署名
十二日後 湾口
「ハルネ」が、再び湾口に姿を見せた。
朝の見張りが、最初に帆を見つけた。三本の帆柱に、白い帆がいっぱいに張られている。護衛艦「あさひ」の艦橋で、当直士官が双眼鏡を下ろした。
「使節団の船です」当直士官が言った。「予定より二日早い」
川上は、時計を見た。
「風が良かったんだろう」川上は言った。「陸に知らせろ」
通信員が、基地への回線を開いた。艦橋の空気が、わずかに張り詰めた。この数週間、湾口の誰もがこの帆を待っていた。
副長が、艦長席の横に立った。
「内火艇を出しますか」副長が聞いた。「使節団を浜まで運ぶなら、こちらの艇の方が早い」
川上は、少し考えた。
「いや」川上は言った。「あちらの小舟で来てもらう。自分の舟で浜に着くことに、意味があるはずだ」
副長は頷いた。
「ハルネ」は、湾口の内側で帆を下ろし始めた。一枚、また一枚。錨鎖がガラガラと鳴り、船体がゆっくりと止まる。
川上は、双眼鏡を上げた。帆は下ろされただけで、まだ畳まれてはいなかった。帆桁の下で、白い布が緩く揺れている。
「畳むのは、署名の後か」川上は、独りごちた。
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前夜 豪州基地 交渉の場
訳文の清書は、前の晩に終わっていた。
十六夜は、書き上げた紙を赤城の前に置いた。本国の正本の写しと、日本語の訳文。二枚を並べると、行の数がぴったりと揃っていた。
赤城は、訳文を一行目から読んでいった。
三行目で、赤城の目が止まった。
帆を畳む。
赤城は、顔を上げた。
「休戦、ではないのか」赤城は言った。
「はい」十六夜は言った。「この一語だけは、あちらの言葉の形のまま移しました」
「日本語の協定文としては、異例だな」
「異例です」十六夜は言った。「外務省の書式にも、法令用語にも、こんな言葉はありません。東京から、書き直せと言われるかもしれません」
赤城は、黙って訳文を見つめていた。
「休戦と書けば、意味は通ります」十六夜は続けた。「でも、あちらの評議会は、この一語のために石を投げ合いました。四十日で破れた協定のことまで持ち出して、ようやく決めた言葉です。それを、こちらの紙では消してしまう。それが、どうしてもできませんでした」
赤城は、長いこと黙っていた。
窓の外で、湾の灯りが揺れていた。あの灯りの一つ一つの下で、三百二十人が帰る日を待っている。
「それでいい」赤城は言った。
それだけだった。赤城は、訳文を丁寧に揃えて、十六夜に返した。
────
同日 湾口 浜の天幕
署名の場は、浜に張られた天幕だった。
どちらの船の上でもなく、どちらの基地の中でもない場所。そう求めたのは、十六夜だった。あちらの民にとって、船は国そのものだ。こちらの基地は、あちらから見れば敵の陣地だった。
天幕は、豪州軍の兵たちが夜明け前から張っていた。砂地に杭を打ち、太い綱で四方を引く。潮風が吹くたびに、天幕の布がバサバサと鳴った。
カーターは、張り終えた天幕の周りを一度歩いて回った。杭の一本一本を、靴の先で確かめていく。
「風で倒れたら、目も当てられんからな」カーターは言った。
白瀬が、天幕の中で机の位置を測っていた。
「机の向きは、どちらにも上座が無いように」白瀬は言った。「入り口から見て、真横に置いてください。どちらかが奥に座ることにならないように」
兵たちが、机を持ち上げて向きを変えた。
天幕の中央に、長い机が一つ置かれた。机の上には、二通の紙が並んでいる。本国の文字で書かれた正本と、日本語の訳文だった。
十六夜は、訳文の三行目に目を落とした。
帆を畳む。
休戦とは書かなかった。この一語だけは、あちらの言葉の形のまま日本語に移した。赤城にそれを見せた時、赤城は長いこと黙っていた。そして、それでいい、とだけ言った。
東京からの返事は、夜のうちに届いていた。訳文の差し替えは求めない。現地の判断を尊重する。短い文面だった。白瀬が、その紙を黙って十六夜に見せた。
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天幕の外に、人が集まり始めていた。
