火と水
湾口
修理の槌音は、その夜も続いていた。
「オーレン」の帆桁は、既に継ぎ終わっていた。鉄の金具で締め上げた継ぎ目は、元の木よりも固いほどだった。出航は、明朝と決まっていた。
継ぎ目の金具は、「あさひ」の工作員たちが艦内の工作室で打ったものだった。本国の船大工たちは、最初はその黒い鉄を疑わしげに眺めていた。だが、締め上げた帆桁に三人がかりでぶら下がっても、継ぎ目はびくともしなかった。それ以来、船大工たちは灰色の服の男たちを見ると、黙って頭を下げるようになっていた。
「サフィ」では、裂けた主帆の縫い直しが続いていた。甲板に帆布を広げ、ランプを何個も並べて、水夫たちが夜通し針を動かしていた。
帆布は、甲板いっぱいに広げられていた。何か所も裂けた厚い布を、太い針と蝋を引いた糸で縫い合わせていく。水夫たちは布の上に膝をつき、ランプの明かりを頼りに一針ずつ進めていた。
針を動かしながら、水夫たちは小声で歌っていた。帆を縫う時の古い歌だった。一節ごとに針を引き、糸を締める。その拍子に合わせて、ランプの火が揺れた。
「明日には、『オーレン』が出る」若い水夫が言った。「こっちは、あと三日はかかるな」
「三日で済めばいい方だ」年配の水夫が言った。「この裂け目を見ろ。帆布ごと替えたいくらいだ」
「替えの帆布なんて、どこにある」
「あの灰色の船に頼めば、何か出てくるかもしれん」
若い水夫が、笑った。その拍子に、膝が脇のランプに触れた。
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浜では、焚き火が燃えていた。
ドラフォは、その傍らに腰を下ろしていた。向かいには、ベルクがいた。明朝、ベルクは「オーレン」で帰る。二人で話せるのは、今夜が最後だった。
「北の軍港に着いたら」ベルクは言った。「鍛冶屋の老人を訪ねるおつもりですか」
「訪ねる」ドラフォは言った。「お前から聞いた話を、全部伝える」
「私も、一緒に行くべきでしょうか」
ドラフォは、焚き火を見ていた。
「お前が先に着く」ドラフォは言った。「待たなくていい。お前はお前で、サロンに帰れ。待っている者がいるだろう」
ベルクは、少しの間黙っていた。
「女房と、娘が二人」ベルクは言った。「上の娘は、もう嫁に行く歳です」
「なら、急いで帰れ」ドラフォは言った。「嫁入りに間に合わなければ、一生恨まれるぞ」
ベルクは、小さく笑った。捕虜になってから、ドラフォの前で初めて見せる笑いだった。
その時、湾の向こうで何かが光った。
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最初に気づいたのは、「あさひ」の当直員だった。
「『サフィ』の甲板に、火」
艦橋の窓の向こうで、オレンジ色の光が揺れていた。ランプではなかった。広がっていく光だった。
当直士官が、すぐに艦内への通報を命じた。警報が鳴り響き、眠っていた乗員たちが跳ね起きた。
川上が、艦橋に駆け上がってきた。双眼鏡を覗く。
「サフィ」の甲板で、帆布が燃えていた。倒れたランプの油が、乾いた帆布に移ったのだ。メラメラと炎が這い上がり、帆柱の根元へ迫っている。
水夫たちが、火のまわりを走り回っているのが見えた。桶を持つ者。燃える布を剥がそうとする者。何人かは、既に火の熱に押されて舷側まで下がっていた。
「帆柱に移れば、船ごと燃える」川上は言った。「防火隊、内火艇へ。可搬ポンプを積め」
「本艦を寄せますか」副長が聞いた。
「寄せない」川上は言った。「こちらの図体で近づけば、波で向こうの船が煽られる。内火艇で行く」
副長は頷き、艦内電話を取った。
艦の後部では、応急工作員たちが防火服に身を包んでいた。可搬式の消防ポンプが、二人がかりで内火艇へ降ろされていく。太いホースが、甲板の上をとぐろを巻くように運ばれていった。
