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鏡の破片が宙に浮き、逆再生される演劇のように元の位置へ戻ろうとしては、何らかの巨大な力に拒まれて粉々に弾け飛ぶ。
歪んだ鏡の向こう側――「赤い空間」から這い出してきたヴァレリウス大公は、もはや人の形を留めていなかった。彼の軍服の隙間からは、肉体ではなく「文字」が溢れ出し、周囲の空気さえも黒いインクで汚していく。
「……見えるぞ、エルゼリカ。お前の『物語』の継ぎ目が。お前が無理やり書き換えた、この世界の綻びが……!」
大公が掲げた歪んだ剣が、現実の空間を紙のように切り裂いた。
切り裂かれた裂け目からは、私の知らない記憶――あるいは、これから起こるはずだった「別の未来」が、濁流のように溢れ出す。
「下がっていろ、エルゼリカ!」
イグナートが私の前に躍り出る。
彼の短剣が大公の剣と交差した瞬間、金属音ではなく、何かが「破裂」するような不快な亀裂音が響いた。イグナートの腕が、一瞬だけノイズのようにブレ、透けて見える。
「イグナート! その男に触れてはダメ! 存在を侵食されるわ!」
「……っ、構うな! 俺の命は、もうあの日記に半分喰われてるんだ。今更、一歩や二歩、地獄に踏み込んだところで変わりはしねえ!」
イグナートは獣のような咆哮を上げ、大公の懐へ飛び込んだ。
彼の動きは、先ほど彼から流れ込んできた記憶にある、地獄の戦場を生き抜いた暗殺者のそれだ。迷いも、恐怖もない。あるのは、私という「軸」を守り抜こうとする、狂信的なまでの執着。
私は震える手で日記を強く握りしめた。
日記のページは激しく捲れ、そこには絶望的な状況が刻々と更新されていく。
『三月二十五日。イグナート・レ・ヴァルセラム、ヴァレリウスの攻撃を受け、因果律から消滅する。エルゼリカ、唯一の守護者を失い、大公の手によって「最初の夜」へ強制回帰させられる』
「……そんなこと、させるもんですか」
私は日記のページに、ペンではなく、自分の爪を立てた。
イグナートが血を捧げたのなら、私は何を捧げるべきか。
感情? 記憶? それとも、私という存在の「一貫性」?
私は、自分の胸に深く突き刺さっている「ある確信」を、日記に叩きつけるように書き込んだ。
それは、未来を予知することではなく、この歪んだ世界そのものを否定する言葉。
『――私は、この物語の「人形」ではない。私は、私の運命を執行する「人間」だ』
その一文を刻んだ瞬間、世界が静止した。
飛び散る鏡の破片。斬りかかる大公。それを受け止めるイグナート。
全ての色彩が剥がれ落ち、世界は白と黒の、文字だけの空間へと変容する。
「……な、何をした、小娘ぇぇ!!」
大公の得体知れぬ声が、空間そのものから響く。
彼の姿は今や、無数の負の感情と、没落の運命が編み込まれた巨大な影へと膨れ上がっていた。
「貴方は、日記の力に溺れたのね。未来を弄ぶ快感に。でも、忘れたの? 日記が示しているのは『確定した未来』ではなく、『可能性の残骸』に過ぎないということを」
私は、白一色の世界を歩き出した。
一歩ごとに、私の足元から色鮮やかなインクが広がり、新しい地面を創り出していく。
私の脳内には、かつて断頭台で死んだ私の記憶が鮮明に蘇っていた。
あの時、私は何を願った?
カシアンへの復讐? それとも、やり直しのチャンス?
