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カシアン・ヴォル・ゼヴァンスが王宮騎士団によって連行されてから、三日が過ぎた。
オルディス公爵邸を包んでいた澱んだ空気は、一見すると晴れたかのように思える。だが実際には「継父が先代公爵を殺害し、さらに売国奴であった」という醜聞が社交界を駆け巡り、家門の信用は未曾有の危機に瀕していた。
私は今、父が座っていた重厚な執務机に身を預け、山積みにされた書類と格闘している。
母の死、継父の逮捕。十七歳の令嬢が背負うにはあまりに重い「公爵家当主代理」という肩書き。だが、私は筆を止めるわけにはいかなかった。
「……お嬢様。そろそろ休憩にされてはいかがですかな? そんなに眉間に皺を寄せていては、自慢の美貌が台無しだ」
皮肉めいた声と共に、音もなく紅茶が差し出される。
執事服を完璧に着こなしたイグナートだ。彼はこの数日で、影の暗殺者から「公爵令嬢の忠実な猟犬」への擬態をほぼ完成させていた。
「美貌なんて、没落すればただの重荷よ。……イグナート、カシアンの地下牢での様子は?」
「相変わらずですよ。自分は嵌められた、アルヴィン子爵の陰謀だ、と喚いている。だが、王宮騎士団は奴の隠し金庫から『他国との密約書』の原本を見つけ出した。もう、言い逃れは不可能だ」
原本。それは、私が日記の指示に従い、あらかじめカシアンの寝室の床下に「戻しておいた」ものだ。奴が隠した場所を日記で特定し、騎士団が踏み込む直前に、最も見つかりやすい場所へ移動させたに過ぎない。
私は紅茶を一口含み、熱い液体が喉を焼く感覚を楽しんだ。
勝利の味は思ったよりも苦い。
「……ねえ、イグナート。昨日、日記に奇妙な言葉が出たの。『真の敵は、鏡の中にいる』。貴方はこれをどう思う?」
イグナートの琥珀色の瞳が、一瞬だけ鋭くなった。
彼は私の背後に回り、鏡の中に映る私の姿を、その背後から覗き込むように見つめた。
「鏡、か。……君は自身の影が、あんたを食い殺そうとしている。あるいは、あんたがカシアンを追い詰め、その座を奪ったことで、あんた自身が『第二のカシアン』になりつつある……という警告じゃないのか?」
「私が、あの男と同じに? 笑えない冗談ね」
「冗談じゃないさ。復讐に憑かれた人間の目は、いつだって似たような色になる。それはいつも、誰でも、変わらない」
イグナートの指先が、私の首筋に触れた。
ひんやりとした感触。だがそこには確かな力がこもっている。いつでも私の喉を折れるという、共犯者ゆえの親密な脅威。
その時、執務室の扉が激しくノックされた。
「エルゼリカ様! ヴァレリウス大公閣下からの使者が参っております!」
家令の緊迫した声。
私はイグナートと視線を交わした。ついに、本当の怪物が動き出したのだ。
────
応接室で私を待っていたのは、ヴァレリウス大公の直属の騎士だった。
差し出された書状には、簡潔に「今夜、大公邸にて晩餐を共にしたし」と記されている。
断る選択肢はない。ヴァレリウス大公は、現国王の叔父にあたり、王国の軍事と経済の実権を握る「北の獅子」。カシアンのような成り上がりの貴族とは、文字通り格が違う。
「……罠かしら」
「間違いなくな。だが、あいつはカシアンのように姑息な真似はしない。もっと傲慢で、もっと抗い難い『暴力』で踏み潰してくるタイプだ」
イグナートは自室から持ち出してきた短剣を、袖の中に隠しながら言った。
私は日記を開いた。
『三月二十日。ヴァレリウス大公、エルゼリカを試す。大公邸の鏡の間において、彼は「鍵」の返還を要求するだろう。拒絶すれば、オルディス公爵家は明日、反逆罪として取り潰される。承諾すれば、エルゼリカは大公の「コレクション」の一部となる』
――コレクション。
ゾッとするような言葉だ。だが、日記はさらに続きを記していた。
『しかし、第三の道がある。鏡の裏側に隠された「真実」を提示すれば、天秤は傾く』
鏡の裏側。
私は、母から受け継いだ銀のペンダントを握りしめた。
これ自体が「鍵」なのではない。これが「何か」を開けるための、鍵に過ぎないのだとしたら。
────
ヴァレリウス大公邸は、王都の北、断崖の上にそびえ立つ古城だった。
豪華絢爛というよりは、質実剛健。立ち並ぶ彫像の瞳には、訪れる者を監視するような冷徹な光が宿っている。
大公、ヴァレリウス・フォン・ラウル。
彼は広大な「鏡の間」の奥で、一人ワインを傾けていた。
壁一面を覆う巨大な鏡に、無数の大公の姿が映り込み、あたかも千人の王に見下ろされているような錯覚に陥る。
「……よく来たな、オルディスの小娘。いや、今は『公爵代理』と呼ぶべきか」
大公の声は、低く、地鳴りのように響いた。
四十代半ば。顔には幾戦を潜り抜けてきた男特有の、凄まじい威圧感がある。
「お招きにあずかり、光栄に存じます、ヴァレリウス閣下」
「挨拶はいい。カシアンというゴミを片付けた手際、見事だった。だが、あれは私の『所有物』でもあったのだよ。勝手に壊されては、帳尻が合わん」
大公が立ち上がり、私の方へと歩み寄る。
その一歩ごとに、床が震える。
私の隣で、給仕のふりをしたイグナートが、殺気を殺して身構えるのが分かった。
「……カシアンは我が家を、そして王国を裏切りました。閣下ともあろうお方が、あのような売国奴を擁護されるとは思えませんが」
「売国? 愛国? そんなものは視点の違いに過ぎん。……エルゼリカ、私が欲しいのは、お前が持っている『鍵』だ。先代公爵が、死ぬ間際に隠蔽した『禁忌の門』の鍵を、返しなさい」
禁忌の門。
日記にはなかった単語だ。いや、日記ですら「教えられない」情報の深層に、私は触れようとしている。
「鍵のことなら、存じ上げませんわ。父からは何も」
「嘘をつくな! その首元にあるペンダント……。それは、この国の地下に眠る、建国以前の遺物――『叡智の鏡』を起動するための触媒だ。それを渡せ。そうすれば、オルディス家の存続は保証してやろう。逆らえば、賢い君なら、どうなるか分かっているだろう? ん?」
大公の手が、私の首元へ伸びる。
その瞬間、私は日記の言葉を思い出した。
『真の敵は、鏡の中にいる』
私は、大公の手をすり抜け、背後の巨大な鏡へと駆け寄った。
鏡の中には、不安げな表情をした私が映っている。
……いいえ、違う。
鏡の中の私は、笑っていた。
現実の私は絶望し、追い詰められているはずなのに、鏡の中の私だけが、慈しむように日記を抱え、勝利を確信した目をしている。
「……閣下、鏡をご覧なさい」
私の声に大公が足を止めた。
私はペンダントを引きちぎり、その銀の先端を、自分自身が映っている鏡の「目」の部分に突き立てた。
ガシャァァァァン!!
