召還命令
十日後 本国艦隊 旗艦
本国からの使者船が、湾口に姿を現した。
見張りの声が、艦全体に響いた。
「本国からの公式使者船、接近中!」
ドラフォは、甲板に駆け上がった。休戦から十日、待ち続けていた報せが、ようやく届こうとしていた。この十日間、ドラフォは毎朝、水平線を見つめ続けていた。使者船の姿を、待ち焦がれながら。
使者船が、旗艦の脇に着けられた。使者が、一枚の封書を携えて上がってきた。
「ドラフォ将軍」使者は言った。「評議会からの正式な命令書です」
ドラフォは、その封書を受け取った。手が、僅かに震えていた。この半年、幾度となく、想像してきた瞬間だった。だが、実際にその紙を手にすると、想像していた以上の重みがそこにあった。
使者は、しばらくドラフォの様子を見守っていた。
「将軍」使者は言った。「本国では、この半年のあなたの働きが高く評価されているそうです」
「評価、か」ドラフォは言った。「そう言われても実感が湧かない」
「評議会でも、あなたの休戦協定への対応が議論の的になったと聞いています」使者は言った。「賛否は、分かれたようですが」
「賛否があって、当然だろう」ドラフォは言った。「私は、命令にない行動を取ったのだから」
────
ドラフォは、封を開いた。
そこには、簡潔な文言が記されていた。
──本国艦隊は、湾口における任務を終了し、本国へ帰還すること。
召還命令だった。
ドラフォは、その一文を何度も読み返した。半年、この海に留まり続けた。その任務が、いま正式に終わる。文字は、簡潔だった。だが、その簡潔さの裏に、半年間の全てが詰まっているように感じられた。
「隊長」副官が言った。「これは」
「召還だ」ドラフォは言った。「艦隊は、本国へ帰る。正式な決定として」
副官の顔に、安堵と僅かな戸惑いが同時に浮かんだ。
「終わったんですね」副官が言った。
「終わった」ドラフォは言った。「少なくとも、この対峙は」
副官は、しばらくその言葉を噛み締めるように黙っていた。
「長い半年でした」副官は言った。
「長かった」ドラフォは言った。「だが、終わりが悪い形でなかったことに感謝している」
副官は、しばらく甲板から見える海を眺めた。
「隊長」副官は言った。「正直、あの日、隊長が艦隊全員に本国の決定を伝えると決めた時、私は驚きました。命令にない行動でしたから」
「危険な賭けだった」ドラフォは言った。「だが、あの時それをしなければ、この結果には辿り着けなかっただろう」
「後悔していませんか」副官が聞いた。
「していない」ドラフォは言った。「あれは、私が下した最も正しい判断の一つだったと思っている」
────
ドラフォは、命令書を最後まで読み進めた。
そこには、もう一つの文言が記されていた。
──今後、あの海の民との正式な接触の窓口として、現地に外交使節団を派遣する。ドラフォ将軍には、その円滑な引き継ぎに協力するよう命ずる。
「外交使節団」ドラフォは呟いた。
「本格的な交渉が始まるということですね」副官が言った。
「そのようだ」ドラフォは言った。「私の役目は、ここまでだ。だが、この対峙を対話に繋げる仕事は、これから始まる」
副官は、命令書を覗き込んだ。
「使節団の到着まで、どのくらいかかるでしょうか」副官が聞いた。
「分からない」ドラフォは言った。「だが、我々の艦隊が離れる前に、最低限の引き継ぎは済ませておかねばならない」
「引き継ぎとは、具体的には」副官が聞いた。
「湾口の地形、亡命艦隊とのこれまでの経緯、休戦協定の細部」ドラフォは言った。「使節団が無用な混乱なく交渉に入れるよう、できる限りの資料をまとめておきたい」
「かしこまりました」副官は言った。「すぐに記録の整理を始めます」
副官は、一礼して、艦の奥へと下がっていった。ドラフォは、その後ろ姿を、しばらく見送った。この半年、共に困難な時期を乗り越えてきた副官への静かな信頼が、その視線には込められていた。
────
ドラフォは、通信機に向かった。
「アルセナ殿下に繋げ」ドラフォは言った。
通信が繋がった。
