↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
127/130

宛名の列

本国 北の軍港


掲示板に、宛名が貼り出された。


貼ったのは、ドラフォと商い船の水夫たちだった。夜明け前の港は、まだ薄暗かった。潮の匂いを含んだ冷たい風が、桟橋の方から吹き上げてきていた。


ランプを倒した若い水夫が、糊の入った桶を抱えていた。ドラフォが紙を押さえ、若い水夫が四隅に糊を塗っていく。宛名を書き出した紙は、全部で十二枚になった。


名簿の時と同じ掲示板だった。帰らなかった者の頁の隣に、新しい紙が何枚も並んだ。宛名と、差出人の名。差出人は、全て亡命艦隊の水夫たちだった。


若い水夫は、最後の一枚を貼り終えると、桶を下ろして掲示板を見上げた。


「将軍」若い水夫は言った。「この紙は、捕虜の名簿と同じように読まれるでしょうか」


ドラフォは、しばらく答えなかった。


「読まれ方は、違うだろう」ドラフォは言った。「捕虜は、本国の命令で海に出て、帰ってきた者たちだ。あの艦隊は、本国の命令を拒んで、帰ってこなかった者たちだ」


「同じ海にいたのに、ですか」


「同じ海にいても、立っていた場所が違う」ドラフォは言った。「港の者は、その違いを見る」


坂の途中では、鍛冶屋の老人が店先に座っていた。炉には、もう火が入っていた。老人は、掲示板に紙を貼るドラフォたちの姿を、黙って見下ろしていた。


ドラフォが最後の一枚を貼り終えて坂を見上げると、老人は一度だけ杖を上げてみせた。それから、店の奥へ入っていった。すぐに、金槌の音が聞こえ始めた。カン、カンと澄んだ音が、まだ眠っている港に響いた。


最初に気づいたのは、朝の荷揚げに来た人足たちだった。


「あの艦隊の連中からか」一人が言った。


その声は、捕虜の名簿が貼られた日の声とは違っていた。


名簿が貼られた日、人足たちは掲示板の前で足を止め、知った名を探した。名を見つけた者の肩を叩き、見つからなかった者の背をさすった。今朝の人足たちは、足を止めなかった。紙を一瞥して、そのまま荷揚げ場へ下りていった。


一人だけが、振り返って紙を睨んでいた。


────


昼になると、掲示板の前に二つの人だかりができた。


一つは、宛名に自分の名を見つけた者たちだった。年老いた母親。幼い子の手を引いた女。白髪の父親。誰もが、紙の前で立ち尽くしていた。


彼らは、どこからともなく集まってきた。港の外れの漁師町から。坂の上の職人町から。軍港の門の外の、小さな集落から。誰も、大きな声では話さなかった。宛名に自分の名を見つけても、声を上げる者はいなかった。ただ、紙の前で手を握り合ったり、目を閉じたりしていた。


