刻み月
翌朝 湾口 護衛艦「あさひ」
夜明けの湾口は、薄い靄に包まれていた。
あさひ型護衛艦「あさひ」は、湾口の内側に錨を下ろしていた。灰色の船体が、朝の光を鈍く跳ね返している。艦橋の窓には、夜通し見張りに立った当直員の影が並んでいた。
その沖に、帆船が一隻、錨を上げようとしていた。
使節団の船「ハルネ」だった。三本の帆柱を持つ、本国の外洋船である。舷側には、長い航海でついた塩の跡が白く残っていた。
甲板で、水夫たちが声を合わせていた。巻き上げ機が回り、錨鎖がガラガラと鳴る。海底から引き上げられた錨が、舳先の下で滴を垂らした。
使節団の船が、湾口を出ていった。
帆が上がる。風を掴んだ帆布が、バサリと鳴った。船体が傾き、舳先が白い波を割っていく。
少し離れた海面では、亡命艦隊の旗艦「エイカ」が、帆柱に信号旗を掲げていた。航海の無事を祈る旗だと、ミゼンは知っていた。アルセナが、艦橋からあの船を見送っているのだろう。
ミゼンは、甲板からそれを見送った。
「あさひ」の後部甲板は、ミゼンとナサにとって見慣れた場所になっていた。灰色の鉄の床。手すりの冷たさ。遠くで唸り続ける機関の低い音。帆船の甲板とは、何もかもが違う。それでも、海の上であることだけは同じだった。
「上がったな」ミゼンは言った。
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同刻 亡命艦隊旗艦「エイカ」
アルセナは、艦尾の甲板に立っていた。
潮風が、外套の裾をはためかせていた。帆柱の上では、信号旗がパタパタと音を立てている。遠ざかる「ハルネ」の帆を、アルセナはじっと目で追っていた。
レナが、傍らに控えていた。
「無事に着くでしょうか」レナが言った。
「着く」アルセナは言った。「この季節の南風は素直だ。問題は、着いた後だ」
アルセナは、評議会の顔ぶれを思い浮かべた。オルグ。ゲラード。ファリス。そして、議場の隅でロウデンが筆を走らせている姿。あの机の上に、帆を畳むという一語が置かれる。
「前例のない言葉を、あの評議会が呑むだろうか」レナが聞いた。
「呑ませるのは、言葉ではない」アルセナは言った。「言葉の後ろにいる人間の数だ。三百二十人の名が、あの船に積まれている」
アルセナは、信号旗を下ろすよう合図した。水夫が綱を引き、旗がするすると帆柱を降りてきた。
「エイカ」の舷側を、小さな波がトプン、トプンと叩いていた。
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同刻 湾口 護衛艦「あさひ」
ミゼンは、まだ甲板から海を見ていた。
「上がった」ナサが言った。「次。帰る。時。畳む。言葉。積んで」
「ハルネ」の帆が、少しずつ小さくなっていく。湾口の外に出ると、船は大きく向きを変えた。追い風を受けて、帆がいっぱいに膨らむ。やがて、水平線の靄の中へ溶けていった。
背後で、足音がした。
振り返ると、川上が立っていた。「あさひ」の艦長である。制服の襟を正し、双眼鏡を首から下げている。
「行ったか」川上が言った。
「行きました」ミゼンは言った。「往復で、二十日はかかると聞いています」
川上は、双眼鏡を上げて水平線を見た。しばらくして、それを下ろした。
「帆船の航海は、読めないな」川上は言った。「こちらの艦なら、速力と距離で着く日が分かる。あちらは、風次第だ」
「風。機嫌。ある」ナサが言った。「良い。日。悪い。日」
川上は、少し口元を緩めた。
「交渉と同じだな」川上は言った。
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同日 豪州基地 隊長室
カーターは、中隊長たちを集めていた。
隊長室の窓からは、基地の滑走路と、その先の湾が見えた。朝の陽射しが、机の上に斜めに落ちている。部屋には、三人の中隊長が顔を揃えていた。
机の上には、収容区画の見取り図が広げられている。天幕の位置、見張り台の位置、出入口の位置。全てに印が付けられていた。
見取り図の余白には、鉛筆で数字が書き込まれていた。天幕は二十四張り。見張り台は四基。一日に配る水と食料の量。どれも、この数週間でカーターが自分の手で書き入れてきたものだった。