防火隊の隊長は、ポンプの吸水口を確かめながら、若い海士に声をかけた。
「木造船の火災は、訓練でもやったことがない」隊長は言った。「燃え方が違うはずだ。帆布は一気に燃え上がる。床板は、下から燃えてくる。足元に気をつけろ」
「向こうの乗員は、言葉が通じません」若い海士が言った。
「手振りでいい」隊長は言った。「火の前で言いたいことは、どこの国でも大して変わらん。下がれ。そこは危ない。その二つだ」
内火艇のエンジンが、低く唸り始めた。
「あちらの船倉に、何が積んであるか分かるか」川上が聞いた。
「迎えの船です。砲は積んでいません」副長は言った。「ただ、ランプの油の樽くらいはあるはずです」
川上の顔が、わずかに険しくなった。
「油に火が回れば、手が付けられなくなる」川上は言った。「急がせろ」
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「エイカ」の艦尾甲板に、アルセナが出てきた。
寝間着の上に外套を羽織っただけの姿だった。見張りの声で目を覚まし、そのまま甲板へ駆け上がってきたのだ。レナが、その後ろに続いていた。
湾の向こうで、「サフィ」が燃えていた。炎が、夜空を赤く染め始めている。
「本国の船です」レナが言った。「迎えの」
「分かっている」アルセナは言った。
アルセナは、一瞬だけ黙った。本国の船。あの湾口で、自分たちに砲を向けた艦隊と同じ旗を掲げる船だった。
「小舟を出せ」アルセナは言った。「手の空いている者は、全員あの船へ行け」
「殿下」
「帆の火は、帆の民が一番よく知っている」アルセナは言った。「どこの旗の船かなど、火は気にしない」
レナは頷き、甲板の水夫たちに号令をかけた。
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浜の焚き火の傍で、ドラフォが立ち上がった。
「サフィ」の火が、湾の水面に映っていた。水夫たちの叫び声が、夜の海を渡ってくる。
ドラフォは、浜に引き上げてあった小舟に走った。その後ろを、ベルクが追ってきた。
「お前は残れ」ドラフォは言った。「明日の朝、船に乗る身だ」
「砲術長は、火の扱いを知っています」ベルクは言った。「火薬庫の火を、何度も消してきた」
ドラフォは、一瞬だけベルクを見た。それから、頷いた。
二人は、小舟を波打ち際まで押し出した。ドラフォが櫂を取り、ベルクが舳先に座った。櫂が水を掻くたびに、ザブ、ザブと音が立った。
浜の少し先では、ミゼンが亡命艦隊の水夫たちを集めていた。「エイカ」の小舟が二艘、浜から押し出されていくのが見えた。
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「サフィ」の甲板は、煙に包まれていた。
水夫たちが、桶で海水を汲み上げては火に浴びせていた。ジュウッと白い湯気が上がる。だが、炎の勢いは衰えなかった。燃える帆布が、風に煽られて甲板の上を転がっていく。
南風が、炎を船首の方へ押していた。帆柱の根元は、もうすぐそこだった。
ドラフォとベルクが、舷側をよじ登った。
甲板に降りた途端、熱が顔を打った。煙が目に染み、息を吸うと喉が焼けるようだった。
「桶を並べろ」ベルクが叫んだ。「一列だ。汲む者と、渡す者と、かける者に分かれろ」
水夫たちが、ベルクの声に従って列を作った。桶が、手から手へと渡っていく。だが、それでも火は帆柱の根元を舐め始めていた。
ドラフォは、船倉の昇降口を見た。
「船倉に、油の樽はあるか」ドラフォが、船長に叫んだ。
「三つあります」船長が叫び返した。「昇降口のすぐ下です」
ドラフォは、昇降口に駆け寄った。蓋を引き上げると、下から煙が吹き上がってきた。燃えた帆布の切れ端が、既に何枚か船倉の中へ落ちていた。