亡命艦隊の水夫たち。豪州軍の兵たち。「あさひ」から上陸した乗員たち。そして、丘の麓の収容区画からは、捕虜たちが鉄条網越しにこちらを見ていた。
浜には、見えない線が引かれていた。亡命艦隊の水夫たちは天幕の左手に。豪州軍と「あさひ」の乗員は右手に。誰が決めたわけでもなかった。それでも、線を踏み越える者はいなかった。
その線の上を、子どもが一人駆けていった。基地で働く豪州人技師の娘だった。父親を探して浜に来たらしい。少女は、左手の水夫たちの間をすり抜け、右手の兵たちの足元をくぐった。
水夫の一人が、少女が落とした帽子を拾い上げた。少女は振り返り、帽子を受け取ると、小さく頭を下げた。水夫は、ぎこちなく笑った。
少女が走り去った後も、見えない線はそこにあった。だが、その線は少しだけ細くなったように見えた。
ミゼンは、天幕の入り口に立っていた。額の傷は、薄い線になっていた。
隣には、ナサがいた。ナサは、日本語の訳文の写しを手に持っていた。読み上げる役を任されてから、ナサはその紙を何度も読み返していた。
「緊張してるか」ミゼンが聞いた。
「する」ナサは言った。「日本。言葉。読む。人。前。初めて」
「本国の言葉で読めばいいのに」
「だめ」ナサは言った。「本国。言葉。十六夜。読む。日本。言葉。私。読む。逆。意味。ある」
ミゼンは、少し考えてから頷いた。
「来たぞ」ミゼンが言った。
浜に、小舟が着いた。使節団の長が降りてくる。その後ろに、若い男が一人従っていた。胸に帳面を抱えている。
小舟の舳先が砂を噛み、ザリッと音を立てた。長は、波打ち際で一度足を止めた。濡れた砂の上に立ち、天幕を見上げた。その顔には、長い航海の疲れと、それを上回る何かが浮かんでいた。
「誰だ、あれは」カーターが聞いた。
「書記だそうだ」ミゼンは言った。「名簿の続きを書きに来たらしい」
若い書記は、浜に降りると、辺りをきょろきょろと見回した。鉄の船。灰色の兵たちの服。見たことのない銃。その目が、最後に丘の麓の鉄条網で止まった。書記は、帳面を胸に強く抱え直した。
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天幕の中に、署名する者たちが揃った。
使節団の長。アルセナと、傍らに控えるレナ。赤城と、その後ろに十六夜と白瀬。証人として、カーターと川上が壁際に立っていた。
署名の前に、白瀬が一枚の紙を差し出した。
「委任の書状を、確認させてください」白瀬は言った。
十六夜が、それを訳した。使節団の長は頷いて、懐から封書を取り出した。評議会の印が押された、厚い紙だった。この者に、評議会に代わって署名する権限を与える。そう書かれていた。
十六夜が、文面を一行ずつ確かめた。印の形を、以前に届いた評議会の文書と見比べる。
「間違いありません」十六夜は言った。
赤城も、自分の委任状を机に置いた。日本政府から特別使節として与えられた書面だった。使節団の長が、それを十六夜の訳を聞きながら確かめた。
互いの紙を、互いが確かめる。それだけのことに、半年以上の月日がかかっていた。
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天幕の中で、署名が始まった。
最初に筆を取ったのは、使節団の長だった。評議会の名代として、正本の末尾に名を記す。筆の運びは、ゆっくりとしていた。
本国の筆は、鳥の羽の軸を削ったものだった。長は、墨壺に筆先を浸し、余分な墨を壺の縁で丁寧に落とした。紙の上を、筆がサラサラと走る。
次に、アルセナが筆を取った。
この休戦を最初に口にしたのは、アルセナだった。湾口の海で、ドラフォと交わした言葉。それが、いま紙になる。アルセナは、自分の名を書き終えると、その隣の空白をしばらく見つめた。
あの日、湾口の海には砲煙が立ちこめていた。ドドン、と黒い火薬が弾けるたびに、船体が震えた。その海の上で、アルセナはドラフォに帆を下ろそうと言った。ドラフォは、長い沈黙の後で頷いた。
「ドラフォにも、ここに書かせたかった」アルセナは、小さく言った。
レナが、傍らで頷いた。
「ドラフォ様には、写しをお送りしましょう」レナが言った。「殿下の署名の隣に、空白を残したまま」
アルセナは、少しだけ口元を緩めた。
