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長い一週間だった。
病院独特の匂いにも慣れ、隣の入院患者とも言葉を交わすようになった頃、担当医から退院の知らせを受けた。それが、三日前のことだ。
遠野理子より受けた傷はかなり深かったが、内蔵などの致命的な部分は奇跡的に無事だった。普段の行いがいいからだと担当医は茶化していたが、釈然としない思いだった。
明日の朝、妻が迎えにくるのを待って、晴れて退院となる。もう痛みもなく、その他具合の悪い所もないのだが、職場復帰は年明けを待つこととなっている。事情が事情だけに、学校側でそう判断されたのだ。正直なところ、余分な休暇は苦痛以外の何者でもない。
しかし学校に戻ることが出来るだけ、マシ、というものだ。
遠野理子はその後、すぐに逮捕された。家の最寄り駅付近で蹲っていたらしい。起訴されるかどうかはまだ知らされていないが、遠野春季からの供述により、俺が彼に対して、彼女が言っていたような『理不尽な対応』をとっていなかったことは明らかになった。
遠野は父方の実家に預けられるそうだ。父親が無職なので、母親なしでは育てることが出来ないと判断したのだろう。父方の実家は北海道なので、無論、転校となる。
遠野春季とは結局、あの日以来顔を合わせることはなかった。当然だ。俺はあいつに手を上げようとした。それも愛の鞭ではなく、我を忘れた故の暴走によって。見舞いになど、訪れるわけがない。
見舞いと言えば、入院中に何人かの先生がこの病室を訪ねてきた。麻倉などは、見舞い品としてとってもかわいい鉢植えを持ってきやがったので、こってりと絞ってやった。呆れたが、正直、うれしかった。後から、その鉢植えは白井先生が彼女に持たせていたことが発覚した。あのババア。喧嘩を売っているのか。
亘も来た。果物やらなにやらいろいろ持ってきてくれたが、その中のタバコだけは、受け取らずに亘に返した。タバコはやめることにしたのだ。身勝手だと分かっているが、償いのつもりだった。
西日が沈みかけている。時刻は夕方五時を過ぎた所だ。だんだんと日が短くなっている。この調子だと、職場復帰までも案外あっという間かもしれない。
その時、病室の扉がノックされた。見舞客にしては随分と遅い。一体誰だろうか。
ガラ、という音をたて、扉が開く。そこに立っていたのは……。
「こんばんは、久茂先生」
道元だった。まんまるな顔に笑みを浮かべた道元が、俺に手を振っていた。
「道元先生」
「お見舞い、遅くなっちゃってごめんなさいねぇ。これ、つまらないものだけど」
そう言って、道元はなにやら長方形の箱を差し出した。菓子かなにかだろうか。だとしたら、甘い物好きの妻が喜ぶだろうと思ってみて見ると、なんと、中身は蟹缶の詰め合わせだった。
「えっと、これは……」
予想外の品に動揺しながら道元の顔を見ると……。
「ほら、もうすぐ暮でしょ。せっかくだから、お歳暮も兼ねようかと思って」
いや、いくらなんでも気が早いだろう。まだ十一月だ。しかしそんなことはお構いなしに、道元はコロコロと笑っている。
「それで、退院はいつなの?」
「ありがとうございます。明日です」
あら、本当にギリギリだったわね、と、道元はまたしても笑う。まったく、この学校の女性陣はおかしな奴ばかりだ。
「退院ってことは、怪我の具合はもういいのね」
「ええ、お陰さまで。学校に戻るのは、来年になってからですが」
「うんうん。この際、ゆっくり休んじゃって。奥さんのこと、労ってあげなさい。ちょっと座るわね。よっこいしょ」
勧めてもいないのに、勝手に椅子を持ち出して座りだした。腰を据えて話をするつもりなのだろうか。
「それで、何か用があってきたんですか」
面倒な話はさっさと終わらせてしまおうと、単刀直入に聞いた。
「うん、ちょっと春季君のことで」
デリケートな部分に土足で踏み込む所が、道元のいい所であり、悪い所であった。
「……遠野が、どうかしたんですか」
「ええ。今朝、北海道行きの飛行機に乗ったわ」
「そうですか……。あいつは、大丈夫そうでしたか」
それが一番の気がかりだった。ある日突然母親を失い、北海道に行くことを余儀なくされたのだ。ストレスに次ぐストレス。小学二年生の子供が、耐えられるものだろうか。
「友達と会えなくなるのは寂しいって言っていたわ。お母さんについては何も言っていなかったけど、ショックじゃないはずはないでしょうね」
当然だ。もしかしたら、俺が母親を奪ったと思っているかもしれない。いや、それでもいい。それが、ほんの少しでも、彼の気持ちの捌け口にでもなれば。
「ねぇ、久茂先生。遠野さんと春季君は、あなたのことをどう思っていたのでしょうね」
不意に、道元が尋ねてきた。俺は、自嘲的な笑みを浮かべた。
「母親のほうは、私のことが大嫌いだったんでしょうね。あれだけ理不尽なことをぶつけてきたくらいですから。まあ、我が子に対する愛情故、なのかもしれませんが。遠野春季のほうは、正直分かりません。物怖じはいない子でしたけど」
ふうん、と、道元は不満げさ溜め息をついた。
「何ですか?」
「いや、私は違うと思うから。むしろ、逆だと思うの」
違う? 逆? 何が違うのか。遠野の母親は、あることないことでっち上げて教育委員会に訴えるとまで言ったのだ。俺のことが、心底嫌いだった証拠だろう。
「どういうことですか。俺が、好かれていたとでも言うんですか。背中を刺されたというのに」
「私はね、遠野さん、あなたのことが大好きだったんじゃないか、って思うの」
……何?