「アルセナ殿下」ドラフォは言った。「召還命令が届きました。本国艦隊は、湾口を離れます」
しばらく、通信の向こうから返答がなかった。
「そうか」アルセナは、やがて言った。「長い半年だった」
「はい」ドラフォは言った。「ですが、これで終わりではないと伺っています。今後は、外交使節団が派遣されるとのことです」
「知っている」アルセナは言った。「本国と、あの海の間で、正式な交渉の場が設けられることになる」
「殿下は」ドラフォが聞いた。「その交渉に、どのように関わられるのですか」
「あの海の側の代表の一人として、参加することになるだろう」アルセナは言った。「まだ、詳細は、決まっていないが」
「亡命政権の立場は」ドラフォは聞いた。「この交渉において、複雑なものになるかもしれません」
「その通りだ」アルセナは言った。「私は、本国からすれば、反逆者だ。だが、あの海の側からは、これまでの経緯を最もよく知る者として信頼を得ている。その両方の立場を、うまく使い分けなければならない」
「難しい役目ですね」ドラフォは言った。
「難しいからこそ」アルセナは言った。「引き受ける価値がある」
────
「殿下」ドラフォは言った。「私は、明日、艦隊と共に、この海を離れます。最後に、一つ伺いたいことが」
「なんだ」
「私は」ドラフォは言った。「あなたに砲を向けた男として、この海を去ります。その事実は消えません。それでも——」
ドラフォは、言葉を切った。
「それでも、何だ」アルセナが続きを促した。
「それでも、いつか、あなたとまた話せる日が来ればと願っています」ドラフォは言った。
────
アルセナは、しばらく沈黙した。
「その日は」アルセナは、やがて言った。「来ると思う。今度は、砲ではなく言葉を交わす場で」
ドラフォは、その言葉に深く頭を下げた。通信の向こうから、それが見えるはずもなかったが、それでもそうせずにはいられなかった。
「感謝します」ドラフォは言った。
「感謝するのは」アルセナは言った。「私の方だ。お前が、この対峙をこれ以上悪化させずに終わらせてくれた」
「殿下のご決断があったからこそです」ドラフォは言った。「私一人では、何もできませんでした」
「互いに、支え合った結果だ」アルセナは言った。「一人の力では、この対峙は、終わらせられなかった」
────
「これから」ドラフォは言った。「本国に戻れば、この半年の経緯を、詳細に報告することになります。その中で、殿下のことも正しく伝えたいと思います」
「頼む」アルセナは言った。「私が、決して、無謀な行動をしていたわけではないことを」
「もちろんです」ドラフォは言った。「殿下の判断は、いつも、理にかなっていました。それは、この半年間近で見ていた私が一番よく分かっています」
通信の向こうで、アルセナが小さく笑ったような気配があった。
「そう言ってもらえると、心強い」アルセナは言った。
────
同日 都 評議会場
召還命令の発令が、評議会に報告された。
議場には、安堵の空気が広がっていた。多くの評議員たちが、この長い対峙が正式に終わることに胸を撫で下ろしていた。だが、その中で一人、ゲラードだけが険しい表情を崩さずにいた。
「これで」議長が言った。「湾口の対峙は正式に終結する」
「終結、ですか」ゲラードが言った。「私には、そうは思えません」
議場が、ざわついた。
「どういう意味だ」議長が聞いた。
「召還は、確かに決まった」ゲラードは言った。「だが、外交使節団の派遣も決まっている。つまり、これから本国は、あの海の民と正式に交渉を始めることになる。——その交渉が我々にとって有利なものになるという保証は、どこにもない」
議場の何人かが、その言葉に頷いた。安堵の中にも、先行きへの不安が、混じっていた。
ファリスが、口を開いた。
「ゲラード評議員の懸念は」ファリスは言った。「理解できる。だが、この交渉は、そもそも証言によって明らかになった事実の上に成り立っている。あの海の民が我々と同じように、恐れ、家族を思う存在だという事実だ。その前提を、忘れてはならない」
「事実は、事実として」ゲラードは言った。「認める。だが、事実を認めることと、交渉で有利な条件を勝ち取ることは別の話だ。感情に流されて、本国の利益を損なうような取り決めをしてはならない」
「損なうような取り決め、というのは」オルグが聞いた。
「例えば」ゲラードは言った。「過度な賠償、あるいは、領土的な譲歩。証言に感動するあまり、こうした譲歩を安易に認めてしまうことを私は懸念している」
議場に、その言葉を慎重に検討するような静けさが広がった。
────
オルグが、口を開いた。
「有利、不利の話ではない」オルグは言った。「これは、戦争を終わらせるための交渉だ」
「戦争を終わらせるためだからといって」ゲラードは言った。「どんな条件でも飲むべきだということには、ならない。使節団の人選には、慎重を期すべきだ」
「その点は」オルグは言った。「私も、異論はない。優れた交渉人材を選ぶべきだという点では」
ゲラードは、意外そうな表情を僅かに見せた。
「人選については」議長が言った。「まだ決定していない。ゲラード評議員の意見も聞きたい」
ゲラードは、その言葉に僅かに目を細めた。
「それでは」ゲラードは言った。「私からも、使節団に人材を推薦させていただきたい」
────
「推薦、というのは」ファリスが言った。「具体的には、どのような人材を想定していますか」
「経験豊富な、外交官を」ゲラードは言った。「情に流されず、本国の国益を冷静に見極められる人材が必要だと考えます」
「情に流されない、という言葉には」オルグが言った。「多少、含みがあるようですね」
「含みではありません」ゲラードは言った。「証言外交の、意義は、認めます。だが、交渉となれば、感情論だけでは済まされない。冷徹な損得勘定も必要になる」
議長は、しばらく両者のやり取りを見守っていた。
「ゲラード評議員の推薦も、検討します」議長は言った。「使節団の構成は、複数の視点を含むべきでしょう」
「一つ、提案があります」オルグが言った。「使節団には、ナサとミゼンも、加えるべきだと考えます。二人は既に、あの海の言葉を理解し、双方の事情に通じています。交渉の実務において、大きな助けになるはずです」
「その提案には」ゲラードが言った。「賛成しかねる。二人は既に、あの海の民に肩入れしていると見受けられる。交渉の場に、中立性を欠く者を、加えるべきではない」
「中立性というなら」オルグは言った。「二人以上に、両方の事情に通じた者は、いない。むしろ、その視点こそが交渉を成功させる鍵になる」
議長は、しばらく考え込んだ。
「その点についても、検討します」議長は言った。「本日の議論は以上とします」
────
評議会場を出た後 オルグの控室
オルグは、ファリスと共に、その日の議論を振り返っていた。
「ゲラードが」ファリスは言った。「使節団に人を送り込もうとしている」
「予想の範囲内だ」オルグは言った。「あの男は決して諦めない。今度は、交渉の場そのものに影響力を及ぼそうとしている」
「厄介だな」ファリスは言った。
「厄介だ」オルグは言った。「だが、悪いことばかりではない。強硬な視点も交渉には必要かもしれない。全てが慎重派だけでは足元を見られることもある」
ファリスは、しばらくその言葉を考えていた。
「お前が、そう言うとは」ファリスは言った。「意外だった」
「意外か」オルグは言った。
「以前のお前なら」ファリスは言った。「ゲラードの提案には、真っ向から反対していたはずだ」
「そうかもしれない」オルグは言った。「だが、この半年多くのことを学んだ。強硬な意見にも、時には、一理ある。それを頭ごなしに否定するのではなく、うまく活かす方法を考えるべきだと」
「ナサとミゼンの使節団への参加は」ファリスが聞いた。「本当に、通ると思うか」
「分からない」オルグは言った。「ゲラードは、簡単には、認めないだろう。だが、あの二人がいなければ交渉そのものが成り立たない。それは、いずれ誰の目にも明らかになるはずだ」
────
「お前は」ファリスは言った。「変わったな。以前なら、ゲラードの介入を全力で阻止しようとしたはずだ」