「そうしてくれ」アルセナは言った。
最後に、赤城が筆を取った。
赤城は、自分の万年筆を使わなかった。使節団の長が、自分の羽根の筆を差し出していた。赤城は、それを受け取った。慣れない筆先が、紙の上で一度だけ引っかかった。
日本国特別使節。その肩書の下に、赤城は自分の名を書いた。豪州側の署名は、既に前日のうちに済ませてあった。
赤城は、筆を置いた。
羽根の筆を長に返すと、長は代わりに赤城の万年筆を指差した。十六夜が、長の言葉を訳した。
「交換しましょう、と言っています」十六夜は言った。「互いの国の筆で、互いの名を書いた記念に」
赤城は、万年筆を長の手に渡した。長は、その重さを確かめるように、しばらく掌の上で転がしていた。
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十六夜が、正本を読み上げた。
天幕の幕が、四方とも上げられた。浜に集まった全員から、天幕の中が見えるようになった。
本国の言葉で、一行目から。天幕の外の水夫たちにも聞こえるように、声を張った。
一年前、この言葉は十六夜にとって音の連なりでしかなかった。いま、その音の一つ一つが、意味を持って十六夜の口から出ていく。浜の水夫たちが、その声に耳を傾けていた。
三行目に来た時、十六夜は一度だけ息を継いだ。
帆を畳む。
天幕の外で、亡命艦隊の水夫たちがざわめいた。誰かが、帆柱の方を振り返った。
続いて、ナサが日本語の訳文を読み上げた。
「二つの。民。この海で。互いに。砲。向けた」ナサは言った。「いま。ここに。帆を。畳む」
片言だった。だが、一語も飛ばさなかった。
浜の右手に立つ兵たちは、黙って聞いていた。その中の何人かは、この湾口で銃を撃った者たちだった。弾が尽きかけた夜を知っている者たちだった。
ナサが読み終えると、浜はしばらく静まり返った。
最初に動いたのは、沖だった。
亡命艦隊の旗艦「エイカ」の帆桁に、水夫たちがよじ登っていくのが見えた。下ろされていた帆に手をかける。綱を解き、帆布を巻き上げ、帆桁に縛りつけていく。
誰かが命じたわけではなかった。アルセナも、驚いたように沖を見ていた。
「エイカ」に続いて、他の船でも水夫たちが帆桁に上がった。一隻、また一隻。湾口に錨を下ろしていた帆船の帆が、次々と畳まれていった。
最後に、「ハルネ」の帆が畳まれた。
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署名が終わった後、天幕の外で、使節団の長が十六夜を呼び止めた。
長は、日本語の訳文の写しを手にしていた。読めない文字の中で、三行目のある箇所だけを指で押さえていた。
「ここに、何と書いたのですか」長が聞いた。
「帆を畳む、と」十六夜は言った。「あなたの国の言葉の形のまま、私たちの言葉に移しました」
長は、しばらくその文字を見つめていた。
「私たちの言葉には、戦を休むという言葉があります」十六夜は続けた。「そう書けば、意味は通りました。でも、休んだものは、また始まります」
「それで、わざわざ帆の言葉を」
「あなたの国の評議会は、この一語のために石を投げ合いました」十六夜は言った。「その重さを、私たちの紙からも消したくなかったのです」
長は、深く頭を下げた。顔を上げると、訳文の写しを丁寧に畳んで、懐にしまった。
「評議会に持ち帰ります」長は言った。「あちらの紙にも、帆が畳まれていた、と」
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天幕の陰では、アルセナが赤城と並んで沖を見ていた。
畳まれた帆が、湾口の水面に白い影を落としていた。
「初めて会った日のことを、覚えていますか」アルセナが言った。
十六夜が、少し離れた場所から訳した。
「覚えています」赤城は言った。「水を一杯ずつ、互いに差し出しました。言葉は、ほとんど通じなかった」
「私たち。あなたたち。戦わない」アルセナは、日本語で言った。「あの日、私が覚えた言葉です」
赤城は、アルセナを見た。
「その言葉は、一度破られました」アルセナは続けた。「私たちが破ったのでも、あなたたちが破ったのでもない。遠い机の上で、破られた」