「樽を上げろ。海へ捨てろ」ドラフォは叫んだ。
ドラフォは、自ら梯子を降りた。煙の中で、手探りで樽を探した。重い木の樽が、指に触れた。
上から、誰かが降りてきた。ミゼンだった。「エイカ」の小舟で着いたばかりらしい。
「一人で持てる重さじゃない」ミゼンが言った。
二人で樽を担ぎ上げた。梯子の上で、ベルクが受け取った。樽は、舷側から海へ投げ落とされた。ドボン、と重い水音がした。
二つ目。三つ目。
三つ目の樽を上げた時、ドラフォの外套の裾に火が移った。ベルクが、手にした桶の水をそのまま浴びせた。ジュッと音がして、火は消えた。
その時、暗い海面を、エンジンの音が近づいてきた。
「あさひ」の内火艇だった。
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内火艇が「サフィ」の舷側に着くと、灰色の防火服の男たちが次々と甲板に上がってきた。太いホースを引きずっている。
防火服の男たちの顔は、面体で覆われていた。本国の水夫たちには、それが人の顔に見えなかったらしい。何人かが、思わず後ずさった。
一人の水夫が、手にした桶を振り上げた。見たことのない化け物が、甲板に上がってきたと思ったのだろう。
その時、内火艇から甲高い声が飛んだ。
本国の言葉だった。ナサが、内火艇の舳先に立っていた。
「その者たちは、火を消しに来た」ナサは叫んだ。「顔を覆っているのは、煙を吸わないためだ。道を開けろ」
桶を振り上げた水夫が、動きを止めた。周りの水夫たちも、ナサの声のする方を振り返った。
「水を吐く管を持っている」ナサは続けた。「その管の前に立つな。弾き飛ばされるぞ」
水夫たちが、慌てて左右に分かれた。甲板の中央に、一本の道ができた。防火服の男たちが、ホースを引いてその道を進んでいった。
防火隊の隊長が、ナサの方を振り返った。ナサは、小さく頷いてみせた。
「下がって。下がって」
防火隊の隊長が、手振りで水夫たちを火から遠ざけた。言葉は通じなかった。だが、その手の動きの意味は、誰にでも分かった。
「放水始め」
可搬ポンプが唸りを上げた。ホースの先から、海水が勢いよく噴き出した。ドドドッと重い音を立てて、水の柱が炎に叩きつけられる。
「サフィ」の水夫たちが、呆然とそれを見ていた。
桶で汲む水とは、比べものにならなかった。一本の水の柱が、甲板を這う炎をまとめて押し流していく。帆柱の根元に取りついていた火が、見る間に白い湯気に変わっていった。
帆柱の根元の炎が、みるみる小さくなっていった。燃えていた帆布が、黒い塊になって甲板に沈んだ。
ベルクが、桶の列に叫んだ。
「手を止めるな。残り火を潰せ」
水夫たちが、我に返って桶を回し始めた。ホースの水と、桶の水が、同じ甲板の上に降り注いだ。
防火隊の一人が、ベルクの桶の列を見て、ホースの向きを変えた。ホースが届きにくい船尾の隅を、桶の列に任せる。そういう意味だと、ベルクはすぐに察した。
「船尾へ回れ」ベルクは叫んだ。「真ん中は、あの水に任せろ」
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火は、夜半前に消えた。
甲板は、黒く焦げた帆布と水浸しの板で覆われていた。帆柱の根元は、表面が炭になっていた。だが、芯までは焼けていなかった。
焦げた匂いと、湯気と、潮の匂いが混じり合っていた。水夫たちは、甲板に座り込んだまま、しばらく動けなかった。何人かは、煙を吸って激しく咳き込んでいた。
「あさひ」の内火艇から、衛生員が上がってきた。咳き込む水夫の背中をさすり、火傷をした者の腕に白い布を巻いていく。
ドラフォは、帆柱に手を当てた。まだ熱かった。
指先に、炭になった表面の感触があった。その下に、固い木の芯がある。削れば、また使える。ドラフォは、そう思った。