「捕虜に、交渉の状況を伝えたい」カーターは言った。
中隊長の一人が、眉を寄せた。
「まだ何も決まっていません」中隊長は言った。「期待させて、それが外れたらどうなります。暴れる者が出るかもしれない」
「出るかもしれない」カーターは言った。「だが、何も知らせずに待たせるのも、いつか限界が来る。刻み目をやめた者がいると聞いた」
「刻み目」
「日を数える印だ」カーターは言った。「数える意味が無くなれば、人は数えるのをやめる。その先は、暴れるか、壊れるかだ」
中隊長たちは、しばらく黙った。
年長の中隊長が、見取り図の一点を指で叩いた。広場に面した天幕の列だった。
「先週、ここで喧嘩がありました」中隊長は言った。「配給の順番を巡ってです。すぐに収まりましたが、あれは配給の話ではありません。苛立ちの行き場が無いんです」
「だから、行き場を作る」カーターは言った。「待つ理由を渡す」
「待つ理由が外れたら」
「その時は、外れたと伝える」カーターは言った。「それも、知らせずにおくよりはましだ」
三人目の中隊長が、腕を組んだまま口を開いた。
「伝えるとして、全員を一度に集めるのは危険です」中隊長は言った。「天幕ごとに分けて伝える方が安全でしょう」
カーターは、しばらく考えた。
「いや、全員だ」カーターは言った。「一部だけに伝えれば、噂になる。噂は、伝えた言葉より早く、しかも歪んで広がる。同じ言葉を、同じ時に、全員の耳に入れる」
「誰が伝えるんです」別の中隊長が聞いた。
「ナサだ」カーターは言った。「あの男たちの言葉で、あの男たちの国の人間が伝える。我々が伝えるより、ずっと届く」
年長の中隊長が、顔を上げた。
「ナサは、あちらから見れば寝返った人間です」中隊長は言った。「石を投げられるかもしれない」
「かもしれない」カーターは言った。「だが、本人が行くと言った」
中隊長たちは、顔を見合わせた。やがて、年長の中隊長が頷いた。
「では、配置を決めましょう」中隊長は言った。「広場の四方に一個分隊ずつ。見張り台には機関銃を。ただし、銃口は上に向けさせます」
「それでいい」カーターは言った。「撃つのは、最後の最後だ。その判断は、私がする」
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同日昼 湾口 護衛艦「あさひ」
ナサは、士官室の隅の机に向かっていた。
机の上には、一枚の紙があった。本国の文字が、数行だけ書かれている。何度も書いては消した跡が、紙の表面を毛羽立たせていた。
ミゼンが、湯気の立つ茶を二つ持って入ってきた。
「まだ書いてるのか」ミゼンが言った。
「言う。こと。決める」ナサは言った。「間違い。だめ。一つ。でも」
ミゼンは、茶を机に置いた。紙を覗き込んだが、本国の文字は、ミゼンにはところどころしか読めなかった。
「何を書いた」
「本当。こと。だけ」ナサは言った。「決まった。こと。決まって。ない。こと。分ける」
ナサは、指で行を辿った。
「評議会。紙。作った。本当」ナサは言った。「紙。海。渡ってる。本当。帆。下ろす。畳む。揉めてる。本当。帰る。日。まだ。分からない。これも。本当」
「最後の一つは、言わない方がいいんじゃないか」ミゼンが言った。
ナサは、首を振った。
「言う」ナサは言った。「言わない。と。嘘。なる。嘘。一つ。ある。と。全部。嘘。なる」
ミゼンは、その言葉を聞いて黙った。評議会の議場で、ゲラードが似たことを言ったと聞いていた。一つでも隠せば、それまでの話は無かったものになる。
ナサは、紙の端に、小さく数字を書き足した。三百二十。
「それと」ナサは言った。「名前。持っていく」
ナサは、机の引き出しから、紐で綴じた帳面を取り出した。カーターの部隊が、投降の日から作り続けてきた名簿の写しだった。一人ずつ名を聞き取り、生まれた土地と、乗っていた艦の名を添えてある。聞き取りを手伝ったのは、ナサ自身だった。
「使節団。長。同じ。もの。持って。帰った」ナサは言った。「評議会。これ。読む」
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同日午後 湾口 捕虜収容区画
