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星が重なる日(改訂版)  作者: 橘花


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不穏な影

数日後 夜 湾口 監視哨


夜警の兵が双眼鏡を構えていた。


休戦協定が結ばれてから、湾口は静かな日々が続いていた。だが、その静けさに油断は許されなかった。亡命艦隊も、本国からの使節団を守る護衛艦も、警戒を緩めてはいなかった。


夜の哨戒は、二人一組で行われていた。交代の時間が近づき、夜警の兵は欠伸を噛み殺しながら、双眼鏡をいつもの海域に向けていた。この数日、何も起きなかった。今夜も、そうであってほしいと、誰もが願っていた。


「異常なし」夜警の兵が、定時の報告を無線に乗せた。


その直後だった。


────


「待て」夜警の兵が双眼鏡を握り直した。「あれは——」


暗い海面に、小さな灯りが一つ動いていた。哨戒ルートにはない場所だった。


隣にいた、もう一人の見張りも、その方向に目を凝らした。


「船か」もう一人が言った。


「船だ」夜警の兵は言った。「動いている。こっちに、向かってきている」


「灯火、確認」夜警の兵が緊急の合図を上げた。「未確認の小型船、接近中」


艦橋に、警報が鳴り響いた。


────


アルセナが、艦橋に駆け上がった。


寝間着の上に、外套を羽織っただけの姿だった。だが、その表情には既に完全な覚醒があった。


「状況は」アルセナが言った。


「小型船一隻」レナが言った。「本国艦隊の残存兵の一部かもしれません。召還命令の後も指示に従わず、この海域に留まっていた者たちがいるという噂がありました」


「休戦協定を無視した独断行動か」アルセナは言った。


「その可能性が高いです」レナは言った。


「使節団の護衛艦には、既に、報せているか」アルセナが聞いた。


「連絡済みです」レナは言った。


アルセナは、艦橋の窓から湾口の暗い海を見渡した。半年前、この海で幾度となく繰り返してきた緊張の瞬間だった。だが、休戦協定が結ばれてからは、こうした事態は初めてだった。平和というものが、いかに脆いものかを、アルセナは改めて思い知らされていた。


「本国艦隊の、召還は」アルセナが聞いた。「完全に、終わっているはずではなかったのか」


「大部分は」レナは言った。「ですが、遠く離れた海域にいた艦や通信の届かない場所にいた艦まで、全て把握するのは困難だったのかもしれません」


「その把握漏れが」アルセナは言った。「今夜のような、事態を、招く」


────


「接近を許すな」アルセナは言った。「だが、先に攻撃はするな。まずは警告を」


亡命艦隊の一隻が、発光信号で警告を送った。


停止せよ。この海域は休戦協定下にある。


だが、小型船は速度を落とさなかった。


甲板の乗員たちは、それぞれの持ち場で緊張した面持ちでその光景を見守っていた。半年前までなら、これは、当たり前の光景だった。だが、休戦が結ばれてからの数日、こうした事態は初めてだった。


────


「応答なし」レナが言った。「距離、詰まっています」


アルセナは、双眼鏡を覗いた。小型船の甲板に複数の人影が見えた。武装している様子だった。


「使節団の護衛艦に伝えろ」アルセナは言った。「使節団の安全を最優先に確保せよ、と」


伝令が、その指示を無線で素早く伝えた。


────


護衛艦の甲板では、既に緊急態勢が敷かれていた。


ミゼンとナサは、その騒ぎに飛び起きた。


「何が起きてる」ミゼンが甲板に飛び出しながら聞いた。


「未確認の船だ」護衛の兵が言った。「使節団の代表を船室に避難させろ」


甲板の兵たちが、慌ただしく、動き回っていた。使節団の代表は、既に護衛に囲まれ、船室の奥へと案内されていくところだった。


「敵か」ミゼンが聞いた。


「まだ、分からない」護衛の兵は言った。「だが、油断はできない」


ナサは、窓の外の暗い海をじっと見つめていた。


「休戦。壊れる。かもしれない」ナサが、静かに、呟いた。


「そんなこと、言うなよ」ミゼンが言った。「まだ、何も、分かっていないんだ」


「分かってる」ナサは言った。「でも。心配。当然」


護衛の兵が、二人に船室への移動を促した。


「あなたたちも、中へ」護衛の兵は言った。「万一のことがあってはいけません」


ミゼンは、しばらく甲板の外を見た。遠くに砲声が聞こえるような気がした。だが、実際に何が起きているのかは、ここからでは分からなかった。


────


小型船が更に距離を詰めてきた。


「もう一度、警告を」アルセナが言った。


発光信号が再び放たれた。だが、応答はなかった。


「攻撃の意図があると見るべきか」レナが言った。


アルセナは、しばらく迷った。もし、これが休戦を破る意図的な挑発だとしたら。だが、もし単なる混乱した残存兵の無謀な行動に過ぎないとしたら——


その判断の遅れが、致命的な結果を招くこともあり得た。だが、早まった判断が休戦そのものを壊すことにもなりかねなかった。


────


「威嚇射撃を」アルセナは、ついに言った。「船体には当てるな。あくまで警告だ」


ドォン——。


亡命艦隊の一隻が、小型船の進路の前方に砲弾を撃ち込んだ。水柱が高く上がった。飛沫が、夜の海面に白く広がった。


小型船は、その水柱に驚いたように速度を落とした。


甲板の乗員たちの間に僅かな安堵の空気が流れた。だが、アルセナはまだ双眼鏡を下ろさなかった。


────


だが、完全には止まらなかった。


「まだ接近してきます」レナが言った。


「もう一度」アルセナは言った。「今度は、もっと近くに」


ドォン——。


二発目の威嚇射撃が、さらに小型船に近い場所に撃ち込まれた。船体を大きく揺らすほどの水しぶきが上がった。


小型船の甲板から、悲鳴のような声が微かに風に乗って聞こえてきた。


────


小型船は、ようやく動きを止めた。


「投降の合図です」レナが言った。「白い布を振っています」


アルセナは、深く息を吐いた。緊張していた肩の力が、僅かに、抜けた。


「拿捕する」アルセナは言った。「乗員を拘束し、事情を聴取する」


護衛の小舟がいくつか、小型船に向けて漕ぎ出されていった。


────


ミゼンとナサは、拘束された乗員が護衛艦に運ばれてくるのを見ていた。


痩せた疲弊した様子の男たちだった。本国艦隊の軍服を着ていた。だが、その軍服は既にぼろぼろだった。継ぎ接ぎだらけの布地。何日も、洗われていないような、汚れ。


「召還命令に従わなかった連中か」ミゼンが言った。


「多分」ナサが言った。「命令。無視。この海。残った。それとも。命令。届かなかった。多分」


一人の男が、護衛艦の甲板に崩れるように座り込んだ。飢えと疲労が、その体全体から滲み出ていた。


────


その頃 審問の場


拘束された乗員の一人が、事情を聴取されていた。


「なぜ、この海域に留まっていた」アルセナが、直接問いただした。


その男は、しばらく答えなかった。目に疲労と諦めが色濃く滲んでいた。


「召還命令が」男は、やがて言った。「私たちの艦には届きませんでした。孤立していたのです。補給も指示も絶えて」


「孤立していた、というのは」アルセナが聞いた。「どれくらいの、期間か」


「もう、数週間になります」男は言った。「本隊から、はぐれました。座礁しかけた艦を応急修理する間に、他の艦は既に召還命令に従って湾口を離れていました」


「食料は」アルセナが聞いた。「どうしていたのか」


「尽きかけていました」男は言った。「途中、無人の岩礁で僅かな水と魚を得ることができました。それだけで、なんとかしのいできました」


アルセナは、その男の痩せた頬を見つめた。数週間の漂流が、その体にはっきりと刻まれていた。


「乗員は、何名だ」アルセナが聞いた。


「十二名です」男は言った。「全員、無事です。ただ、疲れ切っています」


「治療と食事の手配を」アルセナは、傍らの部下に指示した。「審問の前に、まず彼らの体調を整えろ」


────


「なぜ、警告を無視した」アルセナは言った。「発光信号にも威嚇射撃にも応じなかった」


「気づきませんでした」男は言った。「船の通信装置が故障していました。信号を正しく読み取ることができなかったのです」


アルセナは、その説明をしばらく吟味した。


「発光信号は」アルセナは言った。「肉眼でも、見えるはずだ。通信装置とは関係ない」


男は、その指摘に目を伏せた。


「見えては、いました」男は、やがて認めた。「ですが——罠だと、思ったのです。休戦協定など、信じられませんでした。艦隊が帰った後、この海域に留まり続けた我々には、本国からの情報も断たれていました」


────


「では」アルセナは言った。「攻撃の意図はなかったということか」


「ありません」男は言った。「私たちは、ただ故郷に帰る術を探していただけです。この海域を彷徨っていました」


「なぜ、湾口をまっすぐ通過しようとしなかったのか」アルセナが聞いた。


「怖かったのです」男は言った。「亡命艦隊に見つかれば、攻撃されると思い込んでいました。だから、夜陰に紛れて、こっそりと通り抜けようとしました」


その言葉に、アルセナは、しばらく、沈黙した。


「休戦協定を、知らなかった、というわけではないのか」アルセナが聞いた。


「噂には、聞いていました」男は言った。「ですが、信じられませんでした。半年、あなたたちと、戦い続けてきたのです。急に、休戦が結ばれたと、言われても——」


「では」アルセナが言った。「もし、我々が威嚇射撃をしなかったら、あなたたちはどうするつもりだったのか」


男は、しばらく、答えなかった。


「分かりません」男は、やがて言った。「ただ、進み続けるだけだったかもしれません。この海域を、抜けられれば、それでいい。それだけしか、考えていませんでした」


「戦う、つもりは」アルセナが聞いた。


「ありませんでした」男は言った。「私たちには、もう戦う力も意志も残っていませんでした。ただ、この彷徨いから逃れたかっただけです」


アルセナは、その言葉にしばらく目を閉じた。半年間、敵として向き合ってきた相手の中に、これほどまでに疲弊し追い詰められた者たちがいたことに、改めて思いを馳せていた。