あの艦隊の家族であることを、この港で口にする者は少なかった。帰還の命令を拒んだ艦隊。殿下に付いていった水夫たち。その家族は、この数年、肩身の狭い思いをしてきた。


幼い子の手を引いた女は、何度も宛名を読み返していた。夫の名が、差出人の欄にあった。女の唇が、声を出さずにその名をなぞっていた。


もう一つは、それを遠巻きに見ている者たちだった。


荷揚げの人足。港の商人。軍港の水夫の家族。最初は数人だった人垣が、昼過ぎには二十人を超えていた。


「裏切り者の家族だ」誰かが言った。


声は、小さくなかった。掲示板の前の女が、肩を震わせた。幼い子が、母親の顔を見上げた。


「あの艦隊は、本国を捨てた」別の男が言った。「殿下とやらに付いて、帰還の命令を蹴った。その手紙を、なぜ軍港の掲示板に貼る」


朝、紙を睨んでいた人足だった。


人だかりが、少しずつ掲示板の方へ寄ってきた。一人の男が、紙の一枚に手を伸ばした。


その手首を、横から掴んだ者がいた。


ドラフォだった。


────


「剥がすな」ドラフォは言った。


男は、ドラフォの顔を見て一瞬怯んだ。だが、すぐに言い返した。


「将軍が、裏切り者の手紙を守るのか」


「守るのは、宛名だ」ドラフォは言った。「手紙を書いた者が何をしたかは、評議会が量る。宛名の者は、何もしていない」


「あいつらは、この港の者を何人も見捨てたんだぞ」


ドラフォは、男の手首を放さなかった。


男の腕に、力がこもった。振りほどこうとしていた。ドラフォの手は、動かなかった。


人垣の後ろから、別の男が前に出てきた。掲示板の別の紙に手をかけ、端を引き剥がした。紙が、ビリッと音を立てて半分裂けた。


裂けた紙が、風に煽られて宙に舞った。


掲示板の前の女が、悲鳴を上げた。夫の名が書かれた紙だった。


紙は、石畳の上を転がり、坂の方へ飛んでいった。女が、子の手を放してそれを追った。


ランプを倒した若い水夫が、女より先に走った。坂の途中で紙に飛びつき、石畳に膝をついて両手で押さえた。手のひらの古い傷痕が、紙の上で白く見えた。


若い水夫は、紙を女の前まで持ってきた。半分に裂けていた。それでも、宛名と差出人の名は読めた。


女は、紙を受け取ると、その場にしゃがみ込んだ。


ドラフォは、紙を引き剥がした男の方を見た。男は、裂けた紙の残りを手に握ったまま立っていた。


ドラフォは、掴んでいた男の手首を放した。それから、紙を剥がした男の前まで歩いていった。


「その紙を、返せ」ドラフォは言った。


男は、動かなかった。


「私は、湾口で同胞に砲を向けた」ドラフォは言った。「その私が、捕虜の手紙をこの掲示板に貼った。お前は、その時は何も言わなかった」


男は、黙った。


「あの艦隊の水夫も、捕虜も、私も」ドラフォは言った。「あの海で、何かをした。評議会は、それを一つずつ量っている。量るのは、お前ではない」


男の手から、裂けた紙の残りが落ちた。ドラフォはそれを拾い上げ、女の方へ持っていった。


最初に手首を掴まれた人足は、一歩下がった。


人だかりの後ろで、杖の音がした。


────


鍛冶屋の老人が、坂を下りてきていた。


騒ぎは、坂の上まで聞こえていたのだろう。老人は、杖をつきながら、ゆっくりと人垣を抜けてきた。人々が、自然と道を空けた。この港で、あの鍛冶屋の老人を知らない者はいなかった。孫が湾口で落ちたことも、店の前に立つ柱のことも。


老人は、掲示板の前まで来ると、杖で地面を一度突いた。


「わしの孫は、湾口で落ちた」老人は言った。「あの艦隊の砲でか、将軍の号令でか、わしには分からん。分からんが、わしはこの掲示板に孫の名を見に来た」


老人は、掲示板の紙を見上げた。帰らなかった者の頁と、宛名の紙が、隣り合って並んでいた。


「この紙の宛名の者も、同じことをしに来ておる」老人は言った。「名を見に来た者を、追い返すのか」


誰も、答えなかった。


「わしの店の前の柱を、見た者はおるか」老人は続けた。「湾口の捕虜たちが、帰る日を数えた柱だ。あの柱には、捕虜もあちらの兵も手をかけた。誰が敵で誰が味方か、あの柱は区別しておらん」


老人は、紙を剥がした男の方を見た。


「お前の弟も、湾口にいたな」老人は言った。


男の顔が、こわばった。


「名簿にあったか」老人が聞いた。


男は、首を振った。


「帰らなかった者の頁には」


男は、しばらく黙っていた。それから、小さく首を振った。


「どちらにも、無い」男は、かすれた声で言った。「どちらにも無いから、腹が立つ」


老人は、何も言わなかった。ただ、杖をついて男の前まで歩いていき、その肩に手を置いた。


遠巻きにしていた人だかりが、少しずつほどけていった。


────


日が傾く頃まで、ドラフォは掲示板の横に立っていた。


手紙を取りに来た者に、一通ずつ渡した。名を聞き、顔を見て、布袋から探し出す。


騒ぎの後、取りに来る者は少しずつ増えていった。遠巻きにしていた者たちの中にも、人垣が消えてから掲示板に近づいてくる者がいた。宛名を一枚ずつ確かめ、自分の名が無いと分かると、黙って去っていった。