「何言っているんですか。私をからかいにきたんですか」
「そんなことないわ」
「私はね、あの人に刺されているんですよ。どうして、私に好意を持っている人間が、私を殺そうとするんです」
道元は、驚いた表情をこちらに向けた。そんなことも分からないのか、とでも言いたげだ。
「それは、だって、あなたが素っ気ない態度ばかりとったからよ」
……は?
「考えてもみなさいよ。好きな人に会いにいっているのに、退屈そうな顔をされたり、怒られたりしたら、そりゃ嫌になっちゃうわよ。まったく、女心ってのがまるで分かってないのねぇ……」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!」
頭が混乱してきた。
「道元先生。遠野さんは、私に対して教師として、好感を持っていたと、いいたいんですよね?」
そうだ。そうに決まっている。そうであってくれと願ったが、道元はきょとんとした顔をした後、大きな声で笑った。
「何言ってんの、違うわよ! あはは、もう、これだから男の人は。あははは」
まさか……。
「遠野さんはね、あなたに対して、異性として、好意を抱いていたんじゃないかしら?」
……そんな馬鹿なことがあるものか。
「止めてください。いくらなんでも、そんな冗談……」
「あら、冗談じゃないわよ。あなたは、いつも遠野さんが訳の分からないことを言ってくるってぼやいていたけど、あれは実は、あなたに会いにきていただけなんじゃない?」
お、俺に、会いにきていた? まさか、そんな……。
「いろいろな要求をしていたみたいだけど、でもそれって、あなたに会うための、単なる口実だったのよ、きっと。実際、彼女は学校には頻繁に来ていたけど、一つのことに固執するすることはなかったじゃない。毎回毎回違うことを言っていたみたいだし。御子柴さんなんか、もっとしつこかったわよ。一つのことに執着するんだから」
確かに、学校にまで乗り込んでくるにしては諦めも早かったように思う。俺が毅然とした態度をとっていたからだと思っていたが、まさかそんな理由だったのか……。
「ですが、彼女には夫が……」
ああ、と道元は言った。
「その旦那さんがね、また問題のある人だったらしくて。仕事が長続きしないらしくて、あの奥さんも大分苦労してたみたいよ。だから、多分一番身近な男の人に、コロっといっちゃったのかもね」
コロッと、って……。
「いや、でも、ええ……」
「でもだからこそ、おかしくなっちゃったのよね。夫のことも、あなたのことも自分のことも子供のことも、何もかも上手くいかなくなっちゃって、完全に自分を見失っていた。少なくとも私には、そう見えたわ」
「……じゃあ、俺はどうすればよかったんですか。彼女の気持ちに気づいたとして、まさか、その気持ちに答えれば良かったなんて、そんなこと、言わないですよね?」
「当たり前よ。あなただって結婚しているわけだし。でも、もうちょっと気にかけてあげても良かったと思うの。また訳の分からないことを言ってきた、はい終わり、じゃなくて、どうしてそんなことを言うんだろうって、ほんの少しでも立ち止まったなら、あなたは刺されなかったかもしれなかった。だって、そうでしょう。話を聞いた限り、彼女の旦那さんが何か問題がありそうだ、なんてことは、容易に想像がついたはずよ。もしかしたら、彼女がおかしくなった原因が夫にあることに、気づいたかもしれないじゃない」
……確かに今にして思えば、あのおかしな言動は、俺へのSOSだったのかもしれない。働かない夫に元気すぎる子供。逃げ道がない母親が一生懸命のばした腕だったのかもしれない。
「モンスターになった理由が、遠野さんにはあった。そういうことですか」
「そうね。その兆候も見えていたのかもしれない」
そう聞くと、どうしても自分にも責任あったのかと考えてしまう。彼女をモンスターにした一因が、俺にもあった、のだろうか。
「でも、彼女はやっぱり母親だった。あなたが春季君にひどい仕打ちをしたって、半狂乱だったらしいじゃない」
「え、でもそれは……彼女の頭の中で生み出された妄想だったんじゃないんですか? それか、遠野が都合のいいように母親に言ったのか」