防火隊の隊長が、ドラフォの横に来た。面体を外すと、汗で濡れた顔が現れた。言葉は通じなかった。隊長は、帆柱を指差し、それから親指を立てた。
ドラフォは、その仕草の意味を考えた。やがて、自分も親指を立てて見せた。
隊長は、少し驚いた顔をしてから笑った。
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火が消えてしばらくすると、もう一艘の内火艇が「サフィ」の舷側に着いた。
降りてきたのは、川上だった。焦げた甲板を見回し、防火隊の隊長から短く報告を受けた。それから、帆柱の傍らに立つドラフォの方へ歩いてきた。
ナサが、二人の間に立った。
川上は、軽く頭を下げた。ドラフォも、同じように頭を下げた。二人が言葉を交わすのは、これが初めてだった。
「礼を言う」ドラフォは言った。「あの管の水がなければ、この船は燃えていた」
ナサが訳すと、川上は首を振った。
「礼なら、油の樽を捨てた者に」川上は言った。「当直員が見ていました。煙の出ている船倉に、誰かが降りていったと。あれがなければ、我々が着いた時には手遅れだった」
ドラフォは、隣に立つミゼンを見た。ミゼンは、肩をすくめた。
「油の樽を担いだのは、三人だ」ミゼンが言った。「上で受け取ったのは、あの砲術長だ」
ナサがそれを訳すと、川上は甲板の向こうで桶の列を解いているベルクを見た。煤で真っ黒になった顔で、ベルクは水夫たちに残り火の見回りを割り振っていた。
「あの人は」川上が聞いた。
「明日の朝、帰る」ナサが言った。「二度目。船」
川上は、しばらくベルクの背中を見ていた。
「一つ、聞いてもいいか」ドラフォは言った。「あの管の水は、どれほど出せる」
川上は、少し考えてから答えた。
「海の水ですから」川上は言った。「海が尽きない限りは」
ナサがそれを訳すと、ドラフォはしばらく黙っていた。それから、低く笑った。
「湾口で、あの管をこちらに向けられなくて良かった」ドラフォは言った。
川上は、ナサの訳を聞いて、少しだけ口元を緩めた。
「火を消すためのものです」川上は言った。「人に向けるものではありません」
────
甲板の隅に、若い水夫が一人うずくまっていた。
ランプを倒した水夫だった。顔は煤で真っ黒になり、両手には火傷の赤い痕があった。燃える帆布を素手で剥がそうとしたのだろう。
船長が、その水夫の前に立った。
「お前の膝が、ランプを倒した」船長は言った。「皆が見ていた」
水夫は、顔を上げなかった。
「罰を受けます」水夫は、かすれた声で言った。「どんな罰でも」
船長が口を開きかけた時、ドラフォがその肩に手を置いた。
「罰なら、もう受けた」ドラフォは言った。「その手を見ろ」
船長は、水夫の手を見た。それから、ドラフォの顔を見た。
「この船は、三百二十人のうち最後の百人余りを運ぶ」ドラフォは言った。「漕ぎ手も縫い手も、一人でも多く要る。手が治ったら、帆を縫え。それがお前の罰だ」
水夫は、ようやく顔を上げた。煤で汚れた頬を、涙が一筋伝っていた。
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浜では、収容区画の門の前に、捕虜たちが集まっていた。
門は、夜は閉じられる決まりだった。だが、火の手が上がった時、見張りの兵は門を開けていた。捕虜たちは浜まで駆け下り、小舟を押し出す手伝いをした。
浜辺にも、桶の列ができていた。海から水を汲み、小舟に積み込む。それを、「サフィ」へ向かう小舟が運んでいった。捕虜たちと豪州軍の兵たちが、同じ列に並んで桶を回していた。
誰も、それを命じてはいなかった。
門を開けたのは、軍曹だった。火の手を見た瞬間、軍曹は門番に鍵を開けさせた。後になって、その判断をカーターに報告した。
「勝手なことをしました」軍曹は言った。
「正しいことをした」カーターは言った。
カーターが、門の前に戻ってきた捕虜たちの数を数えていた。
一人ずつ、門をくぐって戻ってくる。煤で汚れた顔。濡れた服。誰もが疲れ切っていた。それでも、戻ってきた。逃げようと思えば、闇に紛れて逃げられた夜だった。
一人も欠けていなかった。
「全員いる」カーターは言った。
見張りの兵が、門を閉めようとした。カーターは、それを手で止めた。
「今夜は、開けておけ」カーターは言った。
見張りの兵は、少し戸惑った顔をした。それから、門の扉を開けたままにして、その横に立った。
軍曹が、カーターの隣に来た。
「隊長」軍曹は言った。「今夜の見張りは、門の外に立てますか。内に立てますか」
カーターは、少し考えた。
「外だ」カーターは言った。「今夜は、外から来るものを見張れ」
門の内側で、捕虜たちが天幕へ戻っていった。何人かが、振り返って開いたままの門を見た。誰も、そこから出ていこうとはしなかった。
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湾口
夜が明けると、「オーレン」が帆を上げた。
甲板には、二度目の組が乗っていた。ベルクも、その中にいた。昨夜の煤が、まだ頬に残っていた。
ベルクは、ほとんど眠っていなかった。火が消えた後も、「サフィ」の甲板で残り火を見張っていたのだ。夜明け前に浜へ戻り、そのまま乗船の列に並んだ。
乗船の前、ドラフォが浜でベルクを待っていた。外套の裾は、焼け焦げて短くなっていた。
「昨夜は、助かった」ドラフォは言った。
「将軍こそ」ベルクは言った。「船倉に自分から降りる将軍は、初めて見ました」
「もう将軍ではない」ドラフォは言った。
「私にとっては、将軍です」ベルクは言った。
ドラフォは、何も言い返さなかった。ただ、ベルクの肩を一度だけ叩いた。
夜明けと共に、「エイカ」から一艘の小舟が「サフィ」へ向かった。
小舟には、大きな布の包みが積まれていた。亡命艦隊の予備の主帆だった。
「エイカ」の水夫長が、「サフィ」の船長に包みを渡した。
「殿下からだ」水夫長は言った。「縫い直すより、こちらの方が早い」
「サフィ」の船長は、包みを見下ろしたまま動かなかった。
亡命艦隊の帆だった。あの湾口で、自分たちの艦隊が砲を向けた相手の帆だった。その帆を、本国へ帰る船に張る。
「受け取れない」船長は言った。「これは、あなたたちの予備だ」
「予備は、使うためにある」水夫長は言った。「うちの船は、帆を畳んでいる。当分、上げる予定はない」
船長は、しばらく黙っていた。やがて、包みを両手で受け取った。
「本国の港に着いたら」船長は言った。「この帆を、畳んで返しに来る」
「返さなくていい」水夫長は言った。「その時は、次にこの海を渡る船に張ってやってくれ」
「サフィ」の焦げた帆柱の横を、「オーレン」はゆっくりと通り過ぎた。「サフィ」の甲板から、水夫たちが手を振った。その中に、灰色の服の男が二人混じっていた。夜明けから、帆柱の焦げを削る手伝いに来ていたのだ。
両手に白い布を巻いた若い水夫も、その中にいた。巻いた布の上から、不器用に手を振っていた。
ベルクは、手すりから浜を見た。丘の麓の天幕の列が見えた。あの中の一本の柱に、ヨアンの印がある。
その柱は、三度目の船に積まれることになっていた。自分が刻んだ印が、自分より遅れて故郷へ帰る。ベルクは、それで構わないと思った。
ドラフォは、浜に残っていた。三度目の船と一緒に帰る。それが、決めたことだった。
「オーレン」は、湾口の外で向きを変えた。南風は、まだ吹いていた。帆がいっぱいに膨らんだ。
ドラフォは、焦げた帆柱を振り返った。
「サフィ」の出航は、また少し遅れる。だが、船は燃えなかった。




