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翌朝、食堂に漂う焼きたてのパンとアールグレイの香りは、昨夜の殺伐とした空気など微塵も感じさせないほど平和なものだった。
私は亡き母から譲り受けた深緑色のドレスを纏い、背筋を伸ばして席に着く。目の前には、白磁のような微笑を湛えたカシアンが座っていた。
「おはよう、エルゼリカ。昨夜はよく眠れたかな?」
「ええ、お父様。おかげさまで、とても静かな夜でしたわ」
私は、あくまで「何も知らない娘」を演じながら、彼の手元を観察した。
カシアンは優雅にナプキンを膝に広げているが、その指先が僅かに強張っている。視線は時折、廊下の方へと向けられていた。
おそらく彼は、今頃「騎士団がこの館に踏み込んでくるはずだ」と期待しているのだろう。彼が私の部屋に仕込んだはずの、王家秘蔵のサファイア・ブローチ。それが「発見」されるという筋書きを。
しかし、彼が自身のポケットに手を入れた瞬間、その表情が一変した。
一瞬の動揺。眼鏡の奥の瞳が鋭く細まり、頬の筋肉がピクリと跳ねる。
彼は気づいたのだ。昨夜、私がすり替えた「小瓶」に。
「お父様、どうかされましたか? 顔色が優れないようですが」
「……いや、なんでもないよ。少し、昨夜の仕事が長引いてね。エルゼリカ、君の方は……何か、部屋で変わったことはなかったかい?」
「変わったこと、ですか? そういえば、ドレッサーの引き出しに、見慣れない輝きを見つけましたわ」
私がそう告げると、カシアンの口角が吊り上がった。勝利を確信した愚か者の笑みだ。
だが私の言葉は続く。
「あまりに美しかったので、信頼できる鑑定士の方を呼びにやりましたの。公爵家の品を整理する必要があると思って」
「鑑定士……? 誰に頼んだというんだね」
「アルヴィン子爵家御用達の、フランクリン氏ですわ。彼なら、お父様の『お知り合い』とも縁が深いでしょう?」
カシアンの顔から、一気に血の気が引いた。
アルヴィン子爵。それは彼が最も恐れ、かつ次期宰相の座を争っている政敵だ。その御用達の鑑定士を呼んだということは、ブローチの件が明るみに出た際、その功績(あるいは証言)は全てアルヴィン子爵の手柄となる。
さらに言えば、今カシアンのポケットにある「毒の小瓶」には、アルヴィン子爵の隠し紋章が入っている。もし今ここで騎士団が来れば、追い詰められるのはカシアンの方だ。
「……急だな。鑑定なら、私が手配した者に任せればいいものを」
「あら、お父様はお忙しいでしょう? これは私の役目ですわ。ああ、それからお父様。今日は少し外出いたします。亡き母の供養のために、東の寺院へ」
私は日記に示された「もう一つの場所」へ向かうつもりだった。
────
王都の華やかな大通りを抜け、馬車は次第に石畳が割れ、湿ったカビの臭いが漂う下層区へと入っていく。
護衛の騎士たちは「公爵令嬢がこのような場所へ……」と困惑していたが、私は「慈悲活動の一環です」と冷たく言い放ち、即座に黙らせた。
目的地は寺院などではない。
下層区のさらに奥底。かつて、王国の汚れ仕事を一手に引き受けていた「影」の一族、ヴァルセラム家の生き残りが収容されているという、私設の監獄だ。しかし道中、大きく奇妙な黒猫が視界に入った。でも瞬きする間に消えてしまった。私は最近の出来事で、疲れているのだろうと悟った。
馬車を降り、私は一人で鉄格子の奥へと進んだ。
案内人の男は、私の身なりを見て下卑た笑いを浮かべた。
「お嬢様、あそこには人間はいませんぜ。いるのは、死に損ないの鴉だけだ」
「構いません。案内なさい」
松明の炎が揺れる地下通路を降りていくと、一番奥の房に、その男はいた。
イグナート・レ・ヴァルセラム。
かつて王家に仕えた暗殺一族の嫡男でありながら、一族の反乱の濡れ衣を着せられ、ただ一人生き残らされた「毒蛇」。
彼は壁に背を預け、地面に座り込んでいた。
無造作に伸びた黒髪の隙間から、濁った琥珀色の瞳が私を射抜く。
手足には魔力を封じる重厚な枷。衣服はボロ布同然だったが、その佇まいには、隠しきれない死の香りが漂っていた。
「……公爵家の紋章か。見世物小屋の猿を笑いに来たのか、お貴族様」
嗄れた声。だが、その響きには芯がある。
