木に立てる旗
豪州北岸 町
ノックスは、約束の時刻より早く町に着いた。
朝の空気は、まだ少しだけ涼しかった。空き地の草に、夜露が光っていた。天幕の学校からは、まだ子どもたちの声は聞こえなかった。
カーターの車を降りると、仮設住宅の前でグレアムが待っていた。椅子ではなく、立っていた。
古いシャツに、きちんと折り目のついたズボンを穿いていた。誰かに会うための服だった。
「キャンベラの方か」グレアムは言った。
「ヘレン・ノックスです」ノックスは言った。
グレアムは、黙って仮設住宅の白い壁を指差した。何も刻まれていない壁だった。
「家が建つ日まで、ここに刻もうと思った」グレアムは言った。「だが、その前に見てもらいたかった。まだ、一つも刻めていない壁を」
ノックスは、壁を見た。それから、基礎だけが残った家の跡を見た。
基礎のコンクリートには、部屋の仕切りの跡が残っていた。台所。居間。寝室が二つ。その一つの隅に、焼け焦げた木の床板が一枚だけ残っていた。
「あそこが、孫の部屋だった」グレアムは言った。「娘夫婦の家は通りの向こうだったが、孫はよくこっちに泊まりに来た」
ノックスは、しばらく何も言えなかった。キャンベラの会議室で見てきた数字が、いま目の前で一軒の家の形をしていた。焼失家屋、四百十二戸。その一つが、この基礎だった。
「お名前を、教えてください」ノックスは言った。「ご家族の分も」
グレアムは、少し驚いた顔をした。それから、一人ずつ名を告げた。自分の名。娘の名。娘の夫の名。孫の名。
ノックスは、それを手帳に書いた。
グレアムは、ノックスの手元を覗き込んだ。綴りを一つずつ確かめるように、ゆっくりと目で追っていた。
「孫の名は、それで合っている」グレアムは言った。「娘の夫の名は、もう一つ綴りに字が入る」
ノックスは、その場で書き直した。
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午前中いっぱい、ノックスは町を歩いた。仮設住宅を一軒ずつ訪ね、名を聞いた。
カーターは、車を町の外れに置いたまま、少し後ろを付いて歩いた。
最初に訪ねたのは、燃料を待つ重機の運転手だった。ダニーという、三十代の男だった。重機の運転席に座ったまま、ノックスの話を聞いていた。
「燃料が来れば、瓦礫は一月で片付く」ダニーは言った。「片付けば、基礎を打てる。基礎を打てば、木と鉄が要る。その木と鉄が、どこから来るのか、誰も教えてくれない」
「今は、私にも答えられません」ノックスは言った。「でも、答えられないことを、キャンベラに持って帰ります」
ダニーは、少し意外そうな顔をした。
「役人が、分からないと言うのは初めて聞いた」ダニーは言った。
次に、天幕の学校を訪ねた。教師は、ルースという年配の女性だった。子どもたちが登校してくる前に、黒板代わりの白い板を拭いていた。
「子どもたちは、あの戦いのことをよく聞いてきます」ルースは言った。「誰が攻めてきたのか。なぜ攻めてきたのか。今は、なぜ港で商いをしているのか」
「どう答えているのですか」ノックスが聞いた。
「分からないことは、分からないと」ルースは言った。「ただ、兵隊さんたちがここで止めてくれた、ということだけは教えています。それは、分かっていることだから」
ルースは、板を拭く手を止めた。
「あちらの国にも、学校はあるのでしょうか」
「あると聞いています」ノックスは言った。
「では、あちらの子どもたちは、この町のことを何と習っているのでしょうね」ルースは言った。
ノックスは、答えられなかった。手帳に、ルースの名と、その問いを書き留めた。
焼けた教会の跡では、牧師のハミルトンが瓦礫の中から聖書台を掘り出していた。燃え残った木の台が、半分だけ焦げていた。
「新しく建てる時に、これを使いたいのです」ハミルトンは言った。「焦げたまま」
「焦げたまま、ですか」
「何があったかを、忘れないために」ハミルトンは言った。
ノックスは、その焦げた聖書台をしばらく見つめていた。北の軍港の鍛冶屋の前に立っているという柱のことを、ふと思い出した。