年老いた母親が、手紙を受け取った。字が読めないと言った。ドラフォは、その場で読んで聞かせた。


母さんへ。生きています。帰れるかどうかは、まだ分かりません。でも、生きています。


母親は、紙を胸に押し当てたまま、長いこと動かなかった。


次に来たのは、白髪の女だった。夫の名を告げた。ドラフォは布袋を探り、帆の端切れに書かれた手紙を取り出した。


女は、自分で読めた。読み終えると、少しだけ笑った。


「すまなかった、とだけ書いてあります」女は言った。「あの人らしい」


「他には、何も書いていないのですか」ドラフォが聞いた。


「言い訳は、帰ってから顔を見て言うそうです」女は言った。「そう書いてあるわけではありませんが、分かります」


女は、帆布の手紙を丁寧に畳んで、懐にしまった。


幼い子の手を引いた女も、もう一度掲示板の前に来ていた。裂けた紙ではなく、布袋の中の手紙を受け取るためだった。ドラフォが手紙を渡すと、女は子どもの前にしゃがみ込み、声に出して読み始めた。


子どもは、父の名が読み上げられるたびに、母の顔を見上げていた。


手紙は、長かった。帆の端切れの両面に、細かい字がびっしりと書かれていた。湾口の海の色。あちらの民の鉄の船。帆を畳んだ日のこと。そして、最後に一行。


お前の背丈が、どれくらい伸びたか知りたい。


女は、そこまで読むと、声を詰まらせた。子どもが、不思議そうに母の顔を覗き込んだ。


ドラフォは、少し離れた場所からそれを見ていた。若い水夫が、隣に来て小声で言った。


「あの子の背丈を、測って返事に書いたらどうでしょう」


ドラフォは、若い水夫を見た。


「返事を運ぶ船は、次の船団だ」ドラフォは言った。「それまでに、書いておけと伝えてやれ」


若い水夫は、女の方へ歩いていった。しゃがみ込んで、何かを話していた。やがて、女が涙を拭きながら笑った。子どもが、掲示板の柱に背中をつけて、背伸びをしていた。


────


夕暮れになって、紙を剥がした男が戻ってきた。


ドラフォは、掲示板の横で布袋の口を縛ろうとしていた。男は、少し離れた場所で立ち止まった。


「弟の名を」男は言った。「どこで探せばいい」


ドラフォは、男の顔を見た。


「湾口のどこにいた」


「本国の艦隊だ」男は言った。「二度目の砲撃の頃、『グラーヴェ』とは別の艦に乗っていた。艦の名は、知らん。最後の便りには、南の海へ行くとだけあった」


ドラフォは、懐から手帳を取り出した。帰らなかった者の頁を写したものだった。


「名を、言ってみろ」


男が、弟の名を告げた。ドラフォは、手帳の頁を一枚ずつめくった。指で名を辿っていった。


最後の頁まで、その名は無かった。


ドラフォは、手帳を閉じた。


「ここには無い」ドラフォは言った。「捕虜の名簿にも、無かったのだろう」


男は、黙って頷いた。


「では、まだどこかにいるかもしれん」ドラフォは言った。「本国の艦隊の記録は、評議会が持っている。湾口にいた全ての艦の乗員の名を、私が評議会に問い合わせる」


男は、ドラフォの顔を見た。