いいえ、違う。
私が本当に願ったのは。
「――私は、誰にも私を定義させない。王太子でも、継父でも、大公でも、そして……悪魔ですらも」
私は日記のページを豪快に破り取った。
破り取ったページが、白光を放ちながらイグナートの元へと飛んでいく。
ノイズに塗れていた彼の体が、強烈な色彩を取り戻し、実体化していく。
「エルゼリカ……? 一体……」
「イグナート、あの大公を……いえ、あの『運命のゴミ溜め』を、現実の世界へ押し戻して。後は、私が『結末』をつけるわ」
イグナートは一瞬、呆然とした顔をしたが、すぐに口角を吊り上げた。
「……可哀想な令嬢だったはずが、とんだ『支配者』様だ」
彼は二振りの短剣を構え直し、光り輝く文字の奔流を纏いながら、大公の影へと肉薄した。
彼の刃が、大公の核――「黒い日記」の欠片を捉える。
「終わりだ、運命に肥えた豚め! 貴様の席は、もうこの世界のどこにもない!」
イグナートの渾身の一撃が、大公を鏡の世界から、現実の「鏡の間」へと叩き出した。
同時に、白黒の世界が崩壊し、私たちは再び、豪奢だがボロボロになった大公邸の広間へと戻った。
そこには元の老いた姿に戻り、力なく床に這いつくばるヴァレリウス大公がいた。
彼が持っていた歪んだ剣は砕け散り、手元には真っ黒に塗り潰された日記の残骸だけが残っている。
「……ば、馬鹿な……。私が、私が積み上げてきた歴史が……一瞬で……」
「歴史ではありませんわ。貴方がしていたのは、他人の人生を切り貼りしただけの、稚拙な遊び」
私は自分の日記を手に、彼に歩み寄った。
日記の最終ページ。
そこには、今まであった不吉な予言が全て消え去り、真っ白な空間が広がっていた。
「……エルゼリカ。君は……何を……書くつもりなんだ……?」
「何も。私の明日は、私がその瞬間に決めるものだから。……もう、日記には頼らない」
しかし、勝手に文字が刻まれ始めた。私とイグナートは、固唾を飲んで書かれる文字を見る。
『書き込みが止まったか。その白紙の頁こそ、君が勝ち取った不確かな自由だ。エルゼリカ。十分楽しませてもらったよ』
さらに、スラスラと文字が刻まれていく。
『カシアン・ヴォル・ゼヴァンス、獄中で急逝。死因は普遍的な病死』
『ヴァレリウス・フォン・ラウル。その名は人々の記憶から消え、彼が犯した罪だけが、永遠に出生国の法に刻まれる。彼は、己が誰であったかも忘れ、ただ鏡を見ることだけを恐れる隠者となる』
『最後に、エルゼリカ。君は、私とは違う道を行くのだな。私にできるのは、筋書き(未来)を与えることだけだ。それを破り捨てて歩む者に、もはや掛ける言葉も執着もない。予測不能で、愚かで、あまりに眩しい。私が捨てた光を、君はまだ確かに持っている。これからも光を奪いに来る誘惑に、気を付けることだ。スロニエルグラフィエル。偽典因果統括総監(プレジデント・オブ・ヴァイス・コウザリティ)より感謝を込めて』
日記が指先から黒い砂となって零れ落ちる。
「スロニエルグラフィエル? あの有名な座天使だな」
「元座天使ね」
「――ひっ、あああ……っ!」
大公が悲鳴を上げた。
彼の瞳から、知性が、野心が、そして記憶が、日記同様、砂のように零れ落ちていく。
彼は自分の手を見つめ、自分が誰なのか、なぜここにいるのかさえ分からなくなった様子で、虚空を掻きむしりながら、広間の奥へと逃げ去っていった。
静寂が広間を支配する。
砕け散った鏡。倒れた家具。
その中で私はゆっくりと息を吐いた。
冷たかった指先にじわりと血の通う感覚が戻ってくる。
「……本当に終わったのか?」
イグナートが、ボロボロになった服のまま、私の側に寄ってきた。
彼の顔には、戦いの傷跡が無数にあるが、その瞳はかつての下層区の監獄で出会った時よりも、ずっと澄んでいた。
「ええ。ひとまずは」
「『ひとまず』か。……相変わらず、不穏だな」
「ンフフ♪」
「ハハハ」
乾いた笑いのあと、彼はふらりとよろめき、私の肩に頭を預けてきた。
その重みが今は何よりも愛おしく、誇らしかった。
「イグナート。貴方の魂は……大丈夫なの?」
「……さあな。イカれた堕天使の言葉通りなら、大丈夫なんだろう。まあ、半分くらいは日記の向こう側に置いてきた気分だが。……だが不思議と体は軽いんだ。君に名前を呼ばれるたびに、削れた場所が埋まっていくような気がしていた」
彼はそう言って、私の手を握った。
大きな、節くれ立った、温かい手。
私は足元の日記の残骸を見た。
もし私が、大公と同じように「未来を支配すること」に執着し続けていたら、私はいつか、あの大公のようにされていただろう。
私は窓際へと歩み寄る。
東の空が、白み始めていた。
夜明けの光が、王都を照らしていく。
そこには、かつての未来には存在しなかった、全く新しい「今日」が広がっているようだった。
「……ねえ、イグナート。一つ、書いていない未来があるの」
「物騒な言い方だな。それで、なんだ? まだ誰か殺したい奴でもいるのか」
「いいえ。……私たちが、この後どこへ行って、何を食べて、どんな風に笑うのか。それだけは、今まで日記には書いてこなかったわ」
かつては運命そのものだった日記は、今はただの砂の塊として、朝焼けに照らされ、そして燃えるような光の中に溶けて消えていった。
「……ンフフ、それはいいな」
イグナートが私の腰を引き寄せた。
「俺も、不確かな未来の方が好みだ。……特に、君が側にいてくれるのなら」
彼は私に、誓いのような、柔らかいキスを落とした。
没落令嬢としての運命は、もうどこにもない。
ここにいるのは、自分の足で立ち、自分の愛する者と共に、名もなき未来へと歩き出す一人の女性だ。
断頭台の残響は、もう聞こえない。
聞こえるのは、新しい一歩を踏み出す、私たちの足音だけ。
「さあ、行きましょう。……お腹が空いたわ。最高に美味しい朝食を食べにいきましょう!」
私は彼の手を強く握り返し、自由な未来へと歩き出した。