「そうかもしれない」オルグは言った。「だが、この半年で学んだことがある。異なる意見を完全に排除するのではなく、うまく取り込む方が、より強い決定に繋がることもある」
「証言外交も」ファリスは言った。「そうやって少しずつ、多くの人の理解を得てきたのかもしれないな」
「そうだ」オルグは言った。「一人の力だけでは、ここまで来られなかった」
ファリスは、その言葉に静かに頷いた。
「証言外交は」ファリスは言った。「まだ続く」
「まだ続く」オルグは言った。「今度は交渉の段階だ。ナサとミゼンにも、まだ役目があるはずだ」
────
その頃 豪州基地
ナサとミゼンは、召還命令の報せを受け取っていた。
「本国艦隊が」ミゼンが言った。「帰るのか」
「帰る」ナサが言った。「代わり。外交。使節団。来る」
「次は」ミゼンは言った。「交渉の場か」
「そう」ナサは言った。「証言。終わり。じゃない。次。始まり」
カーターが、二人の傍らに来た。
「使節団の人選が決まり次第、詳細が届くはずだ」カーターは言った。「お前たちには、また力を貸してもらうことになると思う」
「もちろん」ミゼンは言った。「まだ、途中だ」
ナサは、報せの文面をじっと見つめていた。
「使節団。どんな。人。来るか」ナサが言った。「それ。大事」
「そうだな」カーターは言った。「オルグ殿からも、警戒すべき評議員がいるという、報せが届いている。ゲラードという男が、使節団に影響力を及ぼそうとしているらしい」
「ゲラード」ミゼンが、その名を繰り返した。「あの、しぶとい奴か」
「そうだ」カーターは言った。「オルグ殿は、お前たち二人を使節団に加えるよう提案してくれているそうだ。だが、ゲラードはそれに反対している」
「反対、か」ミゼンが言った。「まあ、予想通りだな」
「俺たちが、加われば」ナサが言った。「交渉。分かる。人。増える。それ。大事」
「その通りだ」カーターは言った。「だが、評議会の判断次第では、お前たちの参加が認められないかもしれない。その場合の代替案も考えておく必要がある」
ミゼンは、しばらく考え込んだ。
「代替案、といっても」ミゼンは言った。「俺たちの他に両方を知っている人間なんて、いないだろう」
「そこが難しいところだ」カーターは言った。「だからこそ、オルグ殿は粘り強く交渉を続けているはずだ」
────
湾口では、翌朝、本国艦隊が静かに帆を上げた。
半年、この海に留まり続けた艦隊が、故郷へ向けて船首を向けた。
亡命艦隊の甲板から、アルセナが、その光景を見送っていた。
「行くのか」アルセナは、静かに呟いた。
答える者はいなかった。ただ、遠ざかっていく本国艦隊の帆を、アルセナはいつまでも見つめ続けていた。
レナが、その傍らに立った。
「殿下」レナは言った。「これで、一つの区切りですね」
「区切りだ」アルセナは言った。「だが、まだ、始まったばかりだ。これから、あの海と本国の間で、初めての正式な交渉が始まる」
「うまくいくでしょうか」レナが聞いた。
「分からない」アルセナは言った。「だが、少なくとも、砲を向け合う関係からは確かに抜け出した。それだけでも大きな一歩だ」
レナは、遠ざかっていく本国艦隊の帆を、アルセナと共に見つめ続けた。
「ドラフォ将軍は」レナが言った。「本国に戻れば、どのような扱いを受けるのでしょうか」
「分からない」アルセナは言った。「独断で休戦を結んだことを、咎める者もいるだろう。だが、少なくとも、彼の判断がこの結果を生んだことは誰にも否定できない事実だ」
「殿下は」レナが聞いた。「ドラフォ将軍のことを、どう思っていらっしゃいますか」
アルセナは、しばらく水平線を見つめた。
「複雑な思いがある」アルセナは言った。「かつての部下であり、この半年は敵として砲を向け合った相手でもある。それでも、最後には共に、この対峙を終わらせることができた。それだけで、十分だと思っている」
────
一つの対峙が終わった。だが、それは終わりではなく、次の始まりだった。
証言から交渉へ。この道のりは、まだ続いていく。




