episode3-1
「もしかしたらうちの子、クラスでいじめられているんじゃないですか?」
それは、僕がまったく予想していなかった言葉だった。木村翔の母親、木村恭子を前に、僕はただ、口をぽかんと開けていた。
「ちょっと、聞いているんですか! 児玉先生!」
「え、あ、はい! もちろんです!」
木村恭子の剣幕に思わずたじろぐ。僕は、昔からこういう、すぐに大声を出すような人が苦手だ。どうしてもっと、穏やかに会話出来ないのだろうと、本当に不思議に思う。
「そ、その、木村さんはどうして、翔君がいじめられていると思うんですか?」
いじめという、幼稚さと狂気を孕んだ言葉が、僕の児童に降り掛かっているというのか。いや、そんなまさか。
「痣です。昨日、腕に痣を作っているのを、私見たんです!」
痣?
「それは、どのあたりですか?」
「ここです、ここ!」
そう言って木村恭子は指差したのは右の前腕部の中間だった。内側だった。
「えっと、そこだけですか……」
言ってから、しまったと思った。そこだけ、なんて言葉、この人を怒らせるに決まっているじゃないか。だが、時既に遅し。
「そ、そこだけって、どういう意味ですか! あなた、これがどういうことか分かっているんですか! うちの子が、誰かに、怪我を負わされたかもしれないんですよ!」
木村恭子は立ち上がり、つばを吐きながらそう捲し立てた。
「わ、わ、すいません! そういう意味ではないんです! すみません、すみません!」
慌てて謝罪し、言葉を撤回する。頭に血が上った人間に対して僕ができるのはそれくらいだ。
だが、腕に痣を作るなんてこと、誰にだってあることだろう。それなのに大袈裟な……。心の中ではそこまで思っていたが、当然、口に出来るわけもない。
「ふん。それで、うちの子はクラスでどんな感じなんです。誰かから、からかわれてはいないんですか」
そんなこと、あるわけないだろうという言葉が、またも口をついて出そうになる。危ない危ない。
木村翔がいじめられている。そんなはずはない。そう、ありえない。
「えっと、翔君ですが、成績も優秀で運動も出来て、学級委員もやっています。クラスでも人気者ですし、彼を慕っている子も大勢います。むしろ、大人しい子たちに率先して話しかけている姿を、よくみかけますよ。いじめられるなんて、まさかそんな……」
「でも、それが却って、ヤンキーみたいな子たちから、疎まれたりするじゃないですか」
ヤンキーって……。
「うちのクラスに、そんな子はいませんよ。それに、翔君は柔道の県大会で三位でしょう。誰も、手を出そうとは思わないかと……」
というか、むしろその柔道で出来た傷なのではないか。
「まあ、ええ、それはそうなのですけど……」
子供を褒められたと受け取ったのか、満更でもない様子だった。何しにきたんだろう、この人。
「でも、ほら、例えば、うちの子をやっかんだ子が、何かしてきたり……例えばあの子。ほら、岡部君とか」
岡部? 岡部銀河のことか?
「そ、そんなことありませんって。岡部君と木村君は、大の仲良しですよ」
「でも、勉強面では、ほら、お互いにライバルって感じじゃないですか。岡部君も、まあ、いい成績みたいですし。うちの子を蹴落とそうとしているのかも……」
いや、ライバルって……。僕は心の中で苦笑した。
確かに、木村翔は勉強面でもいい成績を出している。ただしそれは、あくまでも周りの子たちと比べて、という範囲だ。
対し、岡部銀河の学力はまさに桁外れだ。テストで百点を逃すことなど滅多にないし、どんな質問をしても的確な答えが返ってくる。運動面はからきしなようだが、勉強で彼の右に出るものはこの学校にはいない。有名中学への受験も考えているそうだ。
そんな彼が、勉強面で木村に嫉妬するはずがない。ライバルだと思っているのは、こう言っては悪いがこの親ぐらいだろう。
それに、木村と岡部は親友と言っていいほど仲が良い。どちらかがもう一方をいじめるなど、考えにくい。
「僕は毎日、あの子たちのことを見ていますが、いじめなんてありませんよ。多分、どこかでぶつけたりしたんですよ」
「でも、時々元気がないようにも見えるし、それに、この間の塾の試験でも、あまり成績が良くなかったし、それに……」
ダメだ。これでは何を言っても、彼女は納得しないだろう。
「……わかりました。では僕のほうから、子供たちにいろいろ話を聞いてみます」
仕方なしにそう言うと、木村恭子は不服そうな表情を浮かべながらも、よろしくお願いしますね、と言って、応接室を出て行った。
