誰の港か
豪州北岸 町
町の東半分は、まだ瓦礫のままだった。
焼け落ちた家の跡に、青いビニールシートが何枚も張られていた。その間を縫うように、仮設の住宅が並んでいる。白い箱のような建物だった。窓の外に、子どもの洗濯物が干されていた。
空き地の一角には、大きな白い天幕が張られていた。学校の代わりだった。校舎は、東半分と一緒に焼けていた。天幕の中から、子どもたちが声を揃えて九九を唱えるのが聞こえた。
通りの角には、黄色い重機が一台停まっていた。動いてはいなかった。運転席の窓に、紙が一枚貼られていた。燃料待ち、と書かれていた。
カーターは、町の外れに車を停めた。
あの戦いの時、部隊はここで踏みとどまった。町の残り半分を守るために。一時間ごとに何メートル下がったか、カーターは今でも数字で覚えていた。
最初の夜は、海岸から四百メートルの線だった。二日目の昼には、三百メートル。三日目の夕方、町の中央通りまで下がった。そこから先は、一歩も下がらなかった。下がれる場所が、もう無かったからだ。
車を降りると、乾いた土の匂いがした。焼け跡の炭の匂いは、もうほとんど残っていなかった。代わりに、雨季の前の湿った風が、草の伸びた空き地を撫でていた。
仮設住宅の前で、年配の男が椅子に座っていた。カーターの顔を見ると、男は手を上げた。
グレアムという男だった。町で四十年、小さな金物屋をやっていた。店は、東半分と一緒に燃えた。
「隊長さん」グレアムは言った。「船が出ていったそうだな」
「出ていきました」カーターは言った。「亡命艦隊は、本国へ帰りました」
「帰る場所があって、いいことだ」グレアムは言った。
皮肉ではなかった。グレアムの声は、ただ静かだった。
グレアムは、自分の家があった場所を指差した。基礎のコンクリートだけが残っていた。
「わしらの家は、まだ帰ってこない」
カーターは、基礎のコンクリートを見た。雨が溜まって、小さな水たまりができていた。その縁から、細い草が伸びていた。
「資材は、まだ届きませんか」カーターが聞いた。
「届かんよ」グレアムは言った。「木材も、鉄骨も、セメントも。前は、全部どこかの国から船で来ていた。あの朝から、その船はもう来ない」
グレアムは、通りの角の重機を顎で示した。
「あれも、燃料が来るのを待っとる。シドニーの方が先だそうだ。こっちは、後回しだ」
カーターは、何も言えなかった。弾薬の補給が無いことは、毎日のように考えていた。だが、この町では、釘一本の補給も無かった。
「あっちの海から、木を運んでくる船があるそうだな」グレアムが言った。
「帆柱用の大木です」カーターは言った。
「その木で、家は建つのか」
カーターは、少し考えた。
「分かりません」カーターは言った。「あれは、商いの荷です。どこへ行くのかは、私には」
グレアムは、それ以上聞かなかった。椅子の背にもたれて、空き地の草を眺めていた。
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ダーウィン 北部軍司令部
外務貿易省の室長が、キャンベラから来ていた。
ヘレン・ノックス。外務貿易省の特別対策室長だった。監察団が湾口に来た頃は、何度もこの基地に足を運んでいた。戦争が始まってからはキャンベラに詰めきりで、ダーウィンに来るのは久しぶりだった。今日も、この部屋の誰よりも準備をしてきていた。
灰色のスーツに、汗が滲んでいた。キャンベラの乾いた空気に慣れた身には、北部の湿った暑さはこたえるようだった。
会議室には、カーターと北部軍の参謀、それに北部準州政府の連絡官が座っていた。日本側の者は、いなかった。
ノックスは、机の上に資料を並べた。休戦協定の写し。通商協定の写し。荷揚げの記録。どれも、日本語と英語の対訳になっていた。本国の言葉で書かれた原本は、一枚も無かった。
「先に、確認させてください」ノックスは言った。「湾口の休戦協定。日本側の特使が署名しています。豪州側の署名は、前日に別の書面で済ませた。そうですね」
「そうです」参謀が言った。
「通商の協定も、同じ形でした」ノックスは言った。「荷揚げは、この港の浜で行われている。量っているのは、日本の言語分析官です」
誰も、答えなかった。
ノックスは、手元の資料を閉じた。
「ここは、豪州の港です」ノックスは言った。「北岸の町は、豪州の町です。あの戦いで家を失ったのは、豪州の市民です。それなのに、あちらの評議会が名前を知っている豪州人は、何人いますか」
カーターは、少し考えた。
「私の名前くらいでしょう」カーターは言った。「それも、通訳の口を通して」