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最後に訪ねた仮設住宅で、ノックスは扉を開けてもらえなかった。
中から、女の声がした。
「名前なんか、今さら聞いてどうするの」女は言った。「家が焼けて、半年以上。キャンベラから誰か来たのは、今日が初めてよ」
ノックスは、扉の前に立ったまま答えた。
「その通りです」ノックスは言った。「遅すぎました」
扉の向こうは、しばらく静かだった。
「港では、あの国と商いをしているそうね」女は言った。「うちの夫は、あの戦いの後で倒れた。家を失ったのが、こたえたのよ。その国から来た塩を、私に買えって言うの」
「買ってくださいとは言いません」ノックスは言った。「ただ、あなたの家がここにあったことを、港の向こうに伝えたいのです。あちらの評議会は、この町の名前すら知りません」
扉の向こうで、女が何かを言いかけて黙った。
やがて、扉が少しだけ開いた。女は、ノックスの顔を見ずに、名を一つだけ告げた。夫の名だった。
「私の名は、まだ教えない」女は言った。「家が建ったら、教えてあげる」
扉が、閉まった。
ノックスは、手帳に夫の名を書いた。その横に、空白を一つ残した。
昼過ぎ、手帳の頁は半分以上埋まっていた。
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町の外れに戻ると、グレアムの孫娘が車の横で待っていた。
「キャンベラの人?」女の子が聞いた。
「そうよ」ノックスは言った。
「学校の天幕、見ていく?」
ノックスは、カーターを見た。カーターは、小さく頷いた。
天幕の中では、子どもたちが机代わりの木箱に向かっていた。ルースが、白い板に地図を描いていた。豪州の北岸と、その北の海。海の向こうに、点線で大きな陸地の輪郭が描かれていた。
「あれが、あっちの国」孫娘が言った。「先生が描いたの。本当の形は、まだ誰も知らないんだって」
ノックスは、点線の輪郭を見た。キャンベラの会議室にある地図も、似たようなものだった。
「いつか、本当の形が分かったら」ノックスは言った。「先生に教えに来るわ」
孫娘は、満足そうに頷いた。
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帰りの車の中で、ノックスは手帳を開いたままだった。
カーターは、ハンドルを握りながら、時々ノックスの方を見た。
「扉を開けなかった人のことを、気にしていますか」カーターが聞いた。
「気にしています」ノックスは言った。「あの人の言う通りでしたから」
ノックスは、手帳の空白を指でなぞった。
「家が建ったら名前を教える、と言われました」ノックスは言った。「家を建てるための木を、あちらの国に頼むことになります。あの人の夫が倒れた戦いをした国に」
「頼めますか」
「頼まなければ、家は建ちません」ノックスは言った。「あの人にとっては、受け入れがたいことかもしれない。それでも、私が頼みます。あの人の名前の代わりに、私の名前で」
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湾口 浜
次の船団が湾口に入ってきたのは、その翌日だった。
浜には、二つの秤の代わりに、白い天幕が一つ張られていた。天幕の前に、黄色い布を巻いた杭が立っていた。
杭を立てたのは、レンジャーの女だった。ジュディという名だった。黄色い布は、検疫官が持ってきた規制線のテープを何重にも巻きつけたものだった。
天幕の中には、豪州の検疫官が二人いた。キャンベラから、ノックスが呼び寄せた者たちだった。その横に、ジュディが立っていた。
検疫官の一人は、空港で二十年、旅行者の荷物を検めてきた男だった。もう一人は、港湾で木材の検査を担当してきた若い女性だった。二人とも、別の世界の荷を検めるのは初めてだった。
「何が出てくるか、分かりません」若い検疫官が言った。「図鑑に載っていないものが出てきたら、どうしますか」
