁を見せながら、本国の言葉で言った。
名前。
商人は、少し驚いた顔をした。それから、頁を覗き込んで、ゆっくりと頷いた。
────
湾口 浜
次の船団に、ドラフォが乗っていた。
先頭の船の甲板に、赤い芯の木が積まれていた。樹皮は、全て剥がされていた。本国の南の島で切り出され、向こうの港で皮を剥いで運ばれてきた木だった。
剥かれた木肌は、薄い赤褐色をしていた。切り口の芯の部分が、名の通り深い赤に染まっていた。潮風に乗って、甘い樹脂の匂いが浜まで漂ってきた。
浜には、見慣れない姿があった。グレアムだった。
カーターの車で、朝早く町から来ていた。古いシャツに、折り目のついたズボン。ノックスに会った日と同じ服だった。手に、燃えた店の鍵を握っていた。
赤い芯の木が小舟で浜に運ばれてくると、グレアムはゆっくりとその傍らへ歩いていった。
検疫天幕の前で、ジュディと船大工が最初の一本を検めた。皮は既に剥かれていた。ジュディは、虫眼鏡で木肌を隅々まで見た。それから、本国の言葉で何か言い、英語で同じことを言った。
「よし」
年配の検疫官が、木の端に札を打ちつけた。
グレアムは、その木に手を当てた。
硬かった。拳で叩くと、コン、と詰まった音がした。グレアムは、長年の金物屋の勘で、その木に釘を打つ時の手応えを想像した。
「いい木だ」グレアムは言った。「白蟻も、歯が立たんだろう」
ナサが、それを船大工に伝えた。船大工は、少し得意げに頷いた。
────
ドラフォは、浜に降りるとまずカーターを探した。
カーターは、グレアムの少し後ろに立っていた。ドラフォは、カーターの前まで歩いてきた。
ナサが、二人の間に立った。
ドラフォは、カーターの横にいる年配の男に目を留めた。
「この方は」
「北岸の町の住民です」カーターは言った。「あの戦いで、家を失いました」
ナサが、それを本国の言葉に直した。
ドラフォは、グレアムの顔を見た。それから、浜に並んだ赤い芯の木を見た。
「オーレン」の船長から、話は聞いていた。湾口の艦隊が砲撃した町は、あちらの民の町ではなく、豪州という別の国の町だった。その町の住民の名が、評議会へ送られてくると。
ドラフォは、グレアムの前に進み出た。
「あの湾口の艦隊を、率いていた者です」ドラフォは言った。「あなたの町を撃ったのは、私の艦隊の砲です」
ナサが訳した。言葉は、途切れなかった。
グレアムは、しばらくドラフォの顔を見ていた。浜が、静かになった。カーターが、グレアムの横顔を見ていた。
「あんたが、将軍か」グレアムは言った。
「将軍ではなくなりました」ドラフォは言った。「今は、荷を運ぶ船の長です」
グレアムは、手の中の鍵を握り直した。
「その木は、あんたが運んできたのか」
「運んできました」ドラフォは言った。
グレアムは、赤い芯の木を見た。それから、ドラフォに目を戻した。
「なら、家が建ったら見に来い」グレアムは言った。「あんたの国の木で建った家を。あんたの艦隊が焼いた場所に」
ナサがそれを訳すと、ドラフォは深く頭を下げた。
「必ず」ドラフォは言った。
グレアムは、それ以上何も言わなかった。ただ、赤い芯の木に、もう一度手を当てた。
────
グレアムがカーターの車に戻っていった後、ドラフォはカーターに向き直った。
「北の軍港で、名前を探していました」ドラフォは言った。「掲示板の紙を破った男の、弟です。『ラウゼン』という艦に乗っていた」
ナサが訳した。今度は、句点で区切らずに。ドラフォの言葉の速さとほとんど同じ速さで、日本語が流れた。
カーターは、少し驚いた顔でナサを見た。昨日までのナサの訳とは、まるで違っていた。言葉の継ぎ目が、どこにも無かった。
それから、カーターはドラフォに向き直った。
「見つかりましたか」
「評議会の名簿に、名前がありました」ドラフォは言った。「湾口の二度目の砲撃の夜、海に落ちて行方知れず。死んだとは書かれていない。見つからなかった、と書かれていました」
ドラフォは、手帳を開いた。
「捕虜の名簿にも、帰らなかった者の頁にも、名前が無かった理由が分かりました」ドラフォは言った。「海に落ちたのを見た者が、誰もいなかったからです」
ドラフォは、手帳の頁を指で押さえた。
「夜の砲撃でした」ドラフォは言った。「『ラウゼン』は後衛にいた。砲煙で、隣の艦の甲板も見えなかった。点呼で一人足りないと分かったのは、夜が明けてからだったそうです」