「木村君がいじめに遭っているって、そんなまさか」
僕と同じ感想を口にしたのは、二年一組担任の亘先生だった。職員室に戻った時に偶然、喫煙室から戻ってきた彼と鉢合わせをした。そしてつい、先ほどの会話の顛末を話してしまったのだ。
「それも、彼をいじめているのが岡部君なんて……ちょっと考えられないですよ」
「僕もそう思うんですけど……でも木村さん、何を言っても納得しそうになくて」
亘先生は僕よりも随分若い。僕が今年で四十五になるから、多分亘先生は三十とかだろう。見た目よりもかなり若々しく見える。背が高く、体型もスラッとしているので、女の子によくモテる。去年のバレンタインデーでも、児童からいくつかチョコを貰って参っていた。
「僕も木村君は知っていますけど、いじめられそうな感じの子ではないですよね」
僕は五年一組、亘先生は二年一組の担任だ。この学校には、学年を超えて様々なレクリエーションが行われる「交流会」と呼ばれる行事があるのだが、僕のクラスのペアが亘先生のクラスなのだ。木村翔は真面目だが、同時に目立つ児童でもあるので、亘も覚えていたのだろう。
「木村君を煙たがるような子も、そりゃ何人かはいるかもしれないですけど、僕も注意しているし……」
「それに、子供なんてあちこちで怪我をするもんですからね。腕の痣ぐらいで、そこまで騒ぐのも……」
僕もそう思う。腕の内側という、比較的怪我をしにくい場所に痣があったのは気にかかるが、やはり、遊んでいるうちに出来たと考えるのが妥当だろう。
「あら、一体何の話?」
背後から突然、そう声をかけられた。驚いて振り向くと、そこには二人の女性教師が立っていた。
「ああ、道元先生に麻倉先生、お疲れ様です」
声を掛けてきたのは、道元先生のほうだった。丸い顔に丸い体、顔のパーツや輪郭全てが曲線でできているような女性で、いつも朗らかな笑みを浮かべている。その体型や仏のように優しい雰囲気から、「道元菩薩」と渾名されているらしい。四年三組の担任だ。
彼女の後ろに立っているのが、麻倉先生だ。教師一年目の新米だが、四年三組の副担任を任されている。道元とは対照的に、背が高くて痩せている。正確もわりときっちりしているので、影では二人をデコボココンビと呼ぶ先生もいる。
「道元先生、実は……」
「ちょ、ちょっと亘先生……」
何の躊躇もなく道元先生に話そうとする亘先生を、思わず引き止めた。
「いいじゃないですか、道元先生にも相談してみましょうよ」
あまりぺらぺら喋るのは気が引けたが、でもまぁ、仕方ないだろう。実は去年の暮辺りから、クラスで起きた問題を他の先生と共有しようという動きが、この市立F小学校で見られているのだ。それは、去年起きたある事件がきっかけだった。
久茂、という男性教師が、児童の親と揉めに揉めた末、その親に刃物で刺された、という事件が起きたのだ。幸い命に別状はなかったが、久茂先生は年が明けるまで職場復帰が出来ないほどだった。刺される以前から様々な問題も起きており、このような自体を未然に防ぐためにも、あまり一人で問題を溜め込まないようにと、校長からのお達しがあったのだ。
「じゃあ、木村君がいじめられている様子はないんですね」
話を聞き終えた麻倉先生がそう言った。
「ええ。少なくとも僕が見た限りでは」
「痣も腕に一つしかなかったんですよね。だったら、やっぱり木村さんの思い過ごしじゃないですか」
麻倉先生も僕や亘先生と同意見のようだった。対し、唯一、異議を唱えたのは道元先生だった。
「うーん、決めつけるのは、まだ早くないかしら」
「え?」
「翔君、私はちょっと心配な気がする」
道元先生は、教師歴三十年近くのベテランだ。彼女からそういわれると、途端に不安になる。
「でも道元先生、木村君のお母さんが言っていることは、何の根拠もないんですよ」
亘先生が反論する。
「あら、でも木村さんは、翔君がいじめられているって思っているんでしょ。母親は、子供の一番近くにいる大人よ。その母親がいうんだから、翔君に何かおかしなことが起きているかもしれないじゃない」
「……確かに、そうかもしれませんね」
亘先生はあっさり折れた。そういう僕も、道元先生の意見には納得させられるものがあった。
「まあ、どちらにしろ、木村君には話を聞いてみるつもりです。それに、一応岡部君にも」
念のため、確認のため。僕はそんな軽い気持ちで調査に乗り出そうとしていた。しかしこれが、後に学校中を震撼させることになる、大事件の幕開けだったのである。