そう言うと、道元は何やら曖昧な笑みを浮かべた。
「……あ、そうそう春季君。彼の言っていたことの意味が分かったわよ」
「何のことで……あ、もしかして、宿題の件ですか」
言ってから、おや、と思った。遠野が教科書の問題よりもプリントのほうがいいと言ったことを、道元に話した覚えがなかった。亘にでも聞いたのだろうか。俺が亘にいろいろ愚痴をこぼすように、亘もまた、彼女に相談していたのかもしれない。
「そう、彼がプリントの宿題のほうがいいと言った理由が分かったの」
道元は得意そうな笑みを浮かべた。
「春季君、教科書の宿題が分からなかったのよ」
「分からなかった? いや、そんなはずはありません。教科書とプリントの問題は確かに違いますが、難しさはそう変わらんはずです。どっちかが解けないなんてことは絶対にないです」
「それがそうではないのよ。彼は一学期の初め、学校を早退したわね」
確かにそうだが、それが一体、なんだというのだ。まったく関係のない話のように思えるが、いや、でもそう言えば、道元の奴、以前も遠野の出欠に関して興味を持っていた。
「それだけじゃないわ。九月の初めには、風邪で欠席してるんだけど、この二つの日、実はある共通点があるの」
共通点……一体なんだろうか。
「まあ、普通に考えれば、両日とも学期の初めですね。丁度、身体測定とかで忙しい時期……」
身体測定?
その時、頭の中であらゆる事象が繋がった。ノート、カルタ、ゲーム、そして宿題。そうか、そういうことだったのか。
「そうか。両方とも、身体測定の日だったのか……」
「そういうこと。実はね、私、一学期の身体測定で子供たちの体重を量る係だったの。丁度その時、春季君の具合が悪くなっのよね。だから私、あの子があの日、学校を休んだのではなく、早退したんだってこと、覚えていたのよ」
身体測定は、例外なく毎学期の初めに行われる。その名の通り身長、体重、座高を計るのだが、実はそれだけではない。これに乗じて、ある検査が同時に行われるのだ。
「多分そのときは、本当に具合が悪くて早退したのでしょうね。でも彼はそのことで、あることに気づいてしまった」
ああ、今はっきりと思い出した。四月の頭。まだ子供たちの顔と名前が一致していなかったあのとき、俺の顔を見るなりあいつは、こう言ったのだ。
先生、目の検査はしないの、と。
「そう、春季君はあの時、視力検査をしないまま早退してしまった。それで翌日、保健室で再検査をしたのね。そのときの結果を見たけど、異常はなかったわ」
だが、それは四月時点のこと。おそらくその後に、彼の視力に、ある異常が生じた。
「確か、春季君は綾斗君とよくゲームをしていたのよね。きっと彼は、友達とゲームをしているうちに、だんだんと視力をおとしていった」
「そうか。あいつは当然ながら、自分の目が悪くなっていることに気づいていた。でもあいつは、それを他の人間に隠していた。それは……」
「多分、お兄さんが原因ね。確か春季君のお兄さん、眼鏡をかけていたはずよ」
確かにそうだ。遠野の兄はこの学校に通っていたし、分厚い眼鏡をかけていたことも覚えている。
「きっとお兄さんの目が悪くなった時のことを覚えていたのよ。親に叱られて、泣きながら眼鏡を作りにいって、ゲームの時間も短くされて……」
遠野春季は、怖かったのだ。目が悪くなったことがバレて、母親に叱られることが。だから、目が悪くなったことをひた隠しにしていた。でも……。
だんだん、二学期の視力検査が近づいてきた。ここで視力を測られてしまったら、目が悪くなっていることがバレてしまう。そこで遠野は、苦肉の策に出た。
「二学期の休みは、仮病だったというわけか」
前回は、遠野のほうから視力検査はしないのかと持ちかけられた。そのことを思い出したアイツは考えたのだ。もしも検査を休んで、その後に自分から何も言わなかったとしたら、視力検査を回避出来るのではないかと。
「春季君の思惑は一見成功した。まあ、あとで調べれば分かることだから、再検査されるのは時間の問題だったわけだけど」