「載っていないものは、全部記録する」年配の検疫官が言った。「名前が無ければ、番号を付ける。名前は、後で誰かが付ける」
年配の検疫官は、天幕の机の上に道具を並べていった。虫眼鏡。ピンセット。小さなガラス瓶が何十本も。消毒液の入った噴霧器。記録用の帳面。
「空港と同じだ」年配の検疫官は言った。「相手が旅行者の鞄か、帆船の大木かの違いだけだ」
若い検疫官は、浜に打ち寄せる波を見ていた。
「旅行者なら、言葉が通じました」
「通じなくても、荷は嘘をつかん」年配の検疫官は言った。「皮を剥げば、中に何がいるかは見える」
ジュディが、天幕の机に瓶を一つ置いた。白い幼虫の瓶だった。
「これには、名前があります」ジュディは言った。「あちらの言葉で、芯喰い」
年配の検疫官は、瓶の札にその名を書き入れた。英語と、カタカナで。
先頭の船から、小舟が下ろされた。乗っていたのは、「オーレン」の船長と、本国の商人たちだった。
「オーレン」の船長は、浜に降りるとすぐに異変に気づいた。秤が無い。代わりに、白い天幕と黄色い杭がある。浜に並ぶ兵の数も、前より多かった。
商人の一人が、浜の黄色い杭を見て眉を寄せた。
「あれは、病の旗ではないか」商人は言った。「この港に、病人が出たのか」
商人たちの間に、ざわめきが広がった。病の旗の立つ港には、船を入れない。それが、本国の船乗りの常識だった。何人かが、乗ってきた小舟の方を振り返った。
ナサが、商人の前に出た。
「病。人。違う」ナサは本国の言葉で言った。「木の病だ。あの旗は、木に立てる」
「木の病とは何だ」商人が聞いた。
「木から木へ移る病だ」ナサは言った。「人の病と同じように、船に乗って海を渡る。だから、港で止める」
商人たちは、まだ半信半疑の顔をしていた。
────
天幕の前で、ノックスが商人たちと向かい合った。
十六夜が、その横にいた。だが、最初に口を開いたのはノックスだった。
赤城と白瀬は、天幕から少し離れた場所に立っていた。前には出なかった。
「ヘレン・ノックスです」ノックスは言った。「豪州の役人です。この港は、豪州の港です」
十六夜が、それを本国の言葉に直した。
商人たちは、顔を見合わせた。この港で、日本の者以外が名乗ったのは初めてだった。
「オーレン」の船長が、ノックスの顔をじっと見た。湾口でドラフォの副長をしていた頃、この港の向こうにいる者たちを、一つの塊としてしか見ていなかった。あちらの民、と。その中に、別の国の者がいたことを、船長は今初めてはっきりと知った気がした。
「大木は、浜に下ろしたら、この天幕で検めます」ノックスは言った。「樹皮を剥ぎ、虫がいないことを確かめてから、倉庫へ運ぶ。虫が見つかった木は、焼きます」
十六夜が訳し終えると、商人の一人が声を荒らげた。
「焼く、だと」商人は言った。「あの大木一本を切り出すのに、どれだけの手間がかかると思っている。山から川へ流し、港まで運び、船に積む。一本で、塩の樽百個分の値がつく」
「承知しています」ノックスは言った。
「承知しているなら、なぜ焼く」
「承知しているから、焼くのです」ノックスは言った。「それだけの値がつく木なら、この国の木も同じだけの値がある。この大陸の森を一つ失えば、塩の樽が何万あっても買い戻せません」
十六夜が、言葉を選びながら訳した。商人は、なおも食い下がった。
「その虫とやらが、本当にいるのか。見たのか」
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ジュディが、腰の袋からガラス瓶を取り出した。
白い幼虫が、瓶の底で身をくねらせていた。
ジュディは、それを商人の前に差し出した。商人は、瓶を受け取って覗き込んだ。
商人の後ろにいた男が、息を呑んだ。船団の船大工だった。
「それは」船大工は言った。「芯喰いだ」
商人が、振り返った。
「知っているのか」
「知っているも何も」船大工は言った。「北の森の木に、時々入っている。外からは分からん。帆柱にして何年か経つと、ある日、中が空になって折れる。私の師匠は、それで帆柱を一本折られて、船を一隻失った」