「なぜ、そこまでする」男は言った。「俺は、あんたが守った紙を破った」


「破ったのは、紙だ」ドラフォは言った。「名は、まだ破れていない」


男は、何も言わなかった。しばらくその場に立ち尽くしていた。やがて、深く頭を下げて、坂を上っていった。


────


その夜、ドラフォは商い船の船室に戻った。


若い水夫が、ランプの下で帆を縫っていた。両手の傷痕の上で、太い針が規則正しく動いていた。ドラフォが入ってくると、若い水夫は手を止めた。


「あの人の弟は、見つかるでしょうか」若い水夫が聞いた。


「分からん」ドラフォは言った。「艦隊の記録に名があれば、どの艦に乗っていたかは分かる。その艦がどうなったかも、分かるかもしれん」


「見つからなかったら」


「見つからなかったと、伝える」ドラフォは言った。「探した者が、探したと伝える。それだけでも、何もないよりはいい」


若い水夫は、しばらく針を見つめていた。


「将軍は、どうして紙を守ったんですか」若い水夫は聞いた。「あの艦隊は、将軍が追った艦隊です」


ドラフォは、船室の小さな窓から港を見た。坂の途中に、鍛冶屋の炉の火が赤く揺れていた。その前に、柱の黒い影が立っていた。


「追ったから、だ」ドラフォは言った。「追った者が守らなければ、誰があの紙を守る」


若い水夫は、それ以上何も聞かなかった。再び針を動かし始めた。


────


翌朝、ドラフォが掲示板の前に立つと、紙を剥がした男が既に待っていた。


男は、手に一枚の紙を握っていた。折り目が擦り切れ、端が黄ばんでいた。


「弟の、最後の便りだ」男は言った。「艦の名は書いていない。だが、何か手がかりになるかもしれん」


ドラフォは、紙を受け取った。拙い字だった。南の海へ行く。帰ったら、兄貴の船に乗せてもらう。それだけが書かれていた。


紙の裏に、小さな印が描かれていた。帆柱の上に旗が一つ。旗には、三本の線が引かれていた。


ドラフォは、その印をしばらく見つめた。


「これは、艦の旗印だ」ドラフォは言った。「三本線の旗を掲げていたのは、湾口では一隻しかない」


男は、息を呑んだ。


「どの艦だ」


「『ラウゼン』」ドラフォは言った。「私の艦隊の、後衛にいた艦だ」


ドラフォは、その名を手帳に書き留めた。


「『ラウゼン』は、湾口から本国へ戻っている」ドラフォは言った。「乗員の名簿は、評議会にあるはずだ。名簿に名があれば、生きて戻った者の中に弟がいる。無ければ」


ドラフォは、その先を言わなかった。


「『ラウゼン』が戻ったなら」男は言った。「なぜ、弟は帰ってこない」


「それも、名簿が答える」ドラフォは言った。「答えが出るまでは、私にも分からん」


「待っていろ」ドラフォは言った。「次に都から船が来る時には、答えを持ってくる」


男は、深く頭を下げた。昨日よりも、ずっと長く。


男が坂を上っていくと、鍛冶屋の前で足を止めた。柱の前だった。男は、刻み目を上から下まで目で辿っていた。それから、隅の小さな印に指を当てた。しばらくして、男は店の中へ入っていった。老人と何を話したのかは、ドラフォには聞こえなかった。


