帰りの帆
署名から三十一日目 湾口 捕虜収容区画
若い水夫は、柱の前に座っていた。
天幕の布の隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。寝台の上では、まだ何人かが眠っている。外からは、見張り台の交代の足音が聞こえていた。
刻み目は、深い印に届いていた。終わりの印だった。三十日目の朝、水夫はそこに最後の一つを刻んだ。
あの朝、天幕の男たちは早くから起き出していた。誰も口には出さなかったが、皆が北の海を気にしていた。昼になっても、夕方になっても、水平線には何も現れなかった。
だが、船は来なかった。
夜になると、天幕の中の空気が変わった。配られた夕食に、誰も手をつけなかった。隅の方で、誰かが低い声で言った。やはり、捨てられたのだ、と。
その声に、応じる者はいなかった。だが、否定する者もいなかった。
三十一日目の朝も、水夫は小刀を抜いた。終わりの印の、その先に。一つ、刻んだ。
木の匙を削った刃は、何度も使ううちに先が丸くなっていた。それでも、柱の木は素直に削れた。
隣の寝台の男が、黙ってそれを見ていた。
「来ないのか」男が言った。
「来る」水夫は言った。「風が悪いだけだ」
水夫の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。刻む意味は、もう分かっていた。海の向こうで、誰かが同じ日を数えている。
男は、しばらく水夫の顔を見ていた。それから、寝台の下から自分の靴を引っ張り出した。紐を結び直し、天幕の入り口へ向かった。
「どこへ行く」水夫が聞いた。
「海を見に行く」男は言った。「来るなら、最初に見つけてやる」
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三十二日目 湾口 捕虜収容区画
昼過ぎ、広場で騒ぎが起きた。
配給の列で、若い男が二人つかみ合いになっていた。一人が、もう一人の襟首を掴んで怒鳴っている。
「帰れると言ったのは誰だ」若い男は叫んだ。「三十日と言ったのは誰だ。お前も、あの技師の言葉を信じたのか」
周りの男たちが、遠巻きにそれを見ていた。止めに入る者はいなかった。何人かは、拳を握っていた。苛立ちが、広場じゅうに溜まっていた。
見張り台の上で、MINIMIの兵が姿勢を変えた。広場の周りの兵たちも、F88の握りに手を移した。
その時、年嵩の男が人垣を割って前に出た。
ベルクだった。
ベルクは、つかみ合う二人の間に割って入った。怒鳴っていた若い男の手首を、無言で掴んだ。若い男が振りほどこうとしたが、ベルクの手は動かなかった。
「今は、何月だ」ベルクが聞いた。
若い男は、面食らったように黙った。
「答えろ。何月だ」
若い男が、月の名を答えた。
「この月に、南から風が吹いたことがあるか」ベルクは言った。「この十日、ずっと南風だ。三十年船に乗ってきたが、この季節にこんな風は見たことがない」
ベルクは、若い男の手首を放した。
「迎えの船は、向かい風の中を来る」ベルクは言った。「間切りながら来る。三日や四日、遅れて当たり前だ。帆柱を折らずに着けば、それで上出来だ」
若い男は、何も言い返さなかった。掴んでいた襟首から、ゆっくりと手を放した。
ベルクは、広場を見回した。
「待てない者は、柱に刻め」ベルクは言った。「刻めば、待てる」
見張り台の上で、MINIMIの銃口が再び空へ戻った。
詰所の前で、カーターがそれを見ていた。隣で、ミゼンが小さく息を吐いた。
「今の男が、あの時石を投げさせた側じゃなくて良かった」カーターが言った。
「石を投げさせかけた側だよ」ミゼンは言った。「あの日、最初に立ち上がったのはあいつだ」
カーターは、少し驚いた顔をした。それから、広場の中央に立つベルクの背中を、もう一度見た。
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同日 湾口 護衛艦「あさひ」
ダーウィンから戻った「あさひ」は、再び湾口に錨を下ろしていた。
数日の整備で、機関の唸りは以前より静かになっていた。乗員たちの顔にも、少しだけ血の気が戻っていた。陸で眠り、陸の食事をとった。それだけのことが、長い錨泊の疲れを和らげていた。
艦橋で、川上は気象の記録を見ていた。この数日、湾口の北の海では、強い南風が吹き続けていた。
「季節外れですね」副長が言った。「この時期は、北寄りの風が吹くはずです」