船大工は、商人の手から瓶を取った。目の高さに持ち上げて、光に透かした。
「嵐の夜だった」船大工は言った。「帆柱が根元から折れて、甲板を叩き割った。水夫が三人、海に落ちた。後で折れ口を見たら、中が蜂の巣のように空になっていた。この虫の仕業だった」
船大工は、瓶の中の幼虫をじっと見つめた。
「どこで見つけた」
「前の船団が下ろした大木の皮の下です」ノックスは言った。
船大工は、浜の端に横たえられた三本の大木を見た。それから、商人に向き直った。
「焼いてもらえ」船大工は言った。「芯喰いの入った木を売ったと知れたら、二度と誰も買わん。この港だけじゃない。本国のどこの港でもだ」
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商人は、しばらく黙っていた。
「本国の港でも、芯喰いの入った木は焼くのか」ノックスが聞いた。
十六夜が訳すと、船大工が答えた。
「焼く」船大工は言った。「見つけた者が、自分の手で。木を売った者は、罰金を払う」
「では、同じです」ノックスは言った。「豪州の決まりは、あなた方の船大工の決まりと同じです。違うのは、木の皮を剥いで確かめるのが、港の役人だということだけです」
商人は、瓶の中の幼虫をもう一度見た。
「剥げばいい」商人は、やがて言った。「全部、剥いでくれ。見つかったら、焼けばいい。その代わり、虫のいない木には、あんたの名で札を付けてくれ。この港の役人が確かめた、と」
ノックスは、少し考えた。
「付けます」ノックスは言った。「豪州の検疫官の名で」
商人は、少し考えてから付け加えた。
「その札があれば、本国の港でも高く売れる」商人は言った。「芯喰いのいない木だと、誰でも分かる」
ノックスは、思わず笑った。
「商人の方は、どこの国でも同じですね」ノックスは言った。
十六夜がそれを訳すと、商人も笑った。
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その日の午後、浜で最初の大木の樹皮が剥がされた。
検疫官が二人、船大工が一人、ジュディが一人。豪州軍の兵たちが、大木を転がす手伝いをした。
本国の水夫たちも、手を貸した。樹皮を剥ぐ道具は、本国の船大工が持ってきた。刃の幅の広い、平たい鉄の鑿だった。豪州の検疫官は、その鑿の使い方を船大工に教わった。
樹皮が、バリバリと音を立てて剥がれていった。白い木肌が現れるたびに、検疫官とジュディが顔を近づけて調べた。虫眼鏡で、小さな穴が無いかを一寸ずつ確かめていく。
樹皮の下から、虫は出てこなかった。
検疫官が、大木の端に札を打ちつけた。豪州の検疫官の名と、日付が書かれていた。その下に、十六夜が本国の言葉で同じことを書き添えた。
商人が、その札を指でなぞった。読めない英語の文字と、読める本国の文字が、一枚の札に並んでいた。
二本目の大木を転がしている時、ボタンを縫いつけてもらった若い豪州兵が、本国の水夫と並んで綱を引いていた。
水夫は、若い兵の袖のボタンに気づいた。帆の針で縫いつけた、太い糸の縫い目だった。水夫は、それを指差して何か言った。
ナサが、近くで通訳した。
「その縫い方は、本国の帆縫いの縫い方だ、と言っています」ナサは言った。「誰が縫った、と」
若い兵は、少し考えてから答えた。
「捕虜だった少年だ」若い兵は言った。「砲手見習いの。もう、本国に帰った」
ナサがそれを訳すと、水夫は目を丸くした。それから、大きな声で笑った。
「その少年は、俺の甥だ」水夫は言った。「北の軍港で、帰ってきた日に会った。あちらの兵から油の布をもらったと、自慢していた」
若い兵は、しばらく言葉が出なかった。それから、袖のボタンを押さえて笑った。
綱を引く手に、二人とも少しだけ力がこもった。
二本目も、三本目も、虫は出なかった。
四本目の樹皮を剥いだ時、船大工が手を止めた。
小さな穴が、いくつも並んでいた。周りに、細かい木屑が粉のように溜まっていた。
船大工は、鑿の先で穴の一つを広げた。中から、白い幼虫が一匹這い出してきた。