「今度は、同じ机の上で書かれました」赤城は言った。
アルセナは、ゆっくりと頷いた。
「帆を畳む、という言葉を」アルセナは言った。「あなたたちの紙にも残してくださったと聞きました。礼を言います」
「礼なら、あの通訳に」赤城は言った。
アルセナは、十六夜の方を振り返った。十六夜は、訳している途中で自分のことを言われたと気づき、少しだけ言葉に詰まった。
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少し離れた砂浜で、カーターが部下たちの前に立っていた。
休戦が始まってから、兵たちは一度も弾倉を抜いたことがなかった。夜も、銃を抱いたまま眠ってきた。その銃を、カーターは一人ずつ見ていった。
「弾倉を抜け」カーターは言った。
兵たちが、顔を見合わせた。
「湾口の警備は続ける」カーターは言った。「見張りは、今までどおり立てる。だが、今夜からは、弾倉を抜いて眠っていい」
軍曹が、最初にF88から弾倉を外した。カチリ、と乾いた音がした。続いて、一人、また一人と弾倉を抜いていく。
若い兵が、抜いた弾倉を手の中でしばらく見つめていた。
「隊長」若い兵が言った。「これ、本当に抜いていいんですよね」
「いい」カーターは言った。「帆は畳まれた。こっちも、銃を畳め」
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丘の麓の収容区画で、ベルクは鉄条網を握っていた。
風に乗って、十六夜の声が届いていた。帆を畳む。その一語が、ベルクの耳にはっきりと聞こえた。
湾口の帆が、次々と畳まれていくのが見えた。ベルクは、その光景から目を離さなかった。三十年近く海に出てきた。港に入って帆を畳む時の安堵を、ベルクは誰よりもよく知っていた。
隣に、若い水夫が立っていた。
「決まったんですか」水夫が聞いた。
「決まった」ベルクは言った。
水夫は、それ以上何も聞かなかった。ただ、ベルクと並んで、湾口の帆を見ていた。
────
その日の午後、使節団の長が収容区画を訪れた。
若い書記が、広場に机を出した。捕虜たちが、一人ずつその前に並んだ。書記は、名簿の写しと照らし合わせながら、名の横に新しい欄を書き加えていった。
帰る船の名と、出航の日。
最初の船は、三十日後だった。本国から迎えの船が来るまで、それだけの日数がかかる。全員を一度には運べない。三隻の船で、三度に分けて帰ることになっていた。
列は、ゆっくりと進んだ。名を告げる。書記が名簿を指で辿る。見つかると、書記は顔を上げて頷く。そして、船の名と日付を書き入れる。
名を告げた男たちの多くは、書き入れられた日付を何度も確かめてから列を離れた。
ベルクの番が来た。
「ベルク」ベルクは言った。「サロンの生まれ。『グラーヴェ』の砲術長」
書記は、名簿の中にその名を見つけた。船の名と日付を書き入れる。二度目の船だった。
ベルクは、机の前から離れなかった。
「もう一つ、書いてほしい名がある」ベルクは言った。
書記は、顔を上げた。
「ヨアン」ベルクは言った。「港の鍛冶屋の息子。『グラーヴェ』の砲手。この湾口で、帆柱ごと海に落ちた」
書記の筆が、止まった。
「その方は、名簿には」
「無い」ベルクは言った。「生きている者の名簿だからな」
書記は、使節団の長の方を振り返った。長は、少し離れた場所からそれを見ていた。長は、黙って頷いた。
書記は、名簿の最後の頁を開いた。余白に、新しい見出しを書いた。帰らなかった者。その下に、一つ目の名を書き入れた。
ヨアン。港の鍛冶屋の息子。「グラーヴェ」の砲手。
ベルクは、その一行をしばらく見つめていた。それから、書記に短く頭を下げて、列を離れた。
ベルクの後ろに並んでいた男が、机の前に立った。自分の名を告げた後、その男もまた、別の名を口にした。その次の男も。
書記は、黙々と筆を走らせた。余白の頁は、夕方までにもう一枚増えた。
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同日夜 東京 市ヶ谷
署名の報告は、その日のうちに市ヶ谷へ届いた。
桧山は、会議室の卓上に弾薬の残量表を広げていた。向かいには、遠野が座っている。