私は案内人を下がらせると、鉄格子の前に立ち、日記を取り出した。
日記の白いページには、新しい文字が浮かんでいる。
『イグナート・レ・ヴァルセラム。彼は誇りを捨てていない。彼に提供すべきは金ではなく、正当な「復讐」の機会である。断られれば、エルゼリカはここで命を落とすだろう』
命懸けの交渉。
けれど、私は少しも怖くなかった。一度死んだ身に、今更何を失うものがあるというのか。
「イグナート。貴方を買いに来たわ」
「……何だと?」
「貴方の命と、その技術。全てを私に捧げなさい。代わりに、貴方の一族を陥れた真犯人の首を、貴方の前に並べてあげる」
イグナートは鼻で笑った。
「笑わせるな。俺を陥れたのは、この国の歪みそのものだ。公爵令嬢のおままごとに付き合う暇はない」
「おままごと……ええ、そう見えるでしょうね。でも、今の私は貴方以上に、血の匂いに飢えているのよ」
私は格子の隙間から手を伸ばし、彼の顎を強引に掬い上げた。
令嬢らしからぬ乱暴な振る舞いに、彼の瞳に驚きが走る。
私は、彼の耳元で囁いた。
「昨夜、私は継父を殺す計画を立てたわ。でも、法や社会のルールで彼を裁くには、彼はあまりに『正しく』作り上げられすぎている。だから、私は闇の道を選んだ」
私は自分の指を、鋭い格子の角で切った。
ぷつり、と赤い血の玉が浮かぶ。
それを、彼の唇に塗りつけた。
「これは誓いの血よ。私を助け、私の影となりなさい。さもなければ、この場で私を殺して、貴方も果てればいいわ。どちらにせよ、私の未来に、生ぬるい平穏なんて存在しないのだから」
イグナートの瞳が、獣のように細まった。
彼は私の指についた血を、ゆっくりと、挑発的に舐めとった。
鉄錆の味が、二人の間に広がる。
「……狂っているな。その瞳、とても陽の当たる場所で生きてきた女のものじゃない」
「地獄を見てきただけよ」
彼は低い笑い声を漏らし、重い枷を鳴らして立ち上がった。
その巨躯が、私を圧するように迫る。
「いいだろう。あんたの言う『復讐』、その結末が見てみたくなった。契約だ、お嬢様。俺をここから出しな。あんたの望む相手を、一人残らず地獄へ送ってやる」
私は満足して頷き、用意していたはち切れんばかりの金貨の袋を看守に投げつけた。
────
数時間後。オルディス邸の私の私室には、着替えを済ませ、髪を整えたイグナートが控えていた。
彼は執事の仮面を被り、私の背後に音もなく立っている。
「さて、イグナート。最初のお仕事よ」
「誰の喉を裂けばいい?」
「いいえ、まだよ。まずは、あの方の『誇り』を裂くの」
私は日記を開いた。
日記の記述が、猛烈な勢いで書き換わっていく。
『カシアン・ヴォル・ゼヴァンス。アルヴィン子爵への罠が逆流したことに焦り、次なる手段として、王立銀行の公金横領をエルゼリカの責任として捏造しようと画策する。実行予定日は、三日後』
「三日後……。その前に、彼に『贈り物』を届けたいの」
私はイグナートに、一つの地図と、小さな紋章を渡した。
それは、カシアンが密かに繋がっている他国のスパイ網の連絡先。
日記が教えてくれた、彼の最大の弱点だ。
「これを、アルヴィン子爵の屋敷に『カシアンの署名入り』で届けて。それも、カシアンの愛用している香水の香りをたっぷり染み込ませてね」
イグナートはニヤリと不敵に笑った。
「……なるほど。社会的破滅を加速させつつ、逃げ道を塞ぐわけか。あんた、本当に性格が悪いな」
「最高の褒め言葉だわ」
私は日記を閉じ、窓の外を見つめた。
庭園では、カシアンが平然とした顔で花を眺めている。
彼が積み上げてきた偽りの城が、一欠片ずつ崩れていく音が、私には聞こえるようだった。
だが日記の最後には、まだ不吉な一文が残っている。
『……光が強まれば、影もまた深まる。カシアンの背後に潜む「真の黒幕」が、エルゼリカの変節に気づき始めた』
黒幕。
カシアンすらも駒に過ぎないというの?
私は冷たい興奮を感じながら、背後の影――イグナートに視線を送った。
「ねえ、イグナート。私たちの夜は、まだまだ長くなりそうよ」
彼は何も答えず、ただ深々と頭を下げた。
その姿は忠実な猟犬のようであり、同時に、いつか私を喰らい尽くす死神のようでもあった。
破滅の運命を書き換えるための、血塗られた舞踏会。
その幕は、まだ上がったばかりだ。