収容区画は、湾口を見下ろす丘の麓にあった。
鉄条網が二重に張り巡らされ、四隅に見張り台が立っている。その内側に、天幕が整然と並んでいた。風が吹くたびに、天幕の布がバタバタと鳴った。
天幕の前の広場に、捕虜たちが集められた。
中隊長たちが、兵を広場の周りに配した。F88を肩に掛けた兵たちが、一定の間隔で立っている。銃口は下を向いていた。
三百二十人。地面に腰を下ろした男たちの前に、ナサが立った。隣にはミゼンがいる。少し離れて、カーターと通訳の兵が控えていた。
捕虜たちの視線が、ナサに集まった。
その視線の中に、ナサは様々なものを見た。好奇心。警戒。そして、隠しようのない敵意。この男たちにとって、自分は祖国を捨てた人間だった。
見張り台の上には、MINIMIを据えた兵が二人いた。五・五六ミリ弾を帯で送り込む、分隊支援用の機関銃である。銃口は空へ向けられている。だが、その指は引き金の近くにあった。
ナサは、手の中の紙を一度見た。それから、それを畳んで懐にしまった。
ナサが、本国の言葉で話し始めた。
片言ではなかった。生まれた土地の言葉は、ナサの口から滑らかに流れ出た。ミゼンは、その声を初めて聞くような気がした。
低く、よく通る声だった。言葉と言葉の間に、迷いがなかった。日本の言葉を話す時のナサは、一語ずつ石を置くように話す。だが、今のナサは、川が流れるように話していた。
評議会が、休戦を紙にしようとしていること。その紙が、いま海を渡っていること。帆を下ろすか、畳むか。その一語で、まだ揉めていること。
そして、帰る日は、まだ分からないこと。
捕虜たちは、黙って聞いていた。
帆を下ろす、という言葉が出た時、何人かが顔を見合わせた。畳む、という言葉が出た時、広場のあちこちで小さな息が漏れた。船乗りたちには、その違いが説明なしに分かった。
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一人の男が、立ち上がった。
年嵩の男だった。肩の線に、将校の名残があった。擦り切れた上着の襟に、階級章を外した跡が残っている。
「嘘だ」男は言った。「評議会が、我々を取り戻そうとするはずがない。我々は負けた兵だ。捨てられたのだ」
広場がざわめいた。何人かが、男に同調するように腰を浮かせた。
「寝返った者の言葉など、信じられるか」男は続けた。「お前は、あちらの民に飼われて、あちらの言葉を運んでいるだけだ」
ざわめきが、大きくなった。広場の後ろの方で、誰かが立ち上がった。続いて、もう一人。拳を握っている者もいた。
その時、何かが空を切った。
拳ほどの石だった。広場の後ろから投げられたそれは、ナサの頭を狙っていた。
ミゼンが、咄嗟に前へ出た。
ゴツッ、と鈍い音がした。石は、ミゼンの額の端をかすめて地面に落ちた。ミゼンはよろめいたが、倒れなかった。額から、一筋の血が頬へ伝った。
「ミゼン」ナサが、日本の言葉で叫んだ。
見張り台の兵が、姿勢を変えた。MINIMIの銃口が、わずかに下がりかけた。広場の周りに立つ兵たちも、F88の握りに手を移した。
カーターが、片手を上げてそれを制した。
「撃つな」カーターは、低く言った。
その声は、通訳の兵にしか聞こえないほど小さかった。だが、見張り台の兵は、カーターの上げた手を見ていた。銃口が、再び空へ戻った。
ミゼンは、手の甲で額の血を拭った。
「大丈夫だ」ミゼンは言った。「かすっただけだ」
ミゼンは、本国の言葉で、広場に向かって言った。
「俺も、あんたたちと同じ海の生まれだ」ミゼンは言った。「石を投げたいなら、俺に投げろ。だが、こいつの話は最後まで聞け」
広場は、静まり返った。石を投げた男は、人の陰に隠れて見えなかった。誰も、次の石を拾おうとはしなかった。
ナサは、ミゼンの横顔を見た。それから、正面に向き直った。
ナサは、動かなかった。男をまっすぐに見た。
「捨てられた、と思うのは分かる」ナサは、本国の言葉で言った。「私も、そう思った。あの朝の後、何も知らされずに待った。誰も迎えに来ないと思った」
男は、黙った。
「私は、飼われてはいない」ナサは続けた。「自分で選んで、ここにいる。あなたが私を信じないのは、構わない。だが、これから言うことは、私の言葉ではない。紙に書かれた事実だ」