「向こうの船乗りも、そう読んでいたはずだ」川上は言った。
「本国からの船は、向かい風の中を来ることになります」副長が言った。「帆船では、真っ直ぐには進めない」
「間切って来るしかない」川上は言った。「風上に向かって、ジグザグに」
川上は、海図の上に指で線を引いた。北の本国から、南の湾口へ。その真っ直ぐな線の両側に、斜めの線を何本も描き足していく。
「風上へ向かって、斜めに走る。帆の向きを変えて、反対側へ斜めに走る」川上は言った。「それを繰り返す。進む距離は、真っ直ぐ走る時の倍近くになる」
「こちらなら、風は関係ありませんが」副長が言った。
「だから、こちらの物差しで数えてはいけない」川上は言った。「向こうは、風を相手に走っている」
川上は、北の水平線を見た。何も見えなかった。
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同刻 外洋 迎えの船団「ミルテ」
船は、大きく傾いていた。
帆は、風に対して斜めに張られていた。帆柱がギシギシと軋み、索具がビイン、と鳴る。舳先が向かい波に突っ込むたびに、ザバンと白い水が甲板を洗った。
ドラフォは、後甲板で舵柄の横に立っていた。
「上手回し、用意」水夫長が叫んだ。
水夫たちが、綱に取りついた。舵が切られ、船首がゆっくりと風上を横切っていく。帆がバタバタと暴れ、一瞬だけ風を失う。やがて、反対側から風を掴んで、帆が再び膨らんだ。
北の軍港を出て、十日あまりが経っていた。
水夫長の読みでは、とうに湾口に着いているはずだった。だが、出航の三日後から、風が向きを変えた。季節外れの南風だった。それから、一度も止まずに吹き続けている。
「申し訳ありません」水夫長が、ドラフォの横に来て言った。「この季節は追い風だと申し上げました。読み違えました」
「風を読み違えるのは、風のせいだ」ドラフォは言った。「お前のせいではない」
昨夜、後続の「オーレン」で前帆の帆桁が折れていた。バキリ、という音が、闇の海を渡ってこちらまで聞こえた。「サフィ」も、主帆の縫い目がいくつか裂けていた。三隻とも、応急の手当てをしながら進んでいた。
「一日でも早く、と思われますか」水夫長が聞いた。「帆をもう一枚増やせば、少しは速くなります」
ドラフォは、裂けかけた「サフィ」の帆を遠くに見た。
「いや」ドラフォは言った。「帆柱を折れば、湾口に着けない。着けなければ、三百二十人はまた待つことになる」
ドラフォは、北の空を振り返った。それから、南の水平線に目を戻した。
「遅れても着く方がいい」ドラフォは言った。「向こうには、日を数えている者がいる。数えている者は、待てる」
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三十三日目 早朝
最初に帆を見つけたのは、「エイカ」の見張りだった。
帆柱の上から、甲高い声が降ってきた。水平線に、帆が三つ。いずれも、風に逆らって斜めに傾いている。
報せは、すぐに浜へ走った。基地へ、そして収容区画へと広がっていった。
若い水夫は、天幕を飛び出した。鉄条網に取りつき、北の海を見た。まだ小さな、白い点だった。それでも、確かに帆だった。
鉄条網の前には、既に隣の寝台の男がいた。一晩じゅう、そこに座っていたらしい。男は、水夫の顔を見ると、黙って北を指差した。
天幕から、次々と男たちが出てきた。鉄条網に沿って、人の列ができた。誰もが、同じ方角を見ていた。
ベルクが、その隣に立った。
「間切ってきたな」ベルクは言った。「三日遅れか。この風なら、上出来だ」
ベルクは、目を細めて帆の数を数えた。三つ。三つとも、まだ帆柱が立っている。
「一隻、前帆が低い」ベルクは言った。「帆桁を折ったな。それでも来た」
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昼過ぎ、三隻の輸送船が湾口に入ってきた。
「ミルテ」「オーレン」「サフィ」。砲門は、真新しい板で塞がれていた。舷側を波が叩き、ザブン、と白い飛沫が上がる。錨鎖がガラガラと鳴った。
近くで見ると、三隻とも傷だらけだった。「オーレン」の前帆は、折れた帆桁を縄で継ぎ合わせてあった。「サフィ」の主帆には、裂け目を縫い合わせた跡が何本も走っていた。塞がれた砲門の白い板も、潮を被って灰色にくすんでいた。
「あさひ」の艦橋で、川上は双眼鏡を下ろした。