「署名されました」遠野が言った。「訳文も、現地の判断どおりです。帆を畳む、と」
「法制局は何と言っている」桧山が聞いた。
「前例はないが、条約ではなく現地協定なので問題はない、と」遠野は言った。「ただ、国会で聞かれたら説明に困るだろう、とも」
桧山は、小さく鼻を鳴らした。
「説明に困るくらいで済むなら、安いものだ」桧山は言った。
桧山は、残量表に赤鉛筆で印をつけ始めた。五・五六ミリ弾。八一ミリ迫撃砲弾。前線に置いてある数の横に、新しい数を書き入れていく。
「前線から、三割を後方へ戻す」桧山は言った。「戻した分は、次の備えに回す。弾の国産化の計画に、ようやく数字を入れられる」
遠野は、赤鉛筆の動きを目で追っていた。
「向こうの一語が、こちらの台所を決める」遠野は言った。「以前、あなたがそう言いました」
「言ったな」桧山は言った。「今日は、その台所に少しだけ余裕ができた。一語でな」
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同刻 亡命艦隊旗艦「エイカ」
レナは、船室の机で手紙を書いていた。
机の上には、協定の写しが置かれていた。末尾には、使節団の長とアルセナと赤城の名が並んでいる。アルセナの名の隣には、何も書かれていない空白があった。
レナは、手紙の最初の一行を書いた。ドラフォ様へ。
それから、しばらく筆を止めた。
書きたいことは、山ほどあった。湾口の帆が、一隻残らず畳まれたこと。誰も命じていないのに、水夫たちが自分で帆桁に上ったこと。殿下が、署名の後で長いこと空白を見つめていたこと。
だが、レナは、それらを全部は書かなかった。
殿下のお名前の隣に、空白を残してあります。いつか、ご自分の手で埋めてください。
それだけを書いて、レナは筆を置いた。
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夕刻 湾口 護衛艦「あさひ」
ミゼンとナサは、後部甲板にいた。
湾口の帆船は、どれも帆を畳んだまま錨を下ろしていた。帆桁の上で、白い帆布の束が夕日を受けて橙色に染まっている。
「全部の船が畳んだな」ミゼンが言った。
「畳んだ」ナサは言った。「誰。命令。無い。みんな。自分で」
「読み方、良かったぞ」ミゼンは言った。「一語も飛ばさなかった」
ナサは、少し笑った。
「練習。した」ナサは言った。「百回。くらい」
ミゼンは、沖の「エイカ」を見た。
「あの船に拾われた時」ミゼンは言った。「俺は、この海が一生終わらない戦場になると思ってた」
「私。も」ナサは言った。「でも。帆。畳んだ。今日」
艦橋の方から、川上が降りてきた。二人の姿を見つけると、手すりの横に並んだ。
「明日の朝、本艦は一度ダーウィンへ戻る」川上は言った。
ミゼンは、川上を見た。
「湾口を離れるんですか」
「数日だけだ」川上は言った。「機関の整備をする。乗員も、陸で休ませる。湾口に張り付いてから、ずっとできなかったことだ」
川上は、沖の帆船を見た。
「帆が畳まれたからな」川上は言った。「こちらも、錨を上げていい」
ナサが、川上の方を向いた。
「あさひ。帰る。また。来る」ナサは言った。
「来る」川上は言った。「帆を畳んだ海を、見張る者は要るからな」
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夕刻 湾口 捕虜収容区画
若い水夫は、天幕の柱の前に座っていた。
刻み目は、柱の半ばまで並んでいた。
天幕の中は、静かだった。昼間の騒ぎの後で、男たちは疲れて横になっていた。それでも、眠っている者は少なかった。誰もが、自分に書き入れられた日付を頭の中で繰り返していた。
水夫は、小刀を取り出した。今日の分を一つ刻む。それから、指で刻み目の先の空白を測った。一つ、二つ。三十まで数えて、そこに少し深い印を入れた。
終わりの印だった。
隅には、ベルクが刻んだ小さな印が、一つだけ離れて残っていた。水夫は、その印にしばらく指を当てていた。
午後、書記の机の前で聞いた名を、水夫は思い出していた。ヨアン。港の鍛冶屋の息子。その名は、いま名簿の最後の頁にある。この小さな印にも、名がついた。
それから、小刀をしまった。




