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episode2-13

 

 それから、電話は何度かかかってきたが、九時半以降に電話が鳴ることはなかった。やがて一時間目終了のチャイムが鳴り、亘が職員室へ戻ってきた。


「久茂先生、大丈夫ですか」

 正直、大丈夫ではなかった。遠野理子の不気味さ、そして児童に手を上げようとした自分への恐怖で押しつぶされそうになっていた。だが、教師として授業を放棄するわけにはいかない。亘に礼を言い、教室へ向かった。


 その後、遠野が大人しかったことを除けば、おかしなことは何も起こらなかった。他の児童たちの態度もいつもと変わらない。俺が遠野に手を上げようとしたことを、遠野自身は誰にも話していないようだった。


 そうして、表面上はいつも通りの一日を終え、放課後になった。気分が晴れないまま喫煙所に向かうと、そこには誰もいなかった。ちょうどいい。誰かと言葉を交わす気分ではなかった。

 

 ゆらゆらと立ち上る煙を見ながら、俺は溜め息をついた。


 俺は一体、何をしているのだろう。モンスタペーアレントなど取るに足らない存在だ、こっちが毅然とした態度をとればいいんだ、などと以前は考えていた。それが、この様だ。心の余裕がなくなっているのがはっきりと分かる。


 あれが、キレるというやつだろうか。頭が真っ白になって、我を忘れ、そして……。


 亘がいなかったら……考えただけでも恐ろしい。もしもあれが麻倉だったら、俺は彼女を殴っていたかもしれない。もしも誰もいなかったら、俺は遠野を……。

 いつの間にか、タバコの根元まで灰になっていた。今まで吸った中で一番まずいタバコだった。灰皿にそれを押し付け、喫煙所を出ようとした、その時だった。


 携帯電話が、鳴った。


 嫌な汗が脇を伝う。いや、まさか。無言電話は止んだ。そんなはずがない。そんなはずが……。

 画面には、相手の電話番号しか表示されていない。しかしそれは、朝にかけた遠野の家の電話番号と、まったく同じものだった。

 恐る恐る、通話ボタンを押す。そして、ゆっくりと耳に当てた。


「もしもし、久茂先生ですか! 久茂先生ですよね!」

 携帯から聞こえてきたのは、案の定、遠野理子のヒステリックな声だった。

「……何のようですか」

「ねぇ、あなた、今日うちの子に何をしたの! 先生に怒られたって、凄く落ち込んでるの! どうせまた、うちの子だけ厳しく叱ったんでしょう!」

 そんなにキンキン怒鳴らないでくれ。頭が痛い。

「分かってるんです、あなたがやったんでしょう! あなたが、うちの春季を傷つけたんでしょう!」

 この女は、何を言っているんだろう。話の内容が、頭に入ってこない。


「……さっきの電話は、あなたなんでしょう」

「は?」

「とぼけないでください。無言電話ですよ。あなただったんでしょう」

「な、な、なんのことですか」

 この慌てよう。やはりコイツが犯人か。

「と、とにかく謝って下さい! 今日のこともいままでのことも、全部全部、あなたが悪いって謝りなさいよ!」


 もう嫌だ。コイツの声を聞きたくない。何を言っているのか分からない。もう、俺は、もう……。

「勘弁、してもらえませんか」

「はい?」

「あなたは何がしたいんですか。俺のことが憎いんですか。だったら教えてください。俺が、あんたに、一体何をしたんだ」

「な、なんなのよ、その態度は!」

「もううんざりだ。あんたの声なんか聞きたくない。もう、止めてくれ」

 おかしい。全部おかしい。全部、コイツのせいだ。

「ちょっと、何なのよ! 何を言ってるのよ!」

「もう、かけてくるな。学校にも来るな。お前なんか……」

「ねえ、ちょ……」


「お前なんか、もう知るか!」

 そう怒鳴って、一方的に電話を切った。



 その晩、俺は電車を降り、自宅へ向かっていた。

 疲れていた。これまで感じたことのない、疲労感だった。コンビニにでもよって、何か買っていくか。ビールは家にあるから、缶チューハイとか……。


 そう、そこの角を曲がれば、コンビニだ。そこまで行けば、明るい道に出る。あと少し、あと少し……。


 そのとき、背中に何かがぶつかった。なんだ、酔っぱらいか。こんなところで、迷惑な……。


 鋭い痛みが走ったのは、その直後だった。同時に、何か生暖かいものが、背中から溢れ出してくるのを感じた。なんだ。なにが起きた。痛い。息が出来ない。混乱する中、低い女の声が、耳に届いた。



 あんたが、悪いのよ。



 ぞっとした。何度も聞いたこの声。しかし、今までとは比べ物にならないくらい殺気立った声。

「な、なん、で……」

 声を出すと、背中に痛みが走る。足に力が入らない。たまらず、膝から崩れ落ちた。

 刺された。ようやく理解できた。遠野理子だ。遠野の母親に、刺された。血が止まらない。ぬめりを帯びた赤い血液が広がっていく。死ぬ。俺は、死ぬ。息が出来ない。まるで何かが喉の奥を塞いでいるように、空気が入っていかない。苦しい。死ぬのか。児童の親に刺されて、俺は、俺は。


 嫌だ。こんなところで死にたくない。その思いとは裏腹に、意識が薄くなっていく。靄がかかったように視界が曇り、そして……。


 遠野の母親が去っていく足音を聞きながら、俺の目の前は、真っ白になった。


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