「よく来たな」川上は言った。
浜には、アルセナが立っていた。レナと、ミゼンと、ナサが一緒だった。
先頭の「ミルテ」から、小舟が一艘下ろされた。舳先に立つ男の姿を見て、ミゼンが息を呑んだ。
「ドラフォだ」
ナサが、ミゼンの横顔を見た。
「知ってる。人」ナサが言った。
「知ってる」ミゼンは言った。「あいつの艦隊に、俺の弔いまで出させた男だ」
小舟が、浜に着いた。ドラフォは、波打ち際に降りた。濡れた砂を踏んで、ゆっくりとアルセナの前まで歩いてきた。
階級章は、付けていなかった。
外套は、潮で白くなっていた。髭は伸び、頬はこけていた。それでも、歩き方だけは、艦隊を率いていた頃と変わらなかった。
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ドラフォは、アルセナの前で膝をついた。
浜に集まっていた者たちが、一斉に息を呑んだ。亡命艦隊の水夫たち。豪州軍の兵たち。「あさひ」の乗員たち。本国の将軍が、砂の上に膝をつく姿を、誰も見たことがなかった。
「殿下」ドラフォは言った。「あの湾口で、砲を向けました。命令とはいえ、撃ったのは私の艦です」
アルセナは、黙ってドラフォを見下ろしていた。
「私の号令で、同胞の船に火が移りました」ドラフォは続けた。「何人が海に落ちたのか、私は知りません。知ろうとしなかった。それも、お詫びせねばなりません」
「謝罪を、口でお伝えしたかった」ドラフォは言った。「紙には、書けませんでした」
浜は、静まり返っていた。波の音だけが聞こえていた。
レナが、アルセナの半歩後ろで唇を噛んでいた。
アルセナは、膝を折った。ドラフォと同じ高さまで身をかがめた。
外套の裾が、濡れた砂に触れた。アルセナは、それを気にしなかった。
「立て、ドラフォ」アルセナは言った。「帆を下ろそうと言った時、お前は頷いた。それで十分だ」
ドラフォは、顔を上げた。
「私も、お前の艦に砲を向けた」アルセナは言った。「あの海では、誰の手も汚れている。汚れた手で、あの紙に名を書いた」
アルセナは、ドラフォの目をまっすぐに見た。
「迎えに来たのだろう」アルセナは言った。「なら、立って仕事をしろ」
ドラフォは、ゆっくりと立ち上がった。
ミゼンが、一歩前に出た。
「生きてたな」ミゼンは言った。
ドラフォは、ミゼンを見た。長いこと、何も言わなかった。
「お前こそ」ドラフォは、やがて言った。「弔いを出した男に、生きてたなと言われるとはな」
ミゼンは、少しだけ笑った。
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浜の人垣が少しずつ散っていく中で、アルセナはドラフォを天幕の陰に誘った。
署名の日に使われた天幕は、まだ浜に張られたままだった。長い机も、そのまま残っていた。
アルセナは、懐から協定の写しを取り出した。署名の日に、アルセナが自分の手元に残した一枚だった。末尾に、三つの名が並んでいる。自分の名の隣には、空白があった。
アルセナは、机の上の筆を取って、ドラフォに差し出した。
「書け」アルセナは言った。
ドラフォは、筆を見た。それから、空白を見た。
「まだです」ドラフォは言った。
アルセナは、筆を差し出したまま待った。
「三百二十人を、全員帰してからです」ドラフォは言った。「三度目の船が本国の港で帆を畳んだ時に、その空白を埋めさせてください。それまでは、この紙に名を書く資格が私にはありません」
アルセナは、しばらくドラフォの顔を見ていた。やがて、筆を机に戻した。
「頑固なところは、変わらないな」アルセナは言った。
「変わったのは、膝だけです」ドラフォは言った。
アルセナは、写しを畳んで懐に戻した。
「では、その日まで預かっておく」アルセナは言った。
天幕の入り口で、レナが二人を待っていた。ドラフォは、レナの前で足を止めた。
「手紙を受け取った」ドラフォは言った。「短かった」
「書きたいことが多すぎましたので」レナは言った。
「知っている」ドラフォは言った。「お前は、昔からそうだった」
レナは、何も言わなかった。ただ、ほんのわずかに目を伏せた。その目元が、少しだけ赤くなっていた。
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向かい風の航海で、「オーレン」と「サフィ」は帆と索具を傷めていた。修理には数日かかる。まず「ミルテ」一隻が、最初の組を乗せて帰ることになった。