浜が、静まり返った。
商人が、その幼虫を見下ろしていた。顔から、血の気が引いていた。
船大工は、黙って浜の端に薪を積み始めた。
「オーレン」の船長が、ノックスの傍らに来た。十六夜も、すぐ後ろに付いてきた。
「室長」船長は言った。「一つ、お聞きしたい」
十六夜が訳すと、ノックスは頷いた。
「湾口で、我々の艦隊は北岸の町を砲撃しました」船長は言った。「その町は、あなたの国の町だったのですか」
「そうです」ノックスは言った。「豪州の町です」
船長は、しばらく黙っていた。
「我々は、あちらの民の町だと思っていました」船長は言った。「あちらの民、と一つにまとめて。その中に、別の国があることを、考えたこともなかった」
ノックスは、手帳を開いた。北岸の町の住民の名が並んだ頁を、船長に見せた。船長には、英語の文字は読めなかった。それでも、頁を埋める名の数は見て取れた。
「この人たちの家が、あの砲撃で焼けました」ノックスは言った。
船長は、頁から目を離さなかった。
「将軍に、伝えます」船長は言った。「北の軍港で名を探している将軍に。探すべき名が、こちらにもあると」
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夕方、浜の端で四本目の大木が燃えていた。
メラメラと炎が上がり、黒い煙が湾口の空へ昇っていった。木の芯が爆ぜるたびに、パチンと乾いた音がした。
本国の水夫たちが、火を囲んで立っていた。豪州の兵たちも、少し離れて立っていた。誰も、口をきかなかった。
ノックスは、少し離れた場所からそれを見ていた。カーターが、隣に立った。
「あの町の人たちに、何と伝えますか」カーターが聞いた。
ノックスは、手帳を開いた。昨日書き留めた名前が、頁を埋めていた。扉を開けなかった女の夫の名と、その横の空白も。
「この港では、豪州の名で木を焼いた、と」ノックスは言った。「それから、次の船団に頼むことがあります」
「何を」
「帆柱にならない木を」ノックスは言った。「家を建てる木を。皮を剥いで、乾かして、豪州の検疫官が確かめた木を」
少し離れた場所で、赤城がその会話を聞いていた。十六夜が、赤城の横に立っていた。
「今日は、一度も前に出ませんでしたね」十六夜が言った。
「出る必要がなかった」赤城は言った。「今日は、豪州の港の日だ」
赤城は、燃える大木を見ていた。
「我々は、借りた場所で長く話しすぎた」赤城は言った。「ようやく、家主が自分の声で話し始めた」
燃える大木の傍らで、ノックスは船大工と向かい合った。
十六夜とナサが、間に座っていた。商人も、少し離れた場所で話を聞いていた。
「家を建てる木が欲しい、と言ったな」船大工が言った。「どんな家だ」
ノックスは、北岸の町のことを話した。燃えた家の数。仮設住宅の白い壁。基礎だけが残った跡。
「この土地には、木を食べる白い蟻がいます」ノックスは言った。「北部の家は、蟻に食われない木で建てなければならない。前は、外から薬を塗った材木を買っていました。今は、それが来ない」
十六夜が訳すと、船大工は少し考えた。
「白い蟻なら、本国の南の島にもいる」船大工は言った。「あの島の家は、赤い芯の硬い木で建てる。蟻も、芯喰いも、あの木には歯が立たん。重くて、帆柱にはならん。だから、高くは売れん」
ノックスは、身を乗り出した。
「その木を、運べますか」
「運べる」船大工は言った。「だが、商人が嫌がる。高く売れん木を運ぶより、帆柱を運んだ方が儲かる」
商人が、炎の向こうで咳払いをした。
「目の前で、四本目を焼かれている」商人は言った。「芯喰いの入った帆柱を運ぶより、蟻に食われん家の木を運ぶ方が、まだましかもしれん」
ノックスは、商人の方を見た。
「値は、こちらで考えます」ノックスは言った。「家を建てるための木です。キャンベラが、払います」
商人は、しばらく炎を見ていた。
「赤い芯の木を、次の船団に積んでくる」商人は言った。「ただし、皮は向こうで剥いでおく。ここで焼かれるのは、もう御免だ」