────


その頃 豪州基地 交渉の場


赤城のもとに、湾口での出来事が報告として届いていた。


「威嚇射撃だけで済んだそうだ」赤城は言った。「使節団にも被害はなかった」


十六夜が、その報告に目を通した。


「不幸中の幸いですね」十六夜が言った。「もし、これが意図的な挑発だったら」


「幸い、というより」赤城は言った。「アルセナ殿下の、慎重な判断のおかげだろう。すぐに、実弾で応戦することもできた状況だ」


────


「休戦協定は」赤城は言った。「まだ脆いものだ。今回のような孤立した艦の存在が、いつ大きな衝突の火種になるか分からない」


「召還命令が届かない部隊が」十六夜が言った。「まだ他にもいるかもしれませんね」


「その可能性は」赤城は言った。「否定できない。使節団を通じて本国に確認を求める必要がある」


十六夜は、しばらく、考え込んだ。


「今回の乗員たちは」十六夜が言った。「休戦協定の存在自体は、知っていたようですね。ただ、信じられなかった、と」


「それは」赤城は言った。「無理もないことかもしれない。半年、戦い続けてきた相手を急に信じろと言われても、簡単にはできないだろう」


────


「証言外交が」十六夜は言った。「本国の上層部を、動かしたとしても。前線に近い、末端の兵士たちにまでその実感が届くには、まだ時間がかかるということですね」


「そうだ」赤城は言った。「休戦は、書類の上では、成立している。だが、それが全ての人間の心に届くまでには、もう少し時間が必要なのだろう」


「今回の乗員たちは」十六夜は言った。「十二名だったそうですね。全員無事だったのは幸いでした」


「アルセナ殿下の慎重な対応があってこそだ」赤城は言った。「もし、最初から実弾で応戦していたら、この結果にはなっていなかっただろう」


十六夜は、しばらく資料を見つめた。


「まだ、他にも」十六夜は言った。「同じように、孤立した艦や部隊が、いるかもしれません。今回のような事態が、また、起きる可能性は」


「否定できない」赤城は言った。「使節団を通じて、本国に全艦隊の状況を正確に把握するよう要請する必要がある」


────


その頃 湾口 護衛艦


ミゼンとナサは、審問の結果を聞いていた。


「敵意は、なかった、ってことか」ミゼンが言った。


「多分」ナサが言った。「彼ら。ただ。迷子。帰る場所。分からない。それ。だけ」


「それでも」ミゼンは言った。「危なかったな。一歩間違えれば休戦が壊れていたかもしれない」


カーターが、その話に、加わった。


「休戦を、信じられなかった、というのは」カーターは言った。「分かる気がするな。半年、命を賭けて戦ってきた相手を急に信頼しろと言われても」


────


ナサは、頷いた。


「休戦。まだ。細い。糸」ナサが言った。「一つ。間違い。それ。切れる。かもしれない」


「一つ一つ」ミゼンが言った。「気を抜けないな」


「証言。届いた。評議会。届いた。でも」ナサが言った。「全部。人。まだ。届いてない。それ。今日。分かった」


ミゼンは、その言葉に深く頷いた。


「休戦を、書類の上だけじゃなく」ミゼンは言った。「実際に、戦ってきた人たちの心にまで、届けなきゃいけないんだな」


「証言も」ナサが言った。「同じ。私たち。証言。評議会。届いた。でも。全部。人。まだ。知らない。もっと。伝える。必要」


「もっと伝える、か」ミゼンが言った。「一回、証言しただけじゃ、終わらないってことか」


「終わらない」ナサが言った。「証言。一回。じゃ。足りない。何度。も。何度。も。伝える。それ。届く。まで」


カーターは、その言葉に深く頷いた。


「あの十二人にも」カーターは言った。「休戦の意味を、きちんと、伝える必要があるな。信じられるまで」


「そう」ナサが言った。「彼ら。も。証言。聞けば。分かる。かもしれない」


窓の外には、静かな夜の海が広がっていた。だが、その静けさの向こうに、まだ幾つもの見えない影が潜んでいるのかもしれなかった。


────


翌朝 湾口


夜明けとともに、湾口の海は、また、いつもの静けさを取り戻していた。


拘束された乗員たちは、正式な手続きを経て、本国への送還が決まった。彼らの故郷への帰路は、まだ始まったばかりだった。


送還の準備が進む中、アルセナは、その乗員たちの様子を遠くから見守っていた。彼らの表情には、拘束された当初の恐怖ではなく、どこか安堵の色が浮かんでいた。ようやく、この長い彷徨いに、終わりが見えたからかもしれなかった。


ミゼンとナサは、送還前の乗員たちに証言の一部を伝える機会を得ていた。休戦がどのようにして成ったのか。証言が、どれほどの重みを持って評議会を動かしたのか。


十二名の乗員たちは、最初その話を半信半疑で聞いていた。だが、話が進むにつれ、その表情に少しずつ変化が見られるようになった。


「本当に」乗員の一人が言った。「あんたたちの証言が、戦争を止めたのか」


「止めた」ナサは言った。「証言。届いた。休戦。成った。本当」


その乗員は、しばらく、考え込んでいた。それから、静かに、頭を下げた。


「信じられなかった」その乗員は言った。「だが、いまは少しだけ信じられる気がする」


証言から交渉へ。そして、いま、その交渉の周辺には、まだ多くの見えない危険が潜んでいた。


休戦は成った。だが、それは、まだ完全な平和ではなかった。一つ一つの小さな衝突の芽を摘み取りながら、この道のりは続いていく。


その先に何が待っているのか、まだ誰にも分からなかった。

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