episode2-12
翌朝、駅から学校へ向かう途中、携帯電話に一件の着信があった。こんな時間にかかってくることは珍しい。画面を見ると、それは公衆電話からの着信だった。不審に思いながら通話ボタンを押し、耳に当てる。
「もしもし、どちら様ですか」
しばらく待ってみたが、なぜか返事がない。間違い電話か、それとも悪戯か。
「もしもし、こちらの声、聞こえてるなら返事を下さい」
そう言うと、通話は突然、向こうから切られてしまった。 何だったんだ、今のは。ツー、ツー、という電子音が不気味さを駆り立てる。単なる間違い電話だろうか。無論それに越したことはないが、何せ昨日の今日だ。俺の脳裏に浮かんだのは、別の可能性だった。電話ボックスの中で、暗い目をして電話をかける遠野理子の顔が思い起こされた。
嫌な予感を胸に抱えたまま、学校に到着した。校舎に入り、職員室の前に立った途端、何やら胸騒ぎを覚える。何か、嫌なことが起こる気がする。扉を開けたくない。そんな思いをねじ伏せ、無理矢理引き戸に手をかける。
「あ、久茂先生」
亘が、俺を見るなりこちらに駆け寄ってきた。問題が起きた、と顔に書いてあるようだった。
「おう、亘先生。何かあったのか」
「ええ、まあ……」
どうにも歯切れが悪い。つまりは、俺絡み、ということだ。
「実は、さっきから、妙なことが……」
「妙?」
「はい。朝から無言電話がかかってきていて……」
嫌な予感は的中した。やはり先ほど携帯にかかってきた謎の着信も……。
その時、乾いたコール音が職員室に鳴り響いた。うんざりしたような表情で受話器を取ったのは、児玉という教師だった。
「はい、こちら市立F小学校です」
児玉の表情が一瞬で曇る。そして、何回か言葉を受話器に吹き込んだ後、そっと受話器を置いた。
「また……みたいですね」
亘が溜め息まじりに言う。
「朝からずっとか」
「えーと、僕、今日は七時半頃に来たんですけど、電話が鳴りだしたのは四十五分くらいです」
ポケットから携帯を取り出し、着信履歴を確認する。先ほどの無言電話がかかってきたのは午前七時四十二分だった。
「どうしたんです」
怪訝そうな顔で亘が尋ねてきたので、俺は着信履歴の画面を見せた。
「実は、俺の携帯にも無言電話がかかってきたんだ。時刻は七時四十二分。ここにかかってくる、少し前だ」
「え……じゃあ、やっぱり……」
その口ぶりから、亘も遠野理子が無言電話の犯人だと予想していたことが分かった。
「とにかく、遠野の家に電話してみる」
俺は自分の机から連絡帳を取り出し、遠野の家の電話番号をプッシュした。鳴り響くコール音。やがて、留守を告げる機械音が鳴った。
「どうですか」
「ダメだ、でない」
無言電話をかけてきているのは、遠野の母親で間違いないだろう。嫌がらせのつもりだろうか。ただ、俺の携帯には公衆電話からかけられていた。自宅にはいないのということか。
「くそ、俺が一体、何をしたっていうんだ」
イライラが募っているのが自分でもわかる。頭がおかしくなりそうだ。
「どうしますか。警察に通報とか……」
「ちょ、ちょっと、何を言っているんです!」
亘の提案に食って掛かったのは、いつも間にか背後に忍び寄っていた教頭だった。
「何って、警察に……」
「そんな、たかがイタズラ電話でしょう。大事にしなくたって……」
「そんな悠長なことを。もし、児童に何かあったらどうするんですか」
亘の言う通りだ。昨日の時点で、遠野の母親の様子はかなりおかしかった。やはり、昨日のうちにどうにかしておくんだった。
「そういや、遠野は来ていないのか」
あいつがいるなら、もしかしたら詳しい話が聞けるかもしれない。
「実は、さっき麻倉先生に、二年二組の教室へ行ってもらったのですが……」
そこへ、タイミングを見計らっていたように職員室の扉が開かれた。廊下から、麻倉の顔がひょっこりと現れた。
「春季君、来てましたよ。連れてきました」
時刻は八時十五分。遠野が登校していてもおかしくはないが、心の中に別のある違和感が生まれた。
「悪いが、遠野をここに連れてきてくれ」
そう指示すると、麻倉の顔は一旦引っ込み、代わりに遠野春季が姿を現した。
「すっげー! 俺、職員室って初めて入った!」
遠野は呑気に歓声をあげている。こっちはお前の親のせいで困り果てているというのに。
「遠野、ちょっとこっちに来い」
大勢の先生が周りをうろうろしているにも関わらず、遠野に緊張した様子は見受けられない。
「なに、先生。俺、超忙しいんだけど」
加えて憎まれ口だ。いつもだったら説教だが、ここはぐっと堪える。
「なぁ遠野。お前の家、ここからどれくらいだ」
「うち? うーん、うちから綾斗んちくらい」
分かるか。
「そうじゃなくて、時間で答えろ。時計の読み方は教えただろうが」
「えーっと、いつもは長い針が十になったら出発」
ということは、コイツは七時五十分に家を出ていることになる。一方、母親のほうから俺の携帯に電話があったのは七時四十二分だ。遠野が起床して学校に行くまでは、あの母親は仕事終わりで寝ていると言っていたが、今朝は家にいなかったのだろうか。
「おい、お前のお母さんは、今日、家にいたか」
「さあ、知らない。いないんじゃないの?」
いないんじゃないのって……。なぜ自分の親が家にいたかいなかったかが分からないんだ。
「どういうