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ヴァレリウス大公が「鏡の間」から姿を消した翌朝、王都は未曾有の混乱に陥った。
王国最強の権力者の失踪。それは、巨大な重石が取り除かれたのと同時に、抑え込まれていた野心家たちが一斉に牙を剥く「狂乱の時代」の幕開けを意味していた。
私は、その中心に立っていた。
継父カシアンを告発し、大公の屋敷に招かれた後に無傷で帰還した唯一の生存者。
社交界は私を「悲劇を乗り越えた清廉な乙女」と称える声と、「大公を呪い殺した稀代の魔女」と忌み嫌う声の真っ二つに割れていた。
――けれど、そのどちらも間違っている。
私はただ、死にたくないだけ。私の愛したオルディスを蹂躙しようとする全ての障害を、排除しているだけだ。
「……エルゼリカ様」
「ええ、分かっているわ。イグナート」
思考の海に沈んでいた私を引き戻したのは、冷たい革の手袋越しに触れた、イグナートの手だった。
彼は私の執務室の窓際に立ち、外の様子を伺っている。屋敷の周囲には、私を監視するためか、あるいは守護するためか、王宮騎士団と野次馬たちがひしめき合っていた。
「体調はどうだい? 顔色が、昨日よりもさらに『白く』なっている。綺麗だけどね」
「……少し、疲れが溜まっているだけよ」
私は嘘を吐いた。
本当は、自分の感覚が少しずつ「死んで」いくのを感じていた。
窓の外に咲き誇る薔薇の鮮やかさ。焼きたてのスコーンの甘い香り。それらが、まるで色褪せた古い絵画のように、遠く、他人事のように感じられる。
代わりに、私の意識を支配しているのは、日記から流れてくる「冷たい思考」だけだった。
私は膝の上に置いた白い日記を開く。
ページを捲る指に、もはや温もりはない。
『三月二十五日。オルディス公爵家の資産凍結を狙い、王室財務官が訪問する。彼はヴァレリウス大公の隠れ信奉者であり、エルゼリカに「国家反逆の共謀」の疑いをかけるつもりだ』
「……また、敵が来るわね」
私は吐き捨てるように言った。
日記を読み、未来を予測し、先手を打つ。その繰り返しだ。
私の人生は、もはや「生きる」ことではなく、「修正」することに成り果てていた。
「イグナート。その財務官を、門前払いにする準備をして。彼が他国から受け取っている裏金の帳簿を、昨日貴方に調べさせた場所に隠してあるはずよ」
「了解した。……だが、その日記に頼りすぎるなと言ったはずだ。君を失いたくない」
イグナートが私に歩み寄り、机に両手をついて私を覗き込んだ。
琥珀色の瞳に、苛立ちと……隠しきれない執着の色が混じる。
「日記が未来を教えてくれているんじゃない。君が、君自身が日記に未来を『吸い取られて』いるんだ」
「……吸い取られる? 何をおかしなことを。これは私の武器よ。これがあるから、私は断頭台を避けられた」
「その代わり、君の『笑い方』が分からなくなっている。気づいているか? この数日、君は一度もまともに声を上げて笑っていない。怒りも、悲しみも、全てが操り人形のように無機質だ」
イグナートの手が私の頬に触れる。
その体温が、今の私には熱すぎて、思わず顔を背けそうになった。
かつての私なら、彼の不敬な振る舞いに顔を赤らめたり、あるいは激昂したりしただろう。
けれど、今の私の胸にあるのは静かな湖面のような平穏だけだ。
それは死に等しい静寂のよう。
「……感情なんて、復讐には邪魔なだけだわ。イグナート、貴方も言ったでしょう? 復讐者の目は皆、似たような色になるって」
「ああ、確かに言ったさ。だが、俺が言いたかったのは……」
彼が言葉を飲み込んだ。
その時、執務室の扉が叩かれ、家令が慌てた様子で入ってきた。
「エルゼリカ様! 門前に、王太子殿下がお見えです!」
王太子。
この国の次期国王であり、かつての未来において、私に死刑判決を下した張本人。
私の心臓が、一瞬だけ、微かに脈打った。それは恐怖ではなく、獲物を見つけた猟犬の興奮に近かった。
────
公爵邸の庭園。
見事に手入れされた芝生の上に、豪華な天幕が張られ、王太子レオンハルトが座っていた。
輝くような金髪に、真っ直ぐな正義を宿した碧眼。彼は「民の太陽」と称されるほど、公明正大な王子として知られている。
かつての私は、そんな彼に憧れ、恋をしていた。そしてその「正義」によって断罪されたのだ。
「……久しいな、エルゼリカ嬢。公爵家の騒動、心中察するに余りある」
レオンハルトの声は優しく、慈愛に満ちていた。
だが、私の隣に立つイグナートは、微かに鼻を鳴らした。
「殿下、お気遣い痛み入ります。ですが、このような場所まで足を運ばれるとは、何事でしょうか」
「単刀直入に言おう。ヴァレリウス大公の件だ。彼が失踪した夜、君は大公邸にいたという。……彼に、一体何があった?」
レオンハルトの瞳が、鋭く私を射抜く。
正義感の裏にある冷徹な追求。
「大公閣下は、私に父の遺品を譲るよう迫られました。ですが、突然……部屋の鏡が割れ、閣下は混乱の中に姿を消されたのです。私にも、何が起きたのか分かりません」
完璧な嘘。
日記に記された「正解」の回答。
レオンハルトはしばらく私を見つめていたが、やがて溜息をついた。
「君が嘘を吐いているようには見えない。……だが、エルゼリカ。君の雰囲気が、以前と全く違う。まるで、中身が別人に入れ替わってしまったかのような……」
レオンハルトが手を伸ばし、私の手を取ろうとした。
その瞬間。
私の懐に忍ばせていた「白い日記」が、服越しに異常な熱を発した。
視界が、一瞬で反転する。
――見えた。
レオンハルトが、将来、私を処刑台へ送る時の情景。でも……どうして!?
彼が民衆の前で、「悪女エルゼリカの死を以て、王国に光を取り戻そう!」と叫ぶ姿。
そして……その背後で、死んだはずのヴァレリウス大公が、満足げに微笑んでいる姿。
(……大公は、死んでいない?)
驚愕が私を襲った。
あの鏡の向こう側の世界で、大公は消滅したのではなかった。
私は反射的にレオンハルトの手を振り払った。
「――触れないで!」
冷たい拒絶。
レオンハルトは驚いた顔で固まった。
「あの……失礼いたしました、殿下。……少し、目眩がしただけですわ」
「……そうか。無理をさせてしまったようだね。きょ、今日はこれで失礼する。……だが、エルゼリカ。君が何かを隠しているのだとしたら、それはいつか君自身を焼き尽くすことになる。忠告しておくよ」
レオンハルトは、不審の念を隠しきれない様子のまま、天幕を後にした。
────
王太子が去った後、私は膝から崩れ落ちそうになった。
イグナートが素早く私の体を支え、周囲の奉公人たちから見えないように死角へと運んでくれた。
「……何を見たんだい?」
「……大公よ。彼は、あの鏡の向こう側に飲み込まれたんじゃない。……あの日記の世界、石碑の世界へ『移動』しただけなのよ」
私は日記を開いた。
すると、そこには私が書き込んだはずのない文字が、血のような色で綴られていた。
『招かれざる客が、回廊を歩いている。ヴァレリウスは「過去」へ遡り、エルゼリカの「存在」そのものを消去しようとしている』
存在の消去。
もし彼が過去に戻り、私が生まれる前に父や母を殺したとしたら、あるいはオルディス公爵家そのものを潰したとしたら。
今の私は霧のように消えてしまう。
……冗談じゃないわ。そんなこと、許さない!
私は日記の余白に、必死でペンを走らせた。
――大公の遡行を阻止する。大公を過去の深淵に閉じ込める。
けれどペン先が滑らない。
日記が私の書き込みを「拒絶」している。
『代償を。未来を書き換えるたびに失われる「心」では、もはや足りない。次に差し出すのは、貴方の「大切な記憶」か、あるいは「身近な魂」か』
身近な魂。
私は、自分を支えているイグナートを見上げた。
彼は何も言わずに私の手元を見ていた。
日記に浮かび上がった残酷な要求を、彼もまた読み取ったのだろう。
「……ふん。ようやく、面白くなってきたじゃないか。これは、人知を超えた者の仕業だ」
イグナートは自嘲気味に笑った。
そして、私の手からペンを取り上げると、自分の指を短剣で切り、その血で日記のページを汚した。
「おい聞け、姑息な悪魔め。この俺の魂で、お嬢様を守るための『燃料』は足りるか?」
「イグナート、何を……! やめて、貴方の命を捧げるなんて……!」
「勘違いするな。君に死なれたら、俺の復讐も終わっちまうんだ。……それに」
イグナートは私の耳元に唇を寄せ、かつてないほど優しく、そして呪いのような声で囁いた。
「君の『心』が死んでいくのなら、俺の『熱』をあんたの中に刻んでやる。あんたがどんな怪物になろうと、この血の味だけは忘れさせない」
日記がイグナートの血を吸い込み、黒紫色の光を放った。
同時に、私の頭の中に、濁流のように「知らない記憶」が流れ込んでくる。
それはイグナートの過去。
幼い彼が、家族を虐殺され、泥水を啜りながら生き延びてきた地獄の日々。
そして……彼が、幼い頃の私を、遠くから一度だけ見かけていたという、ささやかな記憶。
(貴方は……あの日、あの場所にいたの?)
記憶の混濁。
私と彼の運命が、日記という媒介を通じて、取り返しのつかない形で溶け合っていく。
その時、廊下の巨大な姿見に、ヒビが入った。
鏡の破片の中から、煤まみれの軍服を纏ったヴァレリウス大公が、半身を乗り出してきた。
彼の顔は半分が崩れ、そこから日記と同じ「文字」が体を支配しているかのように溢れ出している。
「……見つけたぞ、エルゼリカ。……お前が作った『未来』を、私が今から解体してやる」
もはや人間の声ではなかった。
大公の手には、鏡の世界から持ち出した、歪んだ形状の剣。
私は、自分の心が急速に凍りついていくのを感じながら、それでも強くイグナートの手を握った。
「……き、来なさい、大公。貴方の結末は、もう私が『書いて』あるわ」
現実と過去、そして虚構が入り乱れる、最後にして最悪の戦い。
私は人間であることを辞める覚悟で、日記のページを力一杯引き裂いた。