「教科書の宿題が分からなかったというのは、内容のことじゃなかった。どの範囲かが分からなかったんだ。俺は、宿題の範囲を黒板に書いていた。だから……」
アイツの席は、窓側の後方だった。視力が落ちていれば、何が書いてあるのか見えなくても当然だ。
「これは彼から直接聞いた話だけど、授業が終わった後に黒板の前に来て、宿題の範囲を確認しようとしたことがあったらしいの。でもそうしたら、綾斗君や他の子供たちから、『何をしているの』と聞かれたみたい。もしも綾斗君にバレてしまったら、そのまま自分の母親に伝わってしまうと考えた。だから彼は、宿題の範囲を知ることを諦めた。どうしても、お母さんにはバレたくなかったのね」
子供とは、得てしてそういうものだ。宿題を忘れて何度も俺に叱られることより、母親に一度叱られるほうが怖かったのだろう。
「もしも宿題がプリントなら、自分がすべき範囲が簡単に分かる。それを全部やればいい話だからね。だから彼はプリントのほうがいいと言ったのかも」
いや、それだけじゃない。夏休みの宿題もそうだ。あれは、すべての宿題が書かれた用紙が全員に配られる。当然、目が悪い遠野でも範囲を知ることができる。
授業のタイトルだけが書かれたノートもそうだ。黒板に書かれた普通の文字は見えないが、少し大きめに書かれたものなら識別できたのだろう。タイトルしか書かれていなかったのは、そのためだ。
「先生が教室にいってもずっと騒いでたっていう話も、もしかしたら、先生が来たことに気づかなかっただけかもね。もちろん、話に熱中し過ぎて、っていうこともあるだろうけど」
……そうだ、カルタだ。宇喜田が言っていた。彼は、絵札が置かれた机に覆いかぶさるようにしていたと。その理由も、視力だったのだ。彼は、絵札に書かれた最初の文字がよく読めなかった。だからアイツは、机に齧りつくようにして、文字を見ようとした。
ヒントは、いたるところに散りばめられていたではないか。それなのに、俺は、アイツが不真面目だからだ、俺に対する嫌がらせだと決めつけて、何もしなかった。ただただ、叱るだけだった。気づけなかった。気づこうとしなかった。
俺は、教師失格だ。
「アイツは、俺のことが嫌いだったのかもしれない。でもそれは、俺のせいだ。目が悪くなっていたことに気づかないほど鈍感な俺を、あいつは嫌いになったんだ。俺は、俺は……」
「本当に、そんなこと思っているの?」
……え?
「彼、学校を去る寸前に私に言ったの。ごめんなさいって。今まで迷惑かけて、本当にごめんなさいって。元気になったら久茂先生に、そう伝えてほしいって」
まさか、アイツが……。遠野が……。
「あの子が、あなたのことを嫌いになる訳ないじゃない。叱られたんじゃない、叱ってくれているんだって、あの子はわかっていた。あなたが、自分のことを愛してくれているって分かっていた」
「俺は、アイツを、遠野を……」
「答えには辿り着けなかったけど、それでも、あの子のために一生懸命悩んでいたじゃない。考えていたじゃない。それが、愛じゃなくてなんなの。あなたは立派に、自分の教え子を愛していたのよ」
「でも俺は、あいつに、手を上げようと……」
「職員室でやったっていう、あのギャグだけど、あれと同じこと、前の日にもお母さんの前でやったらしいの」
白目をむきながら頬を引っ張る、あのギャグ。あれを、母親の前で?
「お母さん、笑ってくれたらしいわ。その日は、ほら、随分機嫌が悪かったみたいだけど、でも、春季君がそのギャグをやったら、笑ってくれたって」
俺と、あいつの母親は似ている。遠野が俺に言ったことだ。アイツは、俺を……。
「笑わせたかったのよ、あなたを。お母さんと同じように、笑ってほしかった。だからあの子は、あなたの目の前で、あのギャグをやったの。お母さんの前でやったのと、同じように」
もう、ダメだった。俺の視界は歪み、頬に暖かいものが流れた。布団も、床も壁も、道元も、皆ぐちゃぐちゃになった。もしかしたら、目が悪くなった遠野が見ていた風景は、こんな感じだったのかもしれないと思いながら、俺は声を上げて、泣いた。
episode2 完




