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未来は没落令嬢となる予定でしたが、結末を知っているので、原因の継父を始末することにしました。  作者: 逆立ちハムスター


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3

 イグナートを「執事」として側に置いてから二日が経った。

 元暗殺一族の嫡男に燕尾服を着せ、恭しく控えさせるという光景は、側から見れば滑稽ですらあるかもしれない。だが、彼の背後に漂う濃密な死の気配は、公爵邸の熟練の奉公人たちでさえも本能的に遠ざけるほどの威圧感を放っていた。


「……様になっていないわね。背筋をもう少し伸ばして」

「これ以上伸ばせば、あんたの喉を上から見下ろすことになるが、いいのか?」

「構わないわ。私を見下ろすことができるのは、死神か、私を殺す覚悟のある者だけよ。貴方はどちら?」


 鏡越しに視線を交わすと、イグナートは皮肉げに唇を歪めた。

 彼はまだ、私を「命知らずの世間知らず」だと思っている。それでいい。狂気と計算の区別がつかない男の方が、今は使い勝手がいい。


 私はドレッサーの上に置かれた「白い日記」に触れた。

 指先を滑らせると、吸い付くような素材の表面に、新しいインクが染み出してくる。


『三月十七日。カシアン、焦燥に駆られ、アルヴィン子爵との直接対話を試みる。しかし、届いた「毒の小瓶」と「他国との密約書」を突きつけられ、交渉は決裂。逆上したカシアンは、邸内で催される晩餐会にて、エルゼリカに「真実を吐かせる香」を使い、日記の正体を暴こうとする』


「真実を吐かせる香……」


 私は小さく呟いた。

 それは、この国では禁忌とされる魔道具の一種だ。微かな煙を吸い込むだけで、意識が混濁し、問われるままに秘密を告白してしまうという。

 カシアンは、私がなぜ自分の計画を知っているのか、その「情報源」を血眼になって探している。彼にとって、未来を知る日記の存在は、何よりも手に入れたい至宝であり、同時に自分を破滅させる最大の脅威なのだ。


「イグナート。今夜の晩餐会、貴方も給仕として潜り込んでもらうわ」

「あんな脂ぎった貴族どもの巣にか? 吐き気がするな」

「毒の処理は得意でしょう? カシアンが焚くつもりの『香』を、別のものにすり替えて」

「別のもの? 何がいい。眠り薬か? それとも、そのまま命を刈り取る猛毒か。ンフフ」


 私は鏡の中の自分を見つめ、冷たく微笑んだ。

 かつての私は、この晩餐会でカシアンが用意した罠に嵌まり、王家への不敬を口走らされて没落の決定打を打たれた。あの時の絶望、あの時の屈辱。


「いいえ。ただの『発情剤』でいいわ。彼が、彼自身の愛用している秘書官に対して、公衆の面前でその本性を曝け出す程度に強力なものを」


 イグナートが、低く、愉しげに笑った。

「……あんた、本当に地獄に落ちるぞ」

「ええ。彼を道連れにしてね」


────


 晩餐会の夜。

 オルディス公爵邸の大広間は、シャンデリアの輝きと、貴族たちの虚飾に満ちた笑い声で溢れていた。

 カシアンは、まるで自分がこの館の真の主であるかのように振る舞い、賓客たちに愛想を振りまいている。だが、その瞳の奥には隠しきれない焦りが煤のように溜まっていた。


「エルゼリカ。今夜の君は、一段と美しいね。亡き母も、天国で喜んでいるだろう」


 カシアンが近づき、私の手を取って慇懃に唇を寄せた。

 その瞬間の、肌を這うような不快感。私は奥歯を噛み締め、完璧な微笑みを崩さなかった。


「お父様。母の話は、後で二人きりの時に伺いましょう。今は……大切なお客様をお待たせしては失礼ですから」


 私の背後には、執事に扮したイグナートが控えている。

 カシアンの視線が、一瞬だけイグナートに注がれた。


「……新しい執事かね? 随分と、不遜な目をした男を雇ったものだ」

「あら、腕は確かですわ。私の『安全』を守るためには、これくらい荒々しい方が頼もしいのです」


 カシアンの眉がピクリと動く。彼は何かを察したように鼻を鳴らすと、給仕に目配せをした。

 給仕が持ってきた銀のトレイの上には、琥珀色のワインが注がれたグラスが二つ。

 そして、会場の隅にある香炉からは、微かに紫色の煙が立ち上り始めていた。


 ――来たわ。


 日記の記述通りだ。

 カシアンは、ワインで私の喉を潤わせ、香で私の理性を奪うつもりだ。


「さあ、エルゼリカ。このオルディス家の繁栄を祝して、乾杯しよう」


 彼はグラスを差し出してきた。

 私はそれを受け取るふりをして、わざと指先を滑らせた。


「――あっ」


 ガシャン、と高い音を立ててグラスが砕け、ワインが私のドレスの裾を汚した。

 周囲の視線が集まる。


「申し訳ありません、お父様。私としたことが……。イグナート、すぐに着替えの準備を。お父様、少し席を外してもよろしいでしょうか?」

「……ああ、構わない。だが、すぐに戻るんだよ。メインの肉料理が運ばれる前にはね」


 カシアンの瞳に、苛立ちが混じっている。

 私は彼に背を向け、イグナートを伴って広間を出た。


 廊下の角を曲がり、人影がなくなった瞬間に、イグナートが影のように私の前に出た。


「香炉の中身は入れ替えた。奴が用意していた『真実の香』は、今頃ゴミ捨て場だ。代わりに、あんたが望んだ『特製品』を仕込んである。……もう一つ、面白いものを見つけたぞ」