ナサは、懐から帳面を取り出した。
紐を解き、頁をめくる。その手つきは、ゆっくりとしていた。
「ベルク」ナサは言った。「北の港町、サロンの生まれ。戦列艦『グラーヴェ』の砲術長」
年嵩の男の顔から、血の気が引いた。
広場が、しんと静まった。
「あなたの名は、この帳面にある」ナサは言った。「三百二十人。一人残らず名が書いてある。生まれた土地も、乗っていた艦もだ。同じものを、使節団の長が写して持ち帰った。評議会は、あなたたちの名を知っている」
ナサは、帳面を閉じた。
「捨てた者の名を、わざわざ数える者はいない」ナサは言った。
広場の空気が、少しずつ落ち着いていった。腰を浮かせた男たちが、一人、また一人と座り直した。
拳を握っていた若い男が、その拳をほどいた。後ろの方で立っていた者たちも、周りに促されるように腰を下ろした。
年嵩の男は、しばらく立ったままだった。
その目は、ナサの手の中の帳面に注がれていた。やがて、男はゆっくりと腰を下ろした。
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同日夕刻 捕虜収容区画 詰所
広場から人が引いた後、カーターは詰所の前でミゼンと並んで立っていた。
ミゼンの額には、衛生兵が貼った白い当て布があった。
「肝が冷えた」カーターは言った。「石が飛んだ時は、特にな」
「俺もだ」ミゼンは言った。「あの時、誰か一人でも飛びかかっていたら」
「石を投げた者は、探すか」カーターが聞いた。
ミゼンは、首を振った。
「探さないでくれ」ミゼンは言った。「探せば、あの広場で起きたことが、全部台無しになる。石一つで済んだなら、安いもんだ」
「撃たせていた」カーターは言った。「撃たなければ、次は兵が殴られる。そういう場面だった」
カーターは、見張り台を見上げた。MINIMIの兵が、ちょうど交代するところだった。
「一発も撃たずに済んだのは、ナサのおかげだ」カーターは言った。「名前を読み上げるなんて、どこで思いついた」
「名簿を作るのを手伝ったのは、ナサ自身だ」ミゼンは言った。「一人ずつ、あいつが名を聞いた。あの砲術長の名も、あいつが自分で書き取ったんだ」
カーターは、しばらく黙った。
「覚えていたのか」
「全員は無理だろう」ミゼンは言った。「でも、あの男の名を書き取った時、あいつの手が止まったらしい。サロンは、ナサの母親の生まれた町だそうだ」
カーターは、広場の方を振り返った。ナサは、まだ広場の端にいた。捕虜の何人かが、遠巻きにナサを見ていた。もう、敵意の目ではなかった。
同じ頃、「あさひ」の艦橋では、川上が陸からの報告を受けていた。
「収容区画、説明終了。発砲なし。負傷者なし」通信員が読み上げた。
「そうか」川上は言った。
川上は、湾の奥の丘を見た。夕日に照らされて、天幕の列が橙色に染まっている。
「記録しておけ」川上は言った。「一発も撃たずに済んだ、と」
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夕刻 湾口 捕虜収容区画
若い水夫は、天幕の柱の前に座っていた。
柱には、途中で止まった刻み目が並んでいる。
天幕の中は、いつもより騒がしかった。男たちが寝台に腰かけて、昼間の話を繰り返している。帆を畳む、という言葉が、何度も天幕の中を行き来した。
「畳むなら、帰れる」一人が言った。
「下ろすなら、また戦に出されるかもしれん」別の男が言った。「帰っても、次の船に乗せられるだけだ」
「俺は、それでも帰りたい」三人目が言った。「女房の顔を見られるなら、次の船でも構わん」
誰かが笑った。久しぶりに聞く笑い声だった。笑った男自身が、驚いたように口を押さえた。
天幕の隅では、年配の水夫が、仲間に帆の畳み方を説明していた。綱の解き方。帆布の巻き方。帆桁への縛り方。港に入った日の、最後の仕事の手順だった。聞いている若い者たちは、誰もが知っていることだった。それでも、黙って最後まで聞いていた。
水夫は、腰の小刀を抜いた。
食事の皿から取り分けた木の匙を、何日もかけて削って作ったものだった。刃と呼べるほどのものではない。それでも、柱に印をつけるには十分だった。