「あさひ」から、工作員が二人、小舟で「オーレン」へ渡った。折れた帆桁を見て、二人は顔を見合わせた。木と縄でできた索具は、彼らの手に余るものだった。それでも、鉄の継ぎ具なら作れると申し出た。
「オーレン」の船長は、ドラフォの元副長だった。灰色の服の男たちが持ってきた鉄の金具を、副長は長いこと手の中で眺めていた。
「使わせてもらおう」副長は言った。
ドラフォは、浜からその様子を見ていた。灰色の鉄の船と、その船から来た男たち。湾口で砲を向けた時、あの船は遠い沖の影でしかなかった。
「あの船の長に、礼を伝えたい」ドラフォは言った。
ナサが、ドラフォの横に来た。
「伝える。私」ナサは言った。「あさひ。艦長。川上」
ドラフォは、ナサを見た。寝返った技師。本国では、そう呼ばれていた男だった。その男が、いま自分とあの海の民の間に立っている。
「頼む」ドラフォは言った。「金具の礼と、それから」
ドラフォは、少し言葉を探した。
「湾口を、見張っていてくれた礼を」
ナサは、頷いた。そして、「あさひ」の方へ向かって歩いていった。
その日の午後、最初の帰還が始まった。
収容区画の広場に、書記の机が出された。若い書記が、名簿を広げて一人ずつ名を呼んだ。呼ばれた者が前に出て、名を確かめられ、浜へ向かう列に加わる。
最初の組は、百と七人だった。怪我をしている者、年の若い者、故郷に幼い子を残している者。署名の日に、書記と使節団の長がそう順番を決めていた。
ドラフォは、書記の横に立っていた。足元には、手紙の詰まった樽が置かれていた。
名が呼ばれるたびに、ドラフォは樽の中を探った。その名の手紙があれば、本人に手渡した。
手紙を受け取った者の多くは、その場で封を切らなかった。懐に深くしまい込み、胸を押さえるようにして列へ向かった。船の上で、一人で読むつもりなのだろう。
中には、その場で紙を広げて、膝から崩れる者もいた。周りの男たちが、黙ってその肩を支えた。
若い水夫の名が呼ばれた。
水夫が前に出ると、ドラフォは樽の中から一枚の紙を取り出した。字ではなく、絵が描かれていた。帆を畳んだ帆船の絵だった。
「妹さんからだ」ドラフォは言った。「字は、まだ書けないそうだ」
水夫は、紙を受け取った。拙い線の帆船を、長いこと見つめていた。
帆は、きちんと畳まれていた。帆桁に縛る綱まで、一本ずつ描かれている。
「港の掲示板を見て、描いたそうだ」ドラフォは言った。「帆を畳むと決まったから、兄さんは帰ってくる、と」
水夫は、何か言おうとした。だが、声にならなかった。ただ、紙を胸に押し当てて、ドラフォに深く頭を下げた。
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列の最後で、ドラフォは書記に声をかけた。
「帰らなかった者の頁を、見せてくれ」
書記は、名簿の最後の頁を開いた。ドラフォは、懐から手帳を取り出した。軍港の桟橋で、老人から聞いた孫の名がそこにあった。
帰らなかった者の頁は、三枚に増えていた。署名の日から、捕虜たちが一人ずつ書記に告げてきた名だった。
ドラフォは、頁の名を一つずつ指で辿った。
その指が、ある一行で止まった。
ヨアン。港の鍛冶屋の息子。「グラーヴェ」の砲手。
最初に書かれた名だった。
ドラフォは、長いこと動かなかった。それから、手帳のその名の横に、小さく印をつけた。
背後に、人の気配がした。振り返ると、ベルクが立っていた。
「その名を、どこで」ベルクが聞いた。
「北の軍港で」ドラフォは言った。「祖父だという老人から聞いた。鍛冶屋の先代だそうだ。手紙を書いても、渡す相手がいないと言っていた」
ベルクは、しばらく黙っていた。
「帆柱ごと落ちました」ベルクは言った。「湾口の、二度目の砲撃の時です。私が砲の前に立たせた」
ドラフォは、ベルクの顔を見た。
「その砲撃の号令を出したのは、私だ」ドラフォは言った。
二人は、それ以上何も言わなかった。ただ、名簿の上の一行を、並んで見下ろしていた。
やがて、ドラフォは手帳を閉じた。
「老人には、私から伝える」ドラフォは言った。「どこで、どう落ちたのか。聞かせてくれるか」
「話します」ベルクは言った。「私が見た全てを」
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夕刻 湾口
「ミルテ」が、帆を上げた。