────
ドラフォは、手帳の名前を読み上げた。
本国の名前だった。ナサが、それをそのまま繰り返した。
検疫天幕の前で、ジュディが顔を上げた。
木肌を検めていた手が、止まっていた。
「もう一度」ジュディは言った。
ナサが、名前をもう一度言った。
ジュディは、天幕から出てきた。ナサの前に立って、その名前を自分の口で繰り返した。発音は少し違っていた。それでも、同じ名前だった。
「その名前を、知っています」ジュディは言った。
浜が、静かになった。
「ここから東へ、海岸沿いに二日」ジュディは言った。「私の祖母の土地に、外から来た男が一人います。あの戦いの後、浜に打ち上げられていた。言葉が通じなかったけれど、自分の名前だけは何度も言っていました。その名前です」
カーターが、ジュディを見た。
「報告は」
「出しました」ジュディは言った。「浜に男が一人、と。読まれなかったようです」
ジュディの声は、静かだった。責める調子は無かった。ただ、事実を言っているだけだった。
ノックスが、検疫天幕の陰から出てきた。ジュディの言葉を、聞いていたのだろう。
「その報告も」ノックスは言った。「私の机に来るはずだった」
ジュディは、ノックスを見た。
「来ていたら、読みましたか」
ノックスは、すぐには答えなかった。
「分かりません」ノックスは言った。「あの頃の私なら、読まなかったかもしれない。今は、読みます」
────
ドラフォは、長いことジュディの顔を見ていた。
ナサが、ジュディの言葉を本国の言葉に直した。ドラフォは、それを最後まで黙って聞いた。
「生きているのか」ドラフォが聞いた。
ナサが訳すより先に、ジュディが本国の言葉で答えた。覚えたばかりの、十の言葉の一つだった。
「生きている」
ドラフォは、目を閉じた。
「どんな様子だ」ドラフォは、目を閉じたまま聞いた。
ジュディは、少し考えてから話し始めた。ナサが、それを本国の言葉に直していった。
男が浜に打ち上げられていたのは、あの戦いから三日後の朝だった。祖母の土地の漁師が見つけた。流れ着いた帆桁の破片にしがみついていた。脚を折っていて、ひどく痩せていた。
長老たちは、男を集落に運ばせた。脚の骨を添え木で固め、食べ物を与えた。男は、何か月もかけて歩けるようになった。
誰も、男がどこから来たのかを知らなかった。肌の色も、服の形も、見たことがないものだった。それでも、長老たちは男を追い出さなかった。
「海から来た者は、海が連れてきた客だ」ジュディは言った。「祖母の土地では、昔からそう言います。客が名を名乗るなら、その名で呼ぶ。だから、長老たちは、あの男を名前で呼んでいます。意味も分からないまま、男が言った通りの音で」
「今は、浜で網を繕っています」ジュディは言った。「祖母の土地の漁師たちと一緒に。言葉は、まだほとんど通じません。でも、網の繕い方は、すぐに覚えました」
ジュディは、少し間を置いた。
「浜の大きな木の幹に、毎朝、印を刻んでいます」ジュディは言った。「打ち上げられた日から。何の印なのか、ずっと分からなかった。今、分かりました」
ドラフォは、目を開けた。
「帰る日を、数えている」ドラフォは言った。
「会わせてください」ドラフォは言った。「兄が、北の軍港で待っています」
────
昼過ぎ、検疫を終えた赤い芯の木が、浜から運び出され始めた。
浜には、豪州軍のトラックが一台待っていた。荷台に、木が一本ずつ積まれていく。燃料は、ノックスがキャンベラに掛け合って、北岸の町の復興用として回させたものだった。
トラックの横で、本国の水夫たちと豪州の兵たちが並んで木を担いだ。赤い芯の木は重かった。一本を六人がかりで持ち上げ、荷台へ渡した。
「重いな、これは」豪州の兵の一人が言った。
本国の水夫が、何か言い返した。ナサが、笑いながら訳した。
「帆柱にならないのは、そのせいだそうです」ナサは言った。「重すぎて、船が傾くと」
兵たちが、声を立てて笑った。
荷台がいっぱいになると、トラックはゆっくりと浜を離れていった。北岸の町へ。グレアムは、そのトラックの助手席に乗っていた。窓から身を乗り出して、浜の方を一度だけ振り返った。
────
豪州北岸 町
トラックが町に着いたのは、夕方だった。
空き地の一角に、赤い芯の木が下ろされていった。天幕の学校から、子どもたちが駆け出してきた。ルースが、その後ろから急ぎ足で付いてきた。