一つ、刻んだ。止まっていた日の分も、指で数えて刻んだ。一つ、また一つ。
隣の寝台の男が、それを見ていた。
「また、刻むのか」
「刻む」水夫は言った。「どこまで刻めばいいのか、まだ分からない。でも、海の向こうで誰かが数えてる。なら、こっちも数える」
天幕の入り口に、影が差した。
年嵩の男、ベルクだった。昼間の広場で立ち上がった男である。天幕の中の話し声が、ぴたりと止んだ。
ベルクは、水夫の前まで歩いてきた。柱の刻み目を、しばらく黙って見ていた。
「それは、何の数だ」ベルクが聞いた。
「投降した日からの数です」水夫は言った。「途中で、やめていました」
ベルクは、柱に指を伸ばした。刻み目を一つずつ、数えるように辿った。
「私の艦にも、お前くらいの年の砲手がいた」ベルクは言った。「あの湾口で、帆柱ごと海に落ちた」
水夫は、何も言えなかった。
「帳面に」ベルクは言った。「あの男の名は、無かったのだろうな」
ベルクは、しばらく柱の前に立っていた。それから、水夫の手から小刀を取った。
柱の隅に、ベルクは小さな印を一つ刻んだ。刻み目の列とは離れた場所だった。
「数えるなら、あの男の分も数えておけ」ベルクは言った。
小刀を水夫に返すと、ベルクは天幕を出ていった。
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夜 護衛艦「あさひ」 艦橋
川上は、艦長席で当直日誌をめくっていた。
副長が、燃料の残量表を持って入ってきた。
「今月の消費です」副長が言った。「錨泊中心に切り替えてから、だいぶ抑えられています。ですが」
「補給の当ては無い」川上は言った。
「はい」副長は言った。「ダーウィンの備蓄を豪州側と分け合っている状態です。このまま湾口に張り付くなら、いずれ本土へ戻る分を割り込みます」
川上は、残量表の数字をしばらく見つめた。
弾だけではない。燃料もまた、有限だった。あの朝以来、この艦に油を積みに来る船は一隻も無い。
「今日、陸の連中は一発も撃たなかった」川上は言った。「こちらも、同じ戦い方をするしかない。走らずに、ここにいる。それだけで、湾口の抑えになる」
「帆を畳むという言葉が決まれば」副長が言った。「この錨泊も、少しは緩められますか」
「緩められる」川上は言った。「そうなれば、本艦は一度ダーウィンに戻って、機関の整備ができる。乗員を陸で休ませることもできる」
副長は、窓の外を見た。沖の暗がりの中に、「エイカ」の灯りが揺れている。
「向こうの一語で、こちらの燃料の使い方が決まるわけですね」副長が言った。
「東京でも、同じことを言っている奴がいるだろうな」川上は言った。
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夜 湾口 護衛艦「あさひ」 後部甲板
ミゼンとナサは、後部甲板にいた。
湾口の夜は、風が止んでいた。水面は黒く、鏡のように凪いでいる。沖には「エイカ」の灯りが揺れていた。その向こうの暗い水平線を、「ハルネ」は今も南へ走っているはずだった。
「あんたの本国の言葉」ミゼンが言った。「初めてちゃんと聞いた気がする」
ナサは、少し笑った。
「私。本当の。声」ナサは言った。「あっち。言葉。私。長い。でも。こっち。言葉。私。短い。どっちも。私」
ミゼンは頷いた。
「怖くなかったか」ミゼンが聞いた。「あの男が立ち上がった時」
「怖い」ナサは言った。「とても。でも。帳面。あった。名前。あった。だから。立てた」
ナサは、手すりに両手を置いた。
「ベルク。サロン。人」ナサは言った。「母。町。同じ。私。子ども。頃。あの。港。行った。一度。だけ」
「だから、あの男の名を覚えていたのか」
「覚えて。いた」ナサは言った。「でも。言わない。あの。人。に。私。町。同じ。言う。と。嘘。みたい。聞こえる。から」
ミゼンは、ナサの横顔を見た。
甲板の反対側から、機関の低い唸りが響いていた。「あさひ」は錨を下ろしたまま、一晩中この湾口で見張りを続ける。その灯りの下で、二人はしばらく黙って海を見ていた。
二つの言葉を持つ男が、二つの言葉で同じことを伝えた。数えていい、と。
湾の奥で、収容区画の灯りが揺れていた。




