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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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紙の上の約束

三日後 都 評議会場


朝の議場には、まだ冷えた空気が残っていた。


高い窓から差し込む光が、石の床に長い帯を落としている。評議員たちは、いつもより早く席に着いていた。誰もが、今日読み上げられるものを知っていた。


オルグは、自分の席から議場を見渡した。


一つだけ、空いた席があった。磨かれた木の椅子に、誰も座っていない。数日前まで、そこには強硬派の中心がいた。机の上には、使い込まれた筆記具が置かれたままになっている。誰も片付けようとしなかった。


議長が、一枚の書面を読み上げた。


「カルスト評議員の職を解く。身柄は評議会預かりとし、処罰は追って定める」


議場は静かだった。誰も異を唱えなかった。カルストの席は、既に空いていた。


ざわめきすら起きなかった。この結末を、皆が数日前から知っていたからだ。あの朝、カルストが自ら扉を開けて議場に入ってきた時に、全ては決まっていた。


「フェルトについて」議長は続けた。「脅迫の実行は重い。だが、自ら全てを語った事実は記録に残る。処分はその点を量った上で決める」


議長は、書面を机に置いた。


オルグは、フェルトの顔を思い出していた。委員会の前に立った若い士官は、最後まで声を震わせなかった。震えていたのは、握り締めた両手だけだった。


ゲラードが手を挙げた。


議場の視線が、一斉にそちらへ向いた。この数か月、ゲラードが手を挙げるたびに、議場は荒れてきた。今日も同じだろうと、何人かの評議員が身構えた。


「一つ、申し上げたい」ゲラードは言った。「この先も、隠していたことを語り出す者は出るでしょう。語った者と、語らずに暴かれた者。その扱いを同じにしてはなりません」


オルグが、わずかに眉を上げた。この男の口から、その言葉が出るとは思っていなかった。


ゲラードは、原則の男だった。規則は規則であり、罪は罪である。その言葉を、オルグは何度も議場で聞いてきた。その男が、罪の重さを語った事実で量れと言っている。


「全てを語れば、軽くなる」オルグは言った。「そういう決まりを作れ、ということですか」


「全てを語れば、です」ゲラードは言った。「半分では足りない。一つでも隠せば、それまでの話は無かったものとする。そうでなければ、嘘の混じった証言が増えるだけです」


議場の奥で、誰かが小さく息を呑んだ。


「厳しすぎはしませんか」別の評議員が言った。「人は、全てを覚えているわけではない。忘れたことまで罪にされては、誰も口を開かなくなる」


「忘れたことは、罪ではありません」ゲラードは言った。「隠したことが罪です。その区別は、調べれば分かる。この数か月、私はそれを何度も見てきました」


バルドー将軍。セドリック。ドレク艦長。カルスト。そしてフェルト。一つの証言が次の証言を呼び、糸は最後の結び目まで辿り着いた。その糸を、誰よりも根気よく手繰ったのがゲラードだった。


議長は、しばらく考えた。


「記録しておく」議長は言った。「次の審議で、正式に諮る」


────


ファリスが、静かに立ち上がった。


中立の評議員として知られる男だった。どちらの派にも与せず、問いだけを投げてきた。その問いが、何度も議場の流れを変えてきた。


「隠蔽の件は、これで区切りがつきました」ファリスは言った。「ならば、もう一つの宿題に戻るべきです」


「宿題とは」議長が聞いた。


「湾口の休戦です」ファリスは言った。「あれは、殿下とドラフォ将軍が交わした言葉にすぎません。評議会が追認したとはいえ、紙には何も書かれていない。言葉だけの約束は、言葉一つで破れます」


議場の空気が変わった。


隠蔽の調査が続いている間、誰もが湾口のことを後回しにしてきた。休戦は続いている。砲は黙っている。だから急ぐ必要はない。そう思い込んでいたことに、何人かが気づいた顔をした。


「以前、私は尋ねました」ファリスは続けた。「この休戦は破棄できるものか、と。答えは、できる、でした。だから、今度はできないものにしたい」


「破棄できない約束など」ある評議員が言った。「この世にあるのですか」


「ありません」ファリスは言った。「ですが、破るのに手間のかかる約束はあります。紙に書き、印を押し、双方が写しを持つ。破る者は、その紙を破る姿を皆に見せなければならない。それだけで、軽々しくは破れなくなる」