「これが、あっちの国の木?」グレアムの孫娘が聞いた。
「そうだ」グレアムは言った。「白蟻に食われん木だ」
子どもたちは、木の切り口を覗き込んだ。芯の赤い色に、何人かが声を上げた。
「血みたい」一人が言った。
「血じゃない」ルースが言った。「樹液の色よ。あちらの島の木は、芯が赤くなるの」
ルースは、木の切り口にそっと手を当てた。それから、子どもたちに向き直った。
「明日の授業で、この木のことを書きましょう」ルースは言った。「どこから来たのか。誰が切って、誰が運んだのか」
グレアムは、子どもたちから少し離れて、一軒の仮設住宅の前に立った。ノックスに扉を開けなかった女の家だった。
グレアムは、扉を叩いた。
「わしだ」グレアムは言った。「金物屋の」
しばらくして、扉が少しだけ開いた。女が、グレアムの顔を見た。それから、空き地に積まれた赤い木を見た。
「あの国の木ね」女は言った。
「あの国の木だ」グレアムは言った。「今日、浜で、あの艦隊を率いていた男に会った。将軍だった男だ。あの木を、自分で運んできた」
女の顔が、こわばった。
「謝ったのか」
「謝った」グレアムは言った。「家が建ったら見に来いと言っておいた。あんたの家もだ」
女は、しばらく黙っていた。
「あの木で、私の家を建てろと言うの」
「言わん」グレアムは言った。「建てるかどうかは、あんたが決めればいい。ただ、旦那さんが寝たきりのまま、この白い箱で冬を越すのは辛かろう」
女は、何も答えなかった。扉の隙間から、空き地の赤い木を長いこと見ていた。
やがて、扉が静かに閉まった。
グレアムは、自分の仮設住宅に戻った。白い壁の前に立ち、燃えた店の鍵を取り出した。
二本目の線を、刻んだ。
────
その日の夕方、ドラフォは浜でナサを呼び止めた。
二人は、本国の言葉で話した。周りに、本国の言葉が分かる者は他にいなかった。
「お前の日本語が、変わったな」ドラフォは言った。「今日、浜で聞いていて分かった。前は、石を一つずつ置くように話していた」
「今日から、だそうです」ナサは言った。「十六夜さんが、そう帳面に書きました」
ドラフォは、少し笑った。
「寝返った技師が、三つの言葉を操るようになったか」ドラフォは言った。
「寝返ったのではありません」ナサは言った。「両方の言葉を覚えただけです。前にも、そう言いました」
「覚えている」ドラフォは言った。
ドラフォは、浜の端に積まれた赤い芯の木の跡を見た。もう、トラックで運ばれていった後だった。
「一つ、教えてくれ」ドラフォは言った。「あちらの言葉で、名前、は何と言う」
ナサは、日本語で言った。名前。
ドラフォは、それを繰り返した。名前。発音は、ぎこちなかった。
「それから、あの金物屋の男の言葉で」ドラフォは言った。
ナサは、英語で言った。ネーム。
ドラフォは、それも繰り返した。ネーム。
「祖母の土地へ行く時」ドラフォは言った。「あの男に、最初にかける言葉くらいは、自分で言いたい」
ナサは、少し考えた。
「あの男は、自分の名前だけを言い続けていたそうです」ナサは言った。「なら、将軍が最初に言うべきなのは、その名前でしょう。本国の言葉で」
ドラフォは、黙って頷いた。
────
その夜、ノックスとカーターとジュディが、交渉の場で地図を広げていた。
ドラフォとナサも、その場にいた。赤城と十六夜は、少し離れた席に座っていた。
地図は、豪州北部の海岸線を描いたものだった。ジュディが、湾口から東へ指を滑らせた。入り組んだ海岸線の先に、小さな印が一つあった。
「祖母の土地には、車で入れます」ジュディは言った。「ただ、許しが要ります。あの土地の長老たちの」
「豪州の役人として、お願いしに行きます」ノックスは言った。
ジュディは、首を振った。
「役人としてではなく」ジュディは言った。「あの男の名前を探している人として、来てください。それなら、長老たちは会います」
ノックスは、少し黙った。
「役人として行けば、会ってもらえないのですか」
「会います」ジュディは言った。「でも、話は聞いてもらえない。役人は、いつも何かを決めに来る。長老たちは、それを知っています」
ノックスは、ドラフォを見た。
ナサが、ジュディの言葉を訳した。ドラフォは、少し考えてから頷いた。