耳を裂くような音と共に、鏡が砕け散る。
だが、その破片は床に落ちることなく、虚空に浮遊し始めた。
砕けた鏡の向こう側に現れたのは、暗闇ではなかった。
そこには、もう一つの部屋――「現実の鏡の間」を反転させたような、血のように赤い空間が広がっていた。
そして、その中央に鎮座していたのは、一つの「石碑」だった。
私の持っている白い日記と、全く同じ素材でできた、巨大な石碑。
「……これが、『叡智の鏡』の本体」
大公が息を呑む。
石碑には、この国の全ての貴族の、全ての国民の「未来」が刻まれていた。
いや、「刻まれていた」のではない。
そこには、今この瞬間も書き換えられ続ける、無数の生存と死の記録が流動していたのだ。
『……三月二十日。ヴァレリウス大公、エルゼリカによって石碑の正体を暴かれ、逆上して彼女を斬殺する』
石碑に刻まれた一文を見て、大公が剣を抜いた。
「見せられたな、小娘……! この石碑の存在を知る者は、たとえ誰であっても生かしてはおけん!」
大公の剣が、私の脳天を割るべく振り下ろされる。
私は動けなかった。死の予感に、体が石のように硬直する。
だが、その刃が私の肌に触れる直前。
横から割り込んだ黒い影が、鋼の音と共に大公の剣を弾き飛ばした。
「……あんたの相手は、俺だ。肥えた豚め」
イグナート。
彼は執事の正装を脱ぎ捨て、その下に隠していた「影」の一族の戦闘服を晒していた。
彼の両手には、黒く染められた二振りの短剣。
「ヴァルセラムの生き残りか……! 忌々しい鴉め!」
「なんとでも言え。俺の主人は、あのお嬢様だ。……エルゼリカ! ぼうっとするな! その日記で、未来を書き換えろ!」
イグナートの声で、私は我に返った。
私は震える手で日記を開き、石碑に触れた。
日記と石碑が共鳴し、眩い光を放つ。
「……私は、死なない。オルディス家も、滅びない。ヴァレリウス大公、貴方はここで……!」
私は日記に書き込んだ。
――大公が振り下ろした剣が、自らの足元を砕き、反転した空間の歪みに飲み込まれる未来を。
石碑の文字が、赤から青へと変わる。
次の瞬間、大公が踏み出した床が、底なしの沼のように崩落した。
「な……何だと!? なんだこれは!? この私の存在が、否定されるというのか!?」
大公の体は、鏡の向こう側の「赤い空間」へと引きずり込まれていく。
彼は叫び、手を伸ばしたが、イグナートはその手を冷酷に蹴り飛ばした。
パリン、と。
砕け散っていた鏡の破片が、一気に元通りに修復される。
目の前にあるのは、ただの豪華な鏡の間だ。
そこには、静かに立ち尽くす私と、肩で息をするイグナートだけが残されていた。
「……や、やったのか?」
イグナートが問いかける。
私は自分の手元を見た。
日記は今や、眩いほどに白く、そして温かい。
だが、日記の最終ページ。
そこには、大公の消滅と共に、新しい文字が刻まれていた。
『敵を排除するたびに、日記はエルゼリカの「心」を喰らう。全ての敵を消し去った時、鏡の中に残っているのは、誰か?』
これはまるで……今も誰かが見ていて、書き加えてる!?
私は鏡を見た。
そこに映る私の瞳は、先ほどよりも一層、冷たく、昏い光を宿していた。
カシアン。ヴァレリウス大公。
彼らを消し去るたびに、私は彼らと同じ「支配者」の顔になっていく。
「……イグナート。私、まだ人間かしら」
イグナートは無言で私に近づき、血に汚れた私の手を、自分の上着で拭った。
「あんたが怪物になっても、俺はあんたの影だ。……それとも、怪物に喰われる最初の獲物に、俺を選んでくれるか?」
彼は残酷なほど甘く、私に微笑んだ。
継父を始末し、大公を退けた。
だが、この日記が示す「真の没落」とは、家門の滅亡ではなく、私の「人間性の喪失」を指しているのかもしれない。そして、見ているのは者は、誰なのか……。
夜の帳が下りる中、私は鏡の中の自分を見つめ続けた。
そこには勝利を収めたはずの、けれど孤独な女王の姿があった。




