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未来は没落令嬢となる予定でしたが、結末を知っているので、原因の継父を始末することにしました。  作者: 逆立ちハムスター


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5

 ヴァレリウス大公が「鏡の間」から姿を消した翌朝、王都は未曾有の混乱に陥った。

 王国最強の権力者の失踪。それは、巨大な重石が取り除かれたのと同時に、抑え込まれていた野心家たちが一斉に牙を剥く「狂乱の時代」の幕開けを意味していた。


 私は、その中心に立っていた。

 継父カシアンを告発し、大公の屋敷に招かれた後に無傷で帰還した唯一の生存者。

 社交界は私を「悲劇を乗り越えた清廉な乙女」と称える声と、「大公を呪い殺した稀代の魔女」と忌み嫌う声の真っ二つに割れていた。


 ――けれど、そのどちらも間違っている。

 私はただ、死にたくないだけ。私の愛したオルディスを蹂躙しようとする全ての障害を、排除しているだけだ。


「……エルゼリカ様」

「ええ、分かっているわ。イグナート」


 思考の海に沈んでいた私を引き戻したのは、冷たい革の手袋越しに触れた、イグナートの手だった。

 彼は私の執務室の窓際に立ち、外の様子を伺っている。屋敷の周囲には、私を監視するためか、あるいは守護するためか、王宮騎士団と野次馬たちがひしめき合っていた。


「体調はどうだい? 顔色が、昨日よりもさらに『白く』なっている。綺麗だけどね」

「……少し、疲れが溜まっているだけよ」


 私は嘘を吐いた。

 本当は、自分の感覚が少しずつ「死んで」いくのを感じていた。

 窓の外に咲き誇る薔薇の鮮やかさ。焼きたてのスコーンの甘い香り。それらが、まるで色褪せた古い絵画のように、遠く、他人事のように感じられる。

 代わりに、私の意識を支配しているのは、日記から流れてくる「冷たい思考」だけだった。


 私は膝の上に置いた白い日記を開く。

 ページを捲る指に、もはや温もりはない。


『三月二十五日。オルディス公爵家の資産凍結を狙い、王室財務官が訪問する。彼はヴァレリウス大公の隠れ信奉者であり、エルゼリカに「国家反逆の共謀」の疑いをかけるつもりだ』


「……また、敵が来るわね」


 私は吐き捨てるように言った。

 日記を読み、未来を予測し、先手を打つ。その繰り返しだ。

 私の人生は、もはや「生きる」ことではなく、「修正」することに成り果てていた。


「イグナート。その財務官を、門前払いにする準備をして。彼が他国から受け取っている裏金の帳簿を、昨日貴方に調べさせた場所に隠してあるはずよ」

「了解した。……だが、その日記に頼りすぎるなと言ったはずだ。君を失いたくない」


 イグナートが私に歩み寄り、机に両手をついて私を覗き込んだ。

 琥珀色の瞳に、苛立ちと……隠しきれない執着の色が混じる。


「日記が未来を教えてくれているんじゃない。君が、君自身が日記に未来を『吸い取られて』いるんだ」

「……吸い取られる? 何をおかしなことを。これは私の武器よ。これがあるから、私は断頭台を避けられた」

「その代わり、君の『笑い方』が分からなくなっている。気づいているか? この数日、君は一度もまともに声を上げて笑っていない。怒りも、悲しみも、全てが操り人形のように無機質だ」


 イグナートの手が私の頬に触れる。

 その体温が、今の私には熱すぎて、思わず顔を背けそうになった。

 かつての私なら、彼の不敬な振る舞いに顔を赤らめたり、あるいは激昂したりしただろう。

 けれど、今の私の胸にあるのは静かな湖面のような平穏だけだ。

 それは死に等しい静寂のよう。


「……感情なんて、復讐には邪魔なだけだわ。イグナート、貴方も言ったでしょう? 復讐者の目は皆、似たような色になるって」

「ああ、確かに言ったさ。だが、俺が言いたかったのは……」


 彼が言葉を飲み込んだ。

 その時、執務室の扉が叩かれ、家令が慌てた様子で入ってきた。


「エルゼリカ様! 門前に、王太子殿下がお見えです!」


 王太子。

 この国の次期国王であり、かつての未来において、私に死刑判決を下した張本人。

 私の心臓が、一瞬だけ、微かに脈打った。それは恐怖ではなく、獲物を見つけた猟犬の興奮に近かった。


────


 公爵邸の庭園。

 見事に手入れされた芝生の上に、豪華な天幕が張られ、王太子レオンハルトが座っていた。

 輝くような金髪に、真っ直ぐな正義を宿した碧眼。彼は「民の太陽」と称されるほど、公明正大な王子として知られている。

 かつての私は、そんな彼に憧れ、恋をしていた。そしてその「正義」によって断罪されたのだ。


「……久しいな、エルゼリカ嬢。公爵家の騒動、心中察するに余りある」


 レオンハルトの声は優しく、慈愛に満ちていた。

 だが、私の隣に立つイグナートは、微かに鼻を鳴らした。


「殿下、お気遣い痛み入ります。ですが、このような場所まで足を運ばれるとは、何事でしょうか」

「単刀直入に言おう。ヴァレリウス大公の件だ。彼が失踪した夜、君は大公邸にいたという。……彼に、一体何があった?」


 レオンハルトの瞳が、鋭く私を射抜く。

 正義感の裏にある冷徹な追求。


「大公閣下は、私に父の遺品を譲るよう迫られました。ですが、突然……部屋の鏡が割れ、閣下は混乱の中に姿を消されたのです。私にも、何が起きたのか分かりません」


 完璧な嘘。

 日記に記された「正解」の回答。

 レオンハルトはしばらく私を見つめていたが、やがて溜息をついた。


「君が嘘を吐いているようには見えない。……だが、エルゼリカ。君の雰囲気が、以前と全く違う。まるで、中身が別人に入れ替わってしまったかのような……」


 レオンハルトが手を伸ばし、私の手を取ろうとした。

 その瞬間。

 私の懐に忍ばせていた「白い日記」が、服越しに異常な熱を発した。


 視界が、一瞬で反転する。

 

 ――見えた。

 レオンハルトが、将来、私を処刑台へ送る時の情景。でも……どうして!?