船大工が、声を立てて笑った。
ナサが、商人に何かを話していた。商人は、少し考えてから頷いた。
ナサが、ノックスの方を振り返った。
「次。船。家。木。運ぶ」ナサは言った。「グレアム。名前。伝えた」
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豪州基地 交渉の場
その夜、ナサは十六夜と並んで、机の上の紙に向かっていた。
ノックスの手帳を、写させてもらったものだった。北岸の町の住民の名が、頁いっぱいに並んでいた。グレアム。ダニー。ルース。ハミルトン。そして、扉を開けなかった女の夫の名と、その横の空白。
ナサは、その名を一つずつ本国の文字に直していった。英語の音を、本国の文字でどう書けば近くなるか。十六夜と二人で、一つずつ確かめた。
「グレアム」ナサは言った。「本国。文字。この。音。無い。近い。音。使う」
ナサが書いた文字を、十六夜が声に出して読んだ。少し違う音だった。それでも、グレアムの名だと分かる音だった。
「完全には、同じにならないのね」十六夜は言った。
「ならない」ナサは言った。「十六夜。名前。も。本国。文字。少し。違う。でも。皆。十六夜。呼ぶ」
十六夜は、少し笑った。
「この名前を、評議会へ送るの」
「送る」ナサは言った。「次。船団。帰る。時。オルグ。ゲラード。ファリス。読む。町。名前。家。無い。人。名前」
ナサは、最後の頁で筆を止めた。空白の欄だった。
「ここ。どうする」
「空けておきましょう」十六夜は言った。「家が建ったら、教えてもらえるそうだから」
ナサは、空白の横に、本国の文字で小さく書き添えた。家が建つ日まで。
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宿舎に戻る前に、ノックスは基地の通信室からキャンベラへ電話をかけた。
首席補佐官は、四本目の大木を焼いたという報告を、黙って聞いていた。
「あちらは、怒らなかったのか」補佐官が聞いた。
「怒りました」ノックスは言った。「それから、自分たちの船大工が、焼けと言いました。あちらの国にも、同じ決まりがあったのです。誰も、それを聞こうとしなかっただけで」
「家の木の件は」
「赤い芯の硬い木だそうです」ノックスは言った。「白蟻に強い。値は、こちらで払うと言いました」
補佐官は、少し黙った。
「予算の当ては」
「北岸の町の復興予算から」ノックスは言った。「セメントも鉄骨も来ないなら、木で建てるしかありません。その木が、海の向こうにある」
補佐官は、短く了承した。
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豪州北岸 町
その夜遅く、カーターはもう一度町に寄った。
仮設住宅の窓に、まだ灯りがついていた。カーターが扉を叩くと、グレアムが顔を出した。
「こんな時間に、どうした」
「伝えたいことがあって」カーターは言った。「次の船団が、家を建てる木を運んでくることになりました。白蟻に食われない、赤い芯の木だそうです」
グレアムは、しばらく黙っていた。
「あちらの国の木か」
「あちらの国の木です」カーターは言った。「港で、豪州の検疫官が確かめてから運びます」
グレアムは、扉の柱に手をかけた。
「あの扉を開けなかった女のことは、聞いたか」グレアムは言った。
「ノックス室長から」
「あの人の夫は、わしの店の常連だった」グレアムは言った。「釘を買いに来ては、半日喋っていった。あの戦いの後、倒れてから、ずっと寝たきりだ」
グレアムは、カーターの顔を見た。
「あちらの木で家が建つと聞いたら、あの人は怒るだろう」グレアムは言った。「わしが、話してみる。家が建ったら名を教えると言ったんだろう。なら、建ててやらにゃならん」
グレアムは、ポケットから燃えた店の鍵を取り出した。白い壁の前に立ち、鍵の先を当てた。
それから、一本の線を刻んだ。
「一日目だ」グレアムは言った。「木が来ると決まった日から、数える」
細い線が、仮設住宅の白い壁に残った。