オルグが頷いた。


「協定の文案を作りましょう」オルグは言った。「使節団に持たせて、あちらの机に載せる」


ゲラードは、腕を組んだまま黙っていた。やがて、短く言った。


「文言は、私にも見せていただく」


それが反対ではないことを、議場の全員が理解した。


────


同日夕刻 評議会場 文書室


文書室は、議場の地下にあった。


壁一面に棚が並び、古い記録の束が積まれている。紙と墨の匂いが、低い天井の下にこもっていた。ランプの火が、机の上を小さく照らしている。


ロウデンは、その机で筆を走らせていた。


長く評議会の文書を扱ってきた男だった。評議員たちが議場で交わした言葉を、正式な文に整える。それが、ロウデンの仕事だった。


オルグとゲラードが、並んで階段を降りてきた。


「進んでいるか」オルグが聞いた。


「骨組みは」ロウデンは言った。「古い協定の書式に倣っています。沿岸の諸侯同士が争いを止めた時の文です」


ゲラードが、紙を覗き込んだ。


「この言葉は」ゲラードが、一語を指で押さえた。「帆を下ろす、か」


「はい」ロウデンは言った。「古い協定では、いつもこの言葉を使ってきました。争いを止める時の、決まった言い回しです」


オルグは、その一語をしばらく見つめた。


「帆を畳む、ではないのか」


「畳むは、航海の終わりに使う言葉です」ロウデンは言った。「協定の文に使った例は、記録にありません。前例のない言葉を入れれば、評議会で揉めます」


オルグは、ゲラードを見た。ゲラードは、何も言わなかった。ただ、その一語から目を離さなかった。


「前例どおりでいい」ゲラードは、やがて言った。「まずは紙にすることが先だ」


階段を上りながら、オルグは隣を歩く男の横顔を見た。


「一つ、聞いてもいいですか」オルグは言った。「今朝の提案。語った者を軽くするという話です。あなたらしくない、と思いました」


ゲラードは、足を止めなかった。


「私は、規則が好きなのではない」ゲラードは言った。「嘘が嫌いなだけだ。嘘を減らすための規則なら、いくらでも作る」


それだけ言って、ゲラードは先に階段を上っていった。


────


六日後 外洋 使節団の船


船は、南へ向けて走っていた。


帆は全て張られていた。風を孕んだ帆布が、バサリと大きく鳴る。帆柱が軋み、索具がギリギリと唸った。舳先が波を割るたびに、ザブン、と重い音が甲板まで響いてくる。


使節団の長は、船室の小さな机に向かっていた。


机の上には、評議会から託された文案があった。油を染ませた布で包み、蝋で封をしてある。航海の間に何度も包みを解き、何度も読み返してきた。


一語一語は、全て覚えていた。古い協定の書式どおりの、端正な文だった。ロウデンという文書係の筆は、癖がなく読みやすい。


それでも、長は落ち着かなかった。


あちらの民は、この文をどう読むのか。あの海の民の通訳は、若い女だと聞いていた。こちらの言葉を、一年足らずで覚えたという。その耳が、この紙のどこに引っかかるのか。長には見当がつかなかった。


甲板から、水夫長の声が聞こえた。


「帆を下ろせ。風が変わる」


水夫たちが走る足音がした。綱が緩められ、帆布がザアッと滑り落ちる音が続いた。船足が、目に見えて落ちていく。


長は、窓の外を見た。


下ろされた帆は、帆桁の下で緩く揺れていた。綱は水夫たちの手の中にある。風が戻れば、すぐにまた上がるだろう。


長は、机の上の文案に目を戻した。


三行目の一語が、そこにあった。


────


十日後 豪州基地 交渉の場


文案は、使節団の船で届いた。


湾口に入ってきた帆船は、長い航海で帆が日に焼けていた。舷側を波が叩き、ザザン、と白い飛沫が上がる。錨が下ろされると、太い鎖がガラガラと鳴った。


羊皮に似た厚い紙に、本国の文字がびっしりと並んでいた。赤城は、それを机の中央に置いた。向かいには、使節団の長が座っている。


白髪の混じった、痩せた男だった。長い航海の疲れが、頬に影を落としていた。それでも背筋は伸びている。紙を差し出す手つきは丁寧で、迷いがなかった。


部屋には、赤城の他に白瀬と十六夜がいた。壁際には、豪州側の連絡将校が控えている。窓の外からは、港の作業の音が遠く聞こえていた。


「十六夜」赤城は言った。「頼む」


十六夜は、紙を手元に引き寄せた。一行ずつ指で辿っていく。部屋の誰もが、その指の動きを見ていた。


本国の文字は、右から左へ、上から下へと流れていく。一年前、十六夜にとって、それはただの模様だった。音を拾い、形を写し、意味の見当をつける。その繰り返しで、模様は少しずつ言葉に変わっていった。


一行目は、前文だった。二つの民が、この海で互いに砲を向けたことを記している。二行目は、休戦がいつ、誰によって始められたかを記していた。殿下の名と、ドラフォ将軍の名が並んでいる。


三行目で、指が止まった。


「この言葉です」十六夜は言った。「休戦、と訳してきた言葉。字義どおりに読むと、帆を下ろす、になります」


「帆を下ろす」赤城が繰り返した。


「船を止める、という意味です」十六夜は言った。「ただ、帆は、また上げられます」


白瀬が、手元の手帳から顔を上げた。


「今まで、ずっとその言葉だったのか」白瀬が聞いた。


「はい」十六夜は言った。「湾口で殿下とドラフォ将軍が交わした時から。私は、休戦と訳しました。意味としては間違っていません。ただ、この言葉が持つ形までは、訳していませんでした」


十六夜の声は、落ち着いていた。だが、机の上に置いた指先が、わずかに白くなっていた。


赤城は、しばらく黙った。


「止めるのではなく、終える言葉はないのか」


十六夜は、使節団の長に向き直った。ゆっくりと、区切りながら尋ねた。


使節団の長は、少し考えてから答えた。十六夜が、その言葉を書き留めた。


「あります」十六夜は言った。「船を港に入れて、帆を畳む。長い航海の終わりに使う言葉だそうです」


「そちらを使えるか」


十六夜が尋ねた。使節団の長は、首を横に振った。そして、短く何かを言った。


「それは、自分には決められない、と」十六夜は訳した。「評議会が選んだ言葉だから、と」


使節団の長は、もう一言付け加えた。十六夜は、少し間を置いてから訳した。


「古い協定は、全てこの言葉で書かれてきた。前例のない言葉を持ち帰れば、評議会で必ず揉める。それでも持ち帰れと言うのか、と」


赤城は、深く息を吐いた。


遠くの机が戦争を決めた。いま、同じ机が、止め方を選んでいる。その言葉一つを変えるにも、また海を越える往復が要る。


白瀬が、小さく言った。


「揉めるのは、悪いことではないと思います」白瀬は言った。「揉めるということは、あちらの評議会がこの一語を真剣に読むということです」


赤城は、白瀬を見た。それから、使節団の長に視線を戻した。


「持ち帰ってもらおう」赤城は言った。「こちらの希望として。急がなくていい。だが、止まらずに」


十六夜が、それを訳した。使節団の長は、しばらく赤城の顔を見ていた。やがて、深く頷いた。


会議が終わった後、赤城は白瀬と並んで廊下を歩いた。


十六夜は、まだ部屋に残っていた。文案をもう一度読み直したいと言った。


「気にしているな」赤城が言った。


「はい」白瀬は言った。「自分の訳が、一年近く一語の形を落としていた。そう思っているはずです」


「落としたのではない」赤城は言った。「あの時は、帆の形まで訳す言葉が無かった。休戦と訳さなければ、湾口の約束そのものが成り立たなかった」


「本人も、それは分かっています」白瀬は言った。「分かっていても、引っかかるのが通訳という仕事なのだと思います」


赤城は、足を止めた。


窓の外に、使節団の帆船が見えた。帆は下ろされ、帆桁の下で緩く垂れている。


「あの帆も、下ろしてあるだけだな」赤城は言った。


「明日の朝には、また上がります」白瀬は言った。


「そうだな」赤城は言った。「上がって、帰っていく。今度は、畳むという言葉を積んで」


────


同日 東京 市ヶ谷


報告は、その日の夜に東京へ届いた。


桧山は、統合幕僚監部の会議室で紙を読んでいた。向かいには、遠野が座っている。卓上の湯呑みは、とうに冷めていた。


「帆を下ろすか、畳むか」遠野が言った。「一語で揉めているそうですね」


「一語で済むなら安いものだ」桧山は言った。


桧山は、別の書類を卓上に広げた。弾薬の残量表だった。五・五六ミリ弾、八一ミリ迫撃砲弾、それぞれの数字が細かく並んでいる。


「今の休戦は、口約束だ」桧山は言った。「口約束のままなら、我々は明日にも戦闘が再開される前提で弾を数えなければならない。前線から一発も下げられない」


「文書になれば、違う」遠野が言った。


「違う」桧山は言った。「帆を下ろすなら、まだ一部だ。帆を畳むなら、前線の弾を後方に戻せる。その分を、次の備えに回せる」


遠野は、残量表の数字をしばらく見つめた。


「たった一語で」遠野は言った。「こちらの弾の置き場所が変わるわけですか」


「そういうことだ」桧山は言った。「向こうの一語が、こちらの台所を決める。遠くの机というのは、どこにでもあるものだな」


遠野は、冷めた湯呑みに手を伸ばしかけて、やめた。


「こちらからも、何か言えることはありますか」遠野が聞いた。「帆を畳んでもらうために」


「言えることは、少ない」桧山は言った。「こちらは、相手の言葉の中で交渉している。相手の辞書に口を出すことはできない」


「ですが、選んでもらうことはできる」遠野は言った。


桧山は、遠野を見た。


「帆を畳めば、何が手に入るか」遠野は続けた。「捕虜の帰還。通商の拡大。それを、あちらの評議会が見える形で並べておく。畳む方が得だと、机の上で分かるように」


「経済安全保障の人間らしい言い方だ」桧山は言った。


「武器が限られている以上」遠野は言った。「こちらの武器は、それしかありませんから」


桧山は、残量表を畳んだ。その紙の端が、卓上でかすかに音を立てた。


────


その頃 湾口 護衛艦


ミゼンは、甲板の手すりにもたれていた。


夕方の風が、湾の上を渡っていた。沖には、亡命艦隊の帆船が何隻か錨を下ろしている。帆はどれも畳まれていた。波に揺られるたびに、船体がギシリ、ギシリと軋む音が水面を伝ってくる。


隣にナサがいた。カーターが、二人のところへ歩いてきた。


「文案の話、聞いたか」カーターが言った。


「聞いた」ミゼンは言った。「帆を下ろすか、畳むか、で揉めてるんだろ」


「たった一語だ」カーターは言った。「それで十日はかかる」


カーターは、手すりに肘をついた。この湾口で、どれだけの夜を見張りに費やしてきたか分からない。その夜の長さに比べれば、十日は短い。だが、その十日の間も、部下たちは銃を手放せない。


ナサが、海を見たまま口を開いた。


「一語。大事」ナサは言った。「下ろす。また。上げる。畳む。もう。上げない」


「あんたたちの国の人間なら、その違いは分かるのか」カーターが聞いた。


「分かる」ナサは言った。「子ども。でも。分かる」


ミゼンが、沖の帆船を指差した。


「俺が船に乗り始めた頃」ミゼンは言った。「最初に叩き込まれたのが、それだった。帆を下ろせと言われたら、綱は緩めたまま手元に置いておく。いつ上げろと言われるか分からないからな。畳めと言われたら、綱を解いて巻き上げる。その日はもう、帆は使わない」


「手の動きまで違うのか」カーターが言った。


「違う」ミゼンは言った。「下ろした帆は、すぐ上がる。風を掴むまで、数える間もない」


カーターは、少し笑った。


「なら、揉める価値はあるな」


────


しばらく、三人は黙って海を見ていた。


日が落ちかけていた。湾の水面が、橙から紫へと色を変えていく。


湾の奥に、捕虜を収容している区画の灯りが見えた。三百二十人。彼らもまた、この一語の行方を待っている。


鉄条網に囲まれた区画だった。夜になると、見張り台の灯りが一晩中そこを照らす。投降してきた日から、もう幾日も経っていた。


「捕虜の連中は、知ってるのか」ミゼンが聞いた。


「知らせてはいない」カーターは言った。「まだ決まっていないことを伝えるのは、酷だ」


ナサが、首を振った。


「知らせる。いい」ナサは言った。「待つ。こと。知る。それ。違う。知らない。待つ。と」


カーターは、ナサを見た。


「どう違う」


「知って。待つ。人。数える」ナサは言った。「日。数える。帰る。日まで。知らない。人。数えられない」


ナサは、手すりを握った。


「私。本国。いた。時」ナサは言った。「あの朝。後。何も。知らない。待った。長い。とても。長い。終わり。見えない。待つ。一番。苦しい」


カーターは、何も言わなかった。


ミゼンも黙っていた。ナサがこれほど長く自分のことを話すのは、珍しかった。


「数える。できる。と」ナサは続けた。「人。立てる。朝。起きる。できる」


カーターは、しばらく考えた。


収容区画の灯りを、もう一度見た。あの中にいる三百二十人は、自分の部下と同じ年頃の若者が多かった。砲を捨てて両手を上げた日の顔を、カーターは今でも覚えている。


「明日、隊長たちと話してみる」カーターは言った。


カーターが甲板を降りていくと、階段の下に軍曹が立っていた。見張りの交代を告げに来たところだった。


「隊長」軍曹が言った。「今夜も、湾口の北側に二名つけます」


「そうしてくれ」カーターは言った。


軍曹の肩には、F88が掛かっていた。休戦が始まってから、一度も撃たれていない銃だった。それでも、毎晩手入れをされ、弾倉は満たされたままになっている。


「軍曹」カーターは言った。「もし、帆を畳むという言葉で協定が結ばれたら、何が変わると思う」


軍曹は、少し考えた。


「見張りの数が、減るかもしれません」軍曹は言った。「それと、若い連中が夜に眠れるようになる」


「眠れていないのか」


「眠ってはいます」軍曹は言った。「ただ、銃を抱いたまま眠っています」


カーターは、何も言わなかった。軍曹に短く頷いて、自分の部屋へ向かった。


甲板には、ミゼンとナサが残っていた。


日はすっかり落ちていた。沖の帆船に、小さな灯りがぽつぽつと点り始めている。


「さっきの話」ミゼンが言った。「あんたが、あんなに自分のことを話すのは初めて聞いた」


ナサは、しばらく答えなかった。


「話す。こと。覚えた」ナサは、やがて言った。「言葉。覚えた。から。話せる。前。言葉。無い。話せない」


「前は、話したくても話せなかったってことか」


「そう」ナサは言った。「言葉。無い。時。待つ。しか。無い。今。言葉。ある。だから。待つ。人に。伝えたい」


ミゼンは、収容区画の灯りの方を見た。


「あの中の連中にも、いつか話してやれるといいな」ミゼンは言った。「帆は畳まれた、ってな」


ナサが、小さく頷いた。


「その日。私。行く」ナサは言った。「本国。言葉で。伝える」


────


同じ頃 湾口 捕虜収容区画


天幕の中は、薄暗かった。


簡素な寝台が並び、男たちが思い思いに横になっている。誰かが低い声で歌を口ずさんでいた。故郷の港の歌だった。


若い水夫が一人、天幕の柱の前に座っていた。


柱には、小さな刻み目が並んでいた。投降した日から、毎朝一つずつ刻んできたものだった。


だが、刻み目は途中で止まっていた。


数日前から、水夫は刻むのをやめていた。何のために数えているのか、分からなくなったからだ。帰れる日が来るのか。来るとしても、いつなのか。何も知らされないまま刻み続けるうちに、その線は、ただの傷に見えてきた。


隣の寝台の男が、声をかけた。


「もう、刻まないのか」


「刻んでも、仕方ない」水夫は言った。「どこまで刻めば終わるのか、誰も知らない」


男は、何も言わなかった。


水夫は、柱の傷を指でなぞった。それから、手を下ろした。


天幕の外で、見張り台の灯りがゆっくりと向きを変えた。


────


夜 豪州基地 交渉の場


部屋には、十六夜が一人で残っていた。


赤城も白瀬も、既に部屋を出ていた。使節団の長は、港に停泊した船へ戻っている。明日の朝には、また湾口を出ていく。帆を下ろすか、畳むか。その問いを積んで。


机の上には、本国の文案が広げられたままだった。


十六夜は、最初の一行から、もう一度読み直した。


一年前、この文字の一つ一つが謎だった。音と形を結びつけるために、何冊もの帳面を埋めた。語彙を集め、助詞を探した。問いの形を見つけ、過去と未来を区別できるようになった。敬意の言葉と、そうでない言葉の違いも覚えた。


それでも、帆を下ろすという言葉の形を、自分は訳していなかった。


意味は合っていた。休戦。戦いを休む。だが、休むという字の中にも、また始まるという影がある。あちらの言葉は、それを帆の形で言っていた。自分は、その形を見落としていた。


言葉を訳すというのは、意味を運ぶことだと思っていた。だが、運びきれなかったものがある。その取りこぼしの中に、また上がる帆が一枚、隠れていた。


その余白に、十六夜は二つの言葉を並べて書いた。


帆を下ろす。


帆を畳む。


どちらも、本国の文字で。どちらも、まだ誰の署名もない。


十六夜は、二つの言葉を長い間見比べた。文字の形は、ほんの少ししか違わなかった。筆の払いが一つ多いか、少ないか。その違いの上に、三百二十人の帰る日が乗っている。前線の弾の数も、湾口の夜の長さも乗っている。


十六夜は、ペンを置いた。


窓の外で、湾の灯りが揺れていた。

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