 彼が民衆の前で、「悪女エルゼリカの死を以て、王国に光を取り戻そう!」と叫ぶ姿。

 そして……その背後で、死んだはずのヴァレリウス大公が、満足げに微笑んでいる姿。


(……大公は、死んでいない?)


 驚愕が私を襲った。

 あの鏡の向こう側の世界で、大公は消滅したのではなかった。

 

 私は反射的にレオンハルトの手を振り払った。


「――触れないで!」


 冷たい拒絶。

 レオンハルトは驚いた顔で固まった。

 

「あの……失礼いたしました、殿下。……少し、目眩がしただけですわ」

「……そうか。無理をさせてしまったようだね。きょ、今日はこれで失礼する。……だが、エルゼリカ。君が何かを隠しているのだとしたら、それはいつか君自身を焼き尽くすことになる。忠告しておくよ」


 レオンハルトは、不審の念を隠しきれない様子のまま、天幕を後にした。


────


 王太子が去った後、私は膝から崩れ落ちそうになった。

 イグナートが素早く私の体を支え、周囲の奉公人たちから見えないように死角へと運んでくれた。


「……何を見たんだい?」

「……大公よ。彼は、あの鏡の向こう側に飲み込まれたんじゃない。……あの日記の世界、石碑の世界へ『移動』しただけなのよ」


 私は日記を開いた。

 すると、そこには私が書き込んだはずのない文字が、血のような色で綴られていた。


『招かれざる客が、回廊を歩いている。ヴァレリウスは「過去」へ遡り、エルゼリカの「存在」そのものを消去しようとしている』


 存在の消去。

 もし彼が過去に戻り、私が生まれる前に父や母を殺したとしたら、あるいはオルディス公爵家そのものを潰したとしたら。

 今の私は霧のように消えてしまう。


……冗談じゃないわ。そんなこと、許さない!


 私は日記の余白に、必死でペンを走らせた。

 ――大公の遡行を阻止する。大公を過去の深淵に閉じ込める。

 けれどペン先が滑らない。

 日記が私の書き込みを「拒絶」している。


『代償を。未来を書き換えるたびに失われる「心」では、もはや足りない。次に差し出すのは、貴方の「大切な記憶」か、あるいは「身近な魂」か』


 身近な魂。

 私は、自分を支えているイグナートを見上げた。

 

 彼は何も言わずに私の手元を見ていた。

 日記に浮かび上がった残酷な要求を、彼もまた読み取ったのだろう。


「……ふん。ようやく、面白くなってきたじゃないか。これは、人知を超えた者の仕業だ」


 イグナートは自嘲気味に笑った。

 そして、私の手からペンを取り上げると、自分の指を短剣で切り、その血で日記のページを汚した。


「おい聞け、姑息な悪魔め。この俺の魂で、お嬢様を守るための『燃料』は足りるか?」

「イグナート、何を……! やめて、貴方の命を捧げるなんて……!」

「勘違いするな。君に死なれたら、俺の復讐も終わっちまうんだ。……それに」


 イグナートは私の耳元に唇を寄せ、かつてないほど優しく、そして呪いのような声で囁いた。


「君の『心』が死んでいくのなら、俺の『熱』をあんたの中に刻んでやる。あんたがどんな怪物になろうと、この血の味だけは忘れさせない」


 日記がイグナートの血を吸い込み、黒紫色の光を放った。

 

 同時に、私の頭の中に、濁流のように「知らない記憶」が流れ込んでくる。

 それはイグナートの過去。

 幼い彼が、家族を虐殺され、泥水を啜りながら生き延びてきた地獄の日々。

 そして……彼が、幼い頃の私を、遠くから一度だけ見かけていたという、ささやかな記憶。


(貴方は……あの日、あの場所にいたの?)


 記憶の混濁。

 私と彼の運命が、日記という媒介を通じて、取り返しのつかない形で溶け合っていく。


 その時、廊下の巨大な姿見に、ヒビが入った。

 

 鏡の破片の中から、煤まみれの軍服を纏ったヴァレリウス大公が、半身を乗り出してきた。

 彼の顔は半分が崩れ、そこから日記と同じ「文字」が体を支配しているかのように溢れ出している。


「……見つけたぞ、エルゼリカ。……お前が作った『未来』を、私が今から解体してやる」


もはや人間の声ではなかった。

 大公の手には、鏡の世界から持ち出した、歪んだ形状の剣。

 

 私は、自分の心が急速に凍りついていくのを感じながら、それでも強くイグナートの手を握った。

 

「……き、来なさい、大公。貴方の結末は、もう私が『書いて』あるわ」


 現実と過去、そして虚構が入り乱れる、最後にして最悪の戦い。

 私は人間であることを辞める覚悟で、日記のページを力一杯引き裂いた。

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