北部準州政府の連絡官が、口を開いた。日に焼けた中年の男だった。
「町の住民からは、毎週のように苦情が来ています」連絡官は言った。「家が建たないのに、なぜ港では敵だった国と商いをしているのか。塩と布より、セメントを運んでこいと」
「キャンベラにも、同じ声が届いています」ノックスは言った。「議会では、先週こう聞かれました。ダーウィンの港は、いつから日本の港になったのかと」
参謀が、眉を寄せた。
「ここまで来られたのは、日本の分析官と特使のおかげです」参謀は言った。「北岸で並んで戦ったのも、日本の部隊でした。軍としては、それを否定するつもりはありません」
「否定はしません」ノックスは言った。
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「日本を責めるつもりはありません」ノックスは言った。「言葉が通じたのは、日本の分析官がいたからです。証言外交も、あちらの技師と、あちらで育った青年がいたから成り立った。こちらには、その道具がなかった」
ノックスは、窓の外の港を見た。
港には、豪州海軍の哨戒艇が二隻、岸壁に繋がれていた。その向こうの沖に、灰色の「あさひ」の影が小さく見えた。
「あの朝の後、私たちは自分のことで精一杯でした」ノックスは言った。「燃料も食料も、薬も部品も。この大陸は、ほとんど全てを外から買っていました。その外が、無くなった。キャンベラは、毎日その穴を埋めることに追われていた」
ノックスは、窓から目を離した。
「北の海の向こうで何が起きているか。正直に言えば、日本に任せきりでした。任せられる相手がいて、ほっとしていた」
カーターは、ノックスの顔を見た。キャンベラの役人が、そこまで率直に言うのは珍しかった。
「でも、言葉がないことを理由に、黙っている時期は終わりにしたい」
参謀が言った。
「何を、されるつもりですか」
「まず、検疫です」ノックスは言った。
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会議室の空気が、少し変わった。
「次の船団は、塩と麻布と、帆柱用の大木を積んでくると聞いています」ノックスは言った。「大木は、樹皮が付いたままです」
北部準州政府の連絡官が、顔を上げた。
「生物検疫ですか」
「そうです」ノックスは言った。「この大陸に、別の世界の土と虫と種が入ってくる。この半年、誰もそれを止めていなかった。浜で量って、倉庫に運んで、それで終わりです」
カーターは、浜に並んだ樽と大木を思い浮かべた。誰も、その木の皮の下に何がいるかを考えたことはなかった。
「この国は、外から来るものに厳しい国です」ノックスは言った。「空港で、旅行者の靴の泥まで調べてきた。果物一つ、種一粒、持ち込ませなかった。この大陸の生き物は、外から来たものに弱い。それを、私たちは何度も思い知らされてきました」
連絡官が、深く頷いた。
「北部の海岸線は、先住民のレンジャーたちが見回っています」連絡官は言った。「漂着した網や外来の虫、病気の家畜を見つけるのは、たいてい彼らです。この半年、浜に上がった大木のことを、彼らから何度も報告されていました。誰も、取り合わなかった」
ノックスは、連絡官の顔を見た。
「その報告を、全部見せてください」ノックスは言った。「キャンベラには、一枚も届いていません」
「届けても、読まれないと思っていました」連絡官は言った。
「今度は、読みます」ノックスは言った。
連絡官は、少し間を置いてから頷いた。
「豪州の港に荷を入れるなら、豪州の法に従ってもらう」ノックスは言った。「それを、あちらの評議会に伝えたい。日本の通訳を通してでも構わない。ただし、伝えるのは豪州の役人です」
参謀が、腕を組んだ。
「あちらは、それを受け入れますか」参謀は言った。「荷を止められると分かれば、商いをやめると言い出すかもしれない」
「やめると言われたら、なぜ止めるのかを説明します」ノックスは言った。「それでも駄目なら、その時に考えます。言いもしないうちに、相手が嫌がるだろうと黙っているのは、もうやめにしたいのです」
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湾口 浜
会議の後、カーターは連絡官に連れられて浜へ下りた。
浜の端に、帆柱用の大木が三本、横たえられていた。二度目の船団が下ろしていったものだった。倉庫に入りきらず、浜に置かれたままになっていた。
大木の傍らに、一人の女がしゃがみ込んでいた。カーキ色のシャツに、つばの広い帽子をかぶっていた。胸のバッジに、レンジャーと書かれていた。
「彼女が、報告を出し続けていた一人です」連絡官は言った。
女は、立ち上がってカーターに会釈した。それから、大木の樹皮を指差した。
「ここを見てください」女は言った。
樹皮の表面に、小さな穴がいくつも開いていた。針で突いたような穴だった。その周りに、細かい木屑が粉のように溜まっていた。
女は、腰の袋から小さなガラス瓶を取り出した。中に、白い幼虫が一匹入っていた。米粒ほどの大きさだった。
「三日前に、この木の皮の下から出てきました」女は言った。「こちらの図鑑には、載っていない虫です」
カーターは、瓶の中の幼虫を見つめた。小さく、白く、動いていた。
「これが、何をするんです」
「分かりません」女は言った。「何もしないかもしれない。この土地の木を、全部食べるかもしれない。分からないから、止めなければならないんです」
女は、浜の向こうの林を見た。
「この林は、何千年もこの形でした」女は言った。「私の祖母の祖母の頃から。外から来たものに、一度やられたら戻りません。猫も兎もヒキガエルも、そうでした」
カーターは、何も言えなかった。弾の数を数え、後退した距離を数え、それで湾口を守ってきたつもりだった。だが、この浜には、弾では止められないものが上がってきていた。
「この瓶を、ノックス室長に見せてください」カーターは言った。「今日のうちに」
女は、瓶を腰の袋に戻した。
「報告書を書くより、早そうですね」女は言った。
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豪州基地 交渉の場
赤城は、ノックスの話を最後まで黙って聞いていた。
十六夜と白瀬が、その後ろに座っていた。ナサも、壁際にいた。
ノックスは、北部軍司令部で話したことを、ほとんどそのまま繰り返した。協定の署名のこと。荷揚げのこと。北岸の町のこと。議会での質問のこと。そして、検疫のこと。
言葉を選んではいたが、遠慮はしていなかった。
「おっしゃる通りです」赤城は言った。「こちらが、前に出すぎていました」
ノックスは、少し意外そうな顔をした。
「反論されると思っていました」ノックスは言った。「監察団の時は、ずいぶん言い合いましたから」
「反論の余地がありません」赤城は言った。「この港で起きていることを、こちらは豪州の方々に借りた場所で進めてきた。借りていることを、忘れかけていました」
赤城は、窓の外の浜を見た。秤が据えられていた場所に、もう何も無かった。
「署名の日も」赤城は言った。「豪州の署名を、前の日に別の紙で済ませてもらった。あの時、それを当たり前のように受け取っていました。あちらの使節団の長は、豪州の誰の名も知らないまま帰っていった」
ノックスは、黙っていた。
「遠くの机が戦争を決めた、と私たちは何度も言ってきました」赤城は言った。「北岸の町から見れば、この部屋も遠くの机だったのでしょう」
白瀬が、手帳から顔を上げた。
「検疫の基準を、あちらの言葉に直す必要があります」白瀬は言った。「虫、土、種。あちらの言葉に、その区別があるかどうか」
「日本も、同じことをしなければならないはずです」白瀬は続けた。「あちらの荷が日本へ渡る日が来れば。こちらは、まだ何も決めていない」
赤城は、白瀬の言葉に頷いた。
十六夜が、ナサを見た。
「虫。土。種」ナサは言った。「言葉。ある。でも。なぜ。止める。説明。難しい。あちら。考えた。こと。ない」
「止める理由が、分からないということですか」ノックスが聞いた。
ナサは、少し考えた。
「港。病。来る」ナサは言った。「船。から。人。病。知ってる。本国。港。病の。船。入れない。旗。立てる」
十六夜が、ナサの言葉を補った。
「本国の港にも、病人の出た船を沖に留め置く決まりがあるそうです」十六夜は言った。「黄色い旗を掲げさせて、何日か様子を見る。人の病については、あちらにも考え方があります」
「でも。木。虫。土。病。同じ。考え。ない」ナサは言った。「木。病気。しない。と。思ってる」
ノックスは、ナサの言葉を聞いて、しばらく考えていた。
「では、人の病から説明しましょう」ノックスは言った。「船から人に病が移るように、木から木へ、土から土へも病は移る。あちらにも黄色い旗があるなら、その旗を木にも立てればいい」
十六夜が、それを本国の言葉に直した。ナサが、何度か頷いた。
「では、そこから始めます」ノックスは言った。「なぜ止めるのか。こちらの言葉で、こちらの者が説明する。ナサさん、あなたの助けを借りたい」
ナサは、ノックスの顔をしばらく見ていた。
「あなた。名前」ナサは言った。
「ヘレン・ノックス」
ナサは、口の中で何度かその名を繰り返した。ヘレン。ノックス。舌が、慣れない音の並びに少しもつれた。
「覚えた」ナサは言った。「あちら。評議会。伝える。名前。一つ。増える」
ノックスは、少しだけ笑った。
「もう一つ、増やしてもらえますか」ノックスは言った。「北岸の町の名前を。あちらの砲で、家を失った町の名前を」
ナサは、真っ直ぐにノックスを見た。
「伝える」ナサは言った。「町。名前。家。無い。人。いる。こと」
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ノックスが部屋を出ていった後、白瀬は東京へ電話をかけた。
相手は、遠野だった。
「豪州が、検疫をかけるそうです」白瀬は言った。「あちらから来る大木と塩と麻布に」
電話の向こうで、遠野が少し黙った。
「当然だな」遠野は言った。「こちらも、植物防疫法がある。あちらの木を日本に入れる話になれば、農水省が黙っていない」
「まだ、誰も考えていませんでした」白瀬は言った。「豪州の方が、先に気づいた」
「豪州は、検疫では世界で一番厳しい国の一つだった」遠野は言った。「あの朝の前からな。こちらが浜で塩の重さを量っている間に、あちらは浜の虫を数えていたわけだ」
白瀬は、手帳に一行書き留めた。豪州の検疫基準を参考に、日本側の基準を検討。
「もう一つ」白瀬は言った。「豪州の室長に言われました。北岸の町の人たちの名前を、あちらの評議会は一人も知らないと」
遠野は、また少し黙った。
「こちらの名前も、知られていないな」遠野は言った。「赤城さんと十六夜さんと、あなたの名前くらいだろう」
「それで、十分だと思っていました」白瀬は言った。
「十分じゃなかったわけだ」遠野は言った。
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その夜、十六夜とナサは交渉の場に残っていた。
机の上に、紙が何枚も広げられていた。検疫の考え方を、本国の言葉に直すための下書きだった。
「虫」十六夜は言った。「あちらの言葉では、木を食べる虫と、人を刺す虫は同じ言葉ですか」
「違う」ナサは言った。「木。虫。別。言葉。船大工。使う。言葉」
ナサは、紙の上に本国の文字を一つ書いた。船大工が、腐った木材を指して使う言葉だという。
「その言葉を、使いましょう」十六夜は言った。「船大工なら、木の中の虫の怖さを知っているはず」
十六夜は、ノックスの言葉を思い出していた。黄色い旗を、木にも立てればいい。
「黄色い旗は、あちらの言葉で何と言うの」
ナサが、その言葉を書いた。病の旗、という意味だった。
十六夜は、その二つの言葉を並べて書いた。木の虫の言葉と、病の旗の言葉。
「この二つを繋げれば」十六夜は言った。「木に立てる病の旗、になる」
ナサは、二つの言葉をしばらく見つめていた。
「新しい。言葉」ナサは言った。「帆を。畳む。と。同じ。前。無い。言葉」
「前例のない言葉は、あちらの評議会で揉める」十六夜は言った。
「揉める。いい」ナサは言った。「揉める。と。読む」
十六夜は、少し笑った。白瀬が、署名の前に同じことを言っていた。
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日が傾く頃、レンジャーの女が交渉の場を訪ねてきた。カーターが、扉の外まで案内してきた。
女は、腰の袋からガラス瓶を取り出して、ノックスの前の机に置いた。白い幼虫が、瓶の底でゆっくりと身をくねらせていた。
ノックスは、瓶を手に取った。目の高さまで持ち上げて、長いこと見つめていた。
「浜の大木の皮の下から出てきました」女は言った。「こちらの図鑑には載っていません」
赤城も十六夜も白瀬も、黙って瓶を見ていた。ナサが、壁際から身を乗り出した。
「知ってる」ナサは言った。「本国。森。いる。虫。船大工。嫌う」
ノックスは、ナサを見た。
「何をする虫ですか」
「木。中。食べる」ナサは言った。「帆柱。中。空。なる。外。見て。分からない。ある日。折れる」
部屋が、静まり返った。
ノックスは、瓶を机に置いた。
「この虫が、この大陸の木に何をするかは、誰にも分からない」ノックスは言った。「でも、あちらの船大工が嫌う虫だということは、今分かりました」
ノックスは、レンジャーの女に向き直った。
「報告書を、全部見せてください」ノックスは言った。「それから、あなたの名前を」
女は、自分の名を告げた。ノックスは、それを手帳に書き留めた。
ナサも、口の中でその名を繰り返していた。
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会議が終わった後、ノックスはカーターを呼び止めた。
「北岸の町に、案内してもらえますか」ノックスは言った。「明日の朝」
カーターは、少し驚いた顔をした。
「キャンベラの方が、町まで来られるのは」
「初めてです」ノックスは言った。「議会で質問されても、答えられなかった。あの町を、自分の目で見たことがなかったから」
ノックスは、手元の資料の束を見下ろした。
「家を失った人の名前を、私自身が一人も知らない」ノックスは言った。「それで、あちらの評議会に豪州の名前を覚えろとは言えません」
宿舎に戻る前に、ノックスは基地の通信室からキャンベラへ電話をかけた。
相手は、大臣の首席補佐官だった。ノックスは、検疫と浜の大木のこと、そして白い幼虫のことを報告した。
「止めれば、商いが滞る」補佐官は言った。「あちらの機嫌を損ねるのは、得策ではない」
「止めなければ、この大陸の木が損なわれるかもしれません」ノックスは言った。「それに、豪州の港で豪州の法を通さないなら、あの港はもう豪州の港ではありません」
補佐官は、しばらく黙っていた。
「議会で聞かれた質問への答えに、なるか」
「なります」ノックスは言った。「ダーウィンの港は、豪州の港です。豪州の検疫官が、豪州の法で荷を検める。それが答えです」
補佐官は、短く了承した。電話が切れると、ノックスは通信室の窓の外を見た。湾の水面が、傾いた日を受けて鈍く光っていた。
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豪州北岸 町
夕方、カーターはもう一度町に寄った。
仮設住宅の前のグレアムは、まだ椅子に座っていた。
日が傾いて、仮設住宅の白い壁が橙色に染まっていた。どこかの家から、夕食の支度をする匂いが漂ってきた。子どもたちが、空き地で古いボールを蹴っていた。
「さっき、キャンベラから役人が来ました」カーターは言った。「次の船団からは、豪州の役人が港で荷を検めます」
グレアムは、しばらく黙っていた。
「その役人は、わしらの家のことも聞きに来るのか」
カーターは、答えに詰まった。
それから、思い直したように言った。
「明日の朝、来ます」カーターは言った。「この町に。自分の目で見たいと」
グレアムは、カーターの顔を見た。
「本当か」
「本当です」カーターは言った。「グレアムさんの名前を、伝えておきます」
グレアムは、何も言わなかった。ただ、少しだけ背筋を伸ばした。
空き地でボールを蹴っていた子どもの一人が、グレアムの方へ駆けてきた。七つか八つくらいの女の子だった。
「おじいちゃん、晩ごはん」女の子は言った。
「孫だ」グレアムは、カーターに言った。「娘の子だ。娘夫婦の家も、東半分にあった」
女の子は、カーターの軍服を見上げた。
「兵隊さん、あの時の人?」女の子が聞いた。
「あの時の人だ」カーターは言った。
女の子は、少し考えてから言った。
「学校の天幕で、先生が言ってた。兵隊さんたちが、ここで止めてくれたから、西側の家は残ったって」
カーターは、何と答えていいか分からなかった。三百メートル、二百メートルと下がり続けた日々を、この子は知らない。知らなくていい、とカーターは思った。
「止めたのは、私だけじゃない」カーターは言った。「海の上の船も、日本の兵隊さんたちも、一緒に止めた」
女の子は、よく分からないという顔で頷いた。それから、グレアムの手を引いて仮設住宅の方へ歩きかけた。
「先に行っていなさい」グレアムは言った。「すぐ行く」
女の子は、仮設住宅の扉の中へ駆けていった。
男は、基礎だけが残った家の跡を見た。
「あちらの国じゃ、帰る日を柱に刻んでいたそうだな」グレアムは言った。「わしも、刻んでみるか。家が建つ日まで」
グレアムは、仮設住宅の白い壁を指でなぞった。
刻むものは、何も持っていなかった。
金物屋だった頃なら、店の棚に釘も小刀もいくらでもあった。今は、ポケットの中に鍵が一本あるだけだった。
グレアムは、その鍵を取り出した。燃えた店の鍵だった。扉はもう無いのに、捨てられずに持っていた。
グレアムは、鍵の先を白い壁に当てた。それから、少しためらって、手を下ろした。
「明日、役人に見せてからにするか」グレアムは言った。「何も刻まれていない壁を」