────


都 評議会場 文書室


ゲラードの執務室を訪ねる前の晩、ヴェインは地下の文書室にいた。


ロウデンが、ランプの火を少し大きくした。棚から下ろした綴りを、机の上に並べていく。


「政変の後の、艦隊への命令書です」ロウデンは言った。「亡命艦隊に宛てたものは、この三通です」


ヴェインは、一通ずつ読んでいった。帰還を命じる文。従わなければ艦隊の名を剥奪すると告げる文。そして、三通目。


三通目の後に、短い記録が添えられていた。この命令を運んだ船、帰還せず。乗員の行方、不明。


ヴェインは、その一行を長いこと見ていた。


「この記録を、借り出した者はいるか」ヴェインが聞いた。


「おりません」ロウデンは言った。「綴じてから、誰も」


「ゲラード評議員も」


「おりません」


ヴェインは、綴りを閉じた。


「借り出す」ヴェインは言った。「明日、ゲラード評議員に見せる」


ロウデンは、貸し出しの帳面にヴェインの名を書き入れた。それから、少しだけ顔を上げた。


「反対のためですか」ロウデンが聞いた。


「記録で反対しろと言われた」ヴェインは言った。「だから、記録を読んだ。読んだら、反対する理由が見つかった。それだけだ」


ロウデンは、何も言わなかった。ただ、ランプの火を元の大きさに戻した。


────


都 評議会場


ドラフォの報告は、数日後にゲラードの机に届いた。


殿下は、帰還の条件を持ち帰って審議中。士官全員から、あの政変の夜の聞き取りを始めた。そして、自分もまた、追った側として証言したい。


報告の最後に、もう一枚紙が添えられていた。湾口にいた本国艦隊の全ての艦の乗員名簿を、閲覧させてほしいという願い出だった。名を探している者がいる、と書かれていた。


ゲラードは、報告を読み終えると、オルグとファリスを呼んだ。


「殿下の証言の場を、用意する」ゲラードは言った。「追った側の証言と、同じ日に」


「ヴェインが反対します」オルグが言った。


「させておけ」ゲラードは言った。「記録で反対するなら、聞く価値がある」


その言葉が終わらないうちに、執務室の扉が叩かれた。入ってきたのは、ヴェインだった。手に、分厚い綴りを抱えていた。


「殿下の帰還の審議について、申し上げたいことがあります」ヴェインは言った。


「早いな」ゲラードは言った。


「記録で反対しろと、言われましたので」ヴェインは言った。


ヴェインは、綴りを机の上に置いた。ロウデンの文書室から借り出してきたものだった。


「あの政変の後、本国が亡命艦隊に送った帰還の命令です」ヴェインは言った。「三度送られ、三度とも拒まれています。その記録が、ここにあります」


ゲラードは、綴りを開いた。


「三度目の命令を運んだ船は、戻ってこなかった」ヴェインは言った。「乗員の行方は、記録にありません。亡命艦隊が、その船をどうしたのか。殿下の証言で、それが語られるのかどうか。私は、それを確かめたい」


オルグとファリスが、顔を見合わせた。


ゲラードは、綴りの頁をしばらく見ていた。


「この記録は、私も初めて見る」ゲラードは言った。


「誰も、借り出していませんでした」ヴェインは言った。「ロウデンが、そう言っていました」


ゲラードは、綴りを閉じた。


「殿下に、この記録を送る」ゲラードは言った。「証言の前に、何が問われるかを知っておいてもらう。隠し事のない問いでなければ、全てを語れとは言えん」


ヴェインは、少し驚いた顔をした。


「反対の材料を、相手に渡すのですか」


「渡す」ゲラードは言った。「お前の反対が正しければ、殿下はこの記録に答えられない。答えられれば、お前の反対は一つ減る。どちらに転んでも、議場は一歩進む」


ヴェインは、しばらくゲラードの顔を見ていた。それから、黙って一礼して、執務室を出ていった。


扉が閉まると、オルグが息を吐いた。


「あの男は、本気で調べてきましたね」オルグは言った。


「本気で反対する者は、本気で調べる」ゲラードは言った。「それでいい。殿下が帰ってきた時に、議場で同じ問いを誰かが投げる。その問いを投げるのが、ヴェインのような男なら、まだましだ」


「殿下への手紙は、誰が書きますか」ファリスが聞いた。


「私が書く」ゲラードは言った。「記録の写しを添えて。三度目の命令を運んだ船のことを、殿下が覚えているかどうか。覚えていないなら、覚えていないと語ればいい。半分では足りないが、覚えていないことまで作れとは言わん」


オルグは、ゲラードの顔をしばらく見ていた。


「あなたは、殿下が帰ることを望んでいるのですか」オルグが聞いた。


ゲラードは、すぐには答えなかった。窓の外の都を見ていた。


「私は、あの政変の夜に何があったのかを知りたい」ゲラードは言った。「この国の誰も、それを全部は知らない。追った側も、追われた側も、半分ずつしか持っていない。それを一つの議場に揃えたい。殿下が帰るかどうかは、その後の話だ」


ファリスが、報告の最後の頁を指で押さえた。


「北の軍港で、騒ぎがあったそうです」ファリスは言った。「亡命艦隊の手紙を巡って」


ゲラードは、その頁を読んだ。それから、短く言った。


「殿下が帰ってくれば、同じことが都で起きる」


「それでも、審議を進めますか」


「進める」ゲラードは言った。「あの掲示板の前で起きたことは、この議場でも起きる。ならば、議場で先に起こしておく方がいい」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。