 イグナートは、懐から一通の封書を取り出した。

 それは、カシアンが懐に隠し持っていた、まだ封の開いていない手紙だった。


「奴のポケットから掠め取った。紋章を見てみろ。王家のものじゃない」


 手紙の封蝋には、奇妙な紋章が刻印されていた。

 翼を広げた鴉が、心臓を食らっている意匠。

 私の記憶にはない紋章だ。けれど、日記が語っていた「真の黒幕」という言葉が、不気味に頭をよぎる。


 私は震える指で封を切り、中身を読んだ。


『カシアンへ。

 オルディス公爵家の資産整理が遅れているようだ。

 例の「鍵」が、まだ娘の手元にあるというのは本当か?

 三日後の夜、例の場所で。

 間に合わなければ、君の代わりはいくらでもいることを忘れるな。

 ――Vより』


「鍵……?」


 私は自分の首元に触れた。

 母から受け継いだ、小さな銀のペンダント。ただの古びたアクセサリーだと思っていたものが、何か重要な意味を持っているというのか。


「……お嬢様、顔色が悪いですぞ。殺されるのが怖くなったか?」

「いいえ、逆よ。興奮しているの」


 私は手紙をイグナートに返した。


「これを元の場所へ戻して。奴に気づかれないようにね。……そして、作戦を少し変更するわ。今夜、カシアンを破滅させるのは予定通り。でも、ただ醜態を晒させるだけじゃ足りない」


 私は日記を開き、空白のページに力強く書き込んだ。


『カシアン・ヴォル・ゼヴァンス。晩餐会の絶頂にて、自ら犯した罪――先代公爵、すなわち私の父の殺害に関与した事実を、その口から告白する』


 日記の文字が、赤く燃えるように輝いた。

 未来を確定させるための、強力な言霊。

 私はドレスを整え直し、鏡に向かって深く息を吐いた。


「さあ、行きましょう。地獄の幕を開ける時間よ」


────


 広間に戻ると、空気はどこか甘ったるく、熱を帯びていた。

 カシアンは、上機嫌で秘書官の肩を抱き、談笑している。だが、その瞳はどこか焦点が合っておらず、頬は異常に赤らんでいた。


「……ああ、エルゼリカ。戻ったか。さあ、皆に聞かせようじゃないか。このオルディス家の、輝かしい未来の話を……!」


 カシアンが叫ぶように言った。

 その瞬間、イグナートが仕掛けた香の効果が、最大限に発揮された。

 カシアンの自制心は、音を立てて崩壊していく。


「未来? 未来などない! あの男を……先代公爵を、毒で少しずつ、少しずつ衰弱させて殺した時の快感に比べれば、未来など何の意味もない!」


 会場が一瞬で凍りついた。

 オーケストラの演奏が止まり、貴族たちが持っていたグラスを落とす音が響く。


「お、お父様……!? 何を仰っているのですか……!?」


 私はわざとらしく、絶望に満ちた声を上げた。

 カシアンは止まらない。彼の口からは、濁流のように「真実」が溢れ出していく。


「あの男が死んだ夜、私はどれほど笑ったことか! 未亡人となった妻を抱き、この広大な領地を我が物にした。全ては私の計画通りだった。……だが、お前だ、エルゼリカ。お前が持っているあの日記……! あれさえあれば、私は王すらも凌駕する力を……」


 カシアンが私に掴みかかろうとした、その時。

 広間の扉が乱暴に開かれた。


「――そこまでだ、カシアン・ヴォル・ゼヴァンス!」


 現れたのは、アルヴィン子爵と、武装した王宮騎士団だった。

 アルヴィン子爵の手には、私がイグナートを通じて届けさせた「スパイ行為の証拠」と「他国との密約書」が握られていた。


「先代公爵殺しの自白、確かに聞いたぞ。……そして、この売国奴め。貴様が他国と通じ、王国の転覆を狙っていた証拠は既に揃っている」


「……な、何だと……!? なぜだ、なぜ……! 計画は完璧だったはずだ! き、貴様……」


 カシアンは這いつくばるようにして叫んだ。

 彼の目には、もはや理性のかけらも残っていない。

 私は彼を見下ろし、耳元で冷たく囁いた。


「さようなら、お父様。……地獄では、父と母が貴方を待っているわ」


 騎士団によって引きずられていくカシアン。

 かつての未来で、私を処刑台へ送った男の、無様な末路。


 勝利した。

 けれど、私は広間の片隅で、冷たい視線を感じていた。


 そこに立っていたのは、一人の男。

 豪華な装飾に身を包んでいるが、その顔には深い影が落ち、瞳だけが異常な知性を放っている。

 この国の政治と経済を裏から支配すると言われる、ヴァレリウス大公だった。


 大公は私を見つめ、声に出さず、ただ口角を上げた。


「……面白い」


 その唇の動きを読み取った瞬間、私の背中に凍りつくような悪寒が走った。


 カシアンは、ただの「前座」に過ぎなかった。

 私が手に入れた勝利は、より巨大な、抗い難い「破滅」への入り口に過ぎないのかもしれない。


私は手の中に隠していた白い日記を、強く、強く握りしめた。


────


化粧直しの傍ら、日記の最終ページに、今までなかった文字が浮かび上がっている。


『真の敵は、鏡の中にいる』


……鏡の、中?

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