「私が行きます」ドラフォは言った。「兄の代わりに、名前を探している者として」
ジュディは、ドラフォの顔を見た。それから、ナサに向かって言った。
「この人に伝えてください。祖母の土地では、海から来た者を最初に迎えるのは、海の方を向いて座っている年寄りたちです。急がずに、待ってください、と」
ナサは、それを本国の言葉に直した。
ドラフォは、ジュディに向かって深く頭を下げた。
「急がない」ドラフォは言った。「待つことには、慣れました」
赤城が、少し離れた席から口を開いた。
「我々は、行かない方がいいでしょうね」赤城は言った。
ジュディは、赤城を見た。
「日本の方は、今回は」ジュディは言った。「すみません」
「謝ることはありません」赤城は言った。「この土地のことは、この土地の人に」
ノックスが、ジュディに向き直った。
「私は、行ってもいいですか」ノックスは言った。「役人ではなく、あなたの報告を読まなかった者として」
ジュディは、しばらくノックスの顔を見ていた。
「それなら」ジュディは言った。「長老たちは、話を聞くと思います」
────
会議の後、ノックスは廊下でジュディを呼び止めた。
「あなたの報告を、全部読みました」ノックスは言った。「昨夜、宿舎で」
ジュディは、黙ってノックスを見ていた。
「浜に男が一人。外来の虫。網に絡まった見慣れない魚。この半年で、四十七通」ノックスは言った。「一通も、キャンベラまで届いていなかった。途中のどこかの机で、止まっていた」
「知っていました」ジュディは言った。「返事が来たことは、一度もなかったから」
「それでも、書き続けたのですか」
ジュディは、少し考えた。
「祖母が、言っていました」ジュディは言った。「見たものは、見たと言え。聞く者がいなくても、言え。いつか、聞く者が来る」
ノックスは、しばらく何も言えなかった。
「遅くなりました」ノックスは、やがて言った。
「来ました」ジュディは言った。「それで、いいです」
ジュディは、廊下の窓から浜を見た。
「あの男も、自分の名前を言い続けていました」ジュディは言った。「聞く者がいなくても。今日、聞く者が来た」
────
赤城は、白瀬と二人で交渉の場を出た。
基地の外の通路を、並んで歩いた。夜の湿った風が、潮の匂いを運んできた。
「今日は、一度も口を開きませんでしたね」白瀬が言った。「最後の一言だけ」
「開く必要がなかった」赤城は言った。「この土地のことは、この土地の人に。それが、今日の私の仕事だった」
白瀬は、少し黙った。
「東京は、物足りないと言うでしょうね」白瀬は言った。「日本の存在感が薄れている、と」
「言わせておけばいい」赤城は言った。「我々が前に出すぎていたから、豪州が黙っていた。我々が一歩下がったら、豪州の声が聞こえるようになった。それだけのことだ」
赤城は、足を止めた。浜の検疫天幕の黄色い杭が、遠くに見えた。
「ナサの日本語を、聞いたか」赤城が言った。
「聞きました」白瀬は言った。「句点が、消えていました」
「あの男が、言葉を全部覚えたら」赤城は言った。「もう、我々の通訳は要らなくなるかもしれん」
「寂しいですか」
赤城は、少し笑った。
「少しな」赤城は言った。
────
会議が終わった後、十六夜はナサと二人で部屋に残った。
「今日は、ずっと通訳をしていたわね」十六夜は言った。「日本語と、本国の言葉と、英語の間で」
「英語は、まだ少しです」ナサは言った。「ジュディさんが本国の言葉を覚えてくれたので、助かりました」
ナサは、窓の外の浜を見た。検疫天幕の黄色い杭が、月明かりに白く見えていた。
浜の端には、検疫を終えた赤い芯の木が、まだ何本か残っていた。全ての木に、豪州の検疫官の札が付いていた。明日には、これも北岸の町へ運ばれていく。
「最初にこの基地に来た時」ナサは言った。「私が話せたのは、自分の名前と「頼みがある」の二つだけでした」
「覚えてる」十六夜は言った。「頼み。ある。そう言ったわ」
ナサは、少し笑った。
「あの男も、自分の名前だけを言い続けていたそうですね」ナサは言った。「祖母の土地の浜で」
十六夜は、頷いた。
「言葉が通じない時、最後に残るのは名前なんですね」ナサは言った。「名前を言い続けていれば、いつか誰かが聞き取ってくれる」
ナサは、窓から目を離した。
「今は、人の名前を探す手伝いができます」ナサは言った。「三つの言葉で」