百人余りを乗せた船が、ゆっくりと湾口を出ていく。甲板の手すりに、帰る者たちが鈴なりになっていた。
甲板の上に、若い水夫の姿もあった。手すりから身を乗り出して、丘の麓の収容区画を見ていた。その手には、妹の絵が握られていた。
浜から、残る者たちが手を振っていた。二度目と三度目の船を待つ者たちだった。ベルクも、その中にいた。
鉄条網は、もう彼らを隔ててはいなかった。署名の後、収容区画の門は昼の間だけ開かれるようになっていた。浜まで降りてきた捕虜たちの周りに、兵たちが距離を置いて立っていた。F88は、弾倉を抜いたまま肩に掛けられていた。
「エイカ」の甲板でも、水夫たちが手を振っていた。「あさひ」の後部甲板でも、乗員たちが並んで見送っていた。
「ミルテ」は、湾口の外で向きを変えた。今度は追い風だった。帆がいっぱいに膨らんだ。
十日以上吹き続けた南風が、今度は船を北へ押していた。
ドラフォは、「オーレン」の甲板からそれを見送っていた。
継ぎ合わされた帆桁の下で、元副長が隣に立っていた。
「あの風なら、十日かからずに着きます」元副長が言った。
「そうだな」ドラフォは言った。
本国の港に着いたら、あの帆は畳まれる。ドラフォは、そう思った。
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同夜 湾口 浜
浜の焚き火の傍らで、ドラフォとベルクが向かい合って座っていた。
薪がパチパチとはぜ、火の粉が夜空へ昇っていく。少し離れた場所に、豪州軍の兵が一人立っていた。銃は肩に掛けたまま、二人の話には近づかなかった。
ベルクは、ヨアンのことを話した。
港の鍛冶屋の三男だったこと。「グラーヴェ」に乗ったのは、兄たちが既に艦隊にいたからだったこと。砲の装填が誰より速く、それを褒めると耳まで赤くなったこと。
そして、あの日のことを話した。
二度目の砲撃で、「グラーヴェ」の主帆柱に弾が当たった。帆柱は、ゆっくりと傾いた。その根元で、ヨアンは砲弾を抱えていた。逃げろと叫んだ時には、もう遅かった。帆柱と一緒に、ヨアンは海へ落ちた。
「波の間に、一度だけ顔が見えました」ベルクは言った。「それきりです」
ベルクは、焚き火に目を落とした。
「湾口の柱に、あいつの印を一つ刻みました」ベルクは言った。「若い水夫が、その印を消さずに数え続けてくれた。今日、その水夫は船に乗りました。印は、柱に残っています」
「柱は、あの天幕が畳まれたらどうなる」ドラフォが聞いた。
「分かりません」ベルクは言った。「薪になるか、次の天幕の杭になるか」
ドラフォは、しばらく考えていた。
「三度目の船に、あの柱を積もう」ドラフォは言った。
ドラフォは、手帳にそれを書き留めていった。一語も省かなかった。
書き終えると、ドラフォは手帳を閉じた。
「老人に、これを全部話す」ドラフォは言った。「省かずに」
「辛い話です」ベルクは言った。
「辛い話だからだ」ドラフォは言った。「省けば、あの老人は、孫の最後を知らずに死ぬことになる」
焚き火が、また一つはぜた。
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同夜 湾口 護衛艦「あさひ」
ミゼンとナサは、後部甲板にいた。
沖では、「オーレン」と「サフィ」に灯りが点っていた。夜通し、修理の槌音がカン、カンと響いている。
「あの男。ドラフォ」ナサが言った。「変わった」
「変わったな」ミゼンは言った。「前は、膝なんかつく男じゃなかった」
「膝。つく。強い。人。しか。できない」ナサは言った。
ミゼンは、ナサを見た。それから、沖の灯りに目を戻した。
「一人も落とさずに帰る、と言ったそうだ」ミゼンは言った。「軍港を出る時に」
「落とさない」ナサは言った。「でも。もう。落ちた。人。いる。ヨアン」
「だから、今度は落とさないんだろう」ミゼンは言った。
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夜 湾口 捕虜収容区画
若い水夫の寝台は、空になっていた。
天幕の中には、まだ半分以上の男たちが残っていた。二度目の船と、三度目の船を待つ者たちだった。昼間の騒ぎが嘘のように、天幕の中は静かだった。
柱には、刻み目が並んだまま残っていた。終わりの印の先に、三つ。そして、隅に離れて、小さな印が一つ。
柱の根元に、小刀が一本置かれていた。木の匙を削って作ったものだった。
次の船を待つ誰かが、それを拾い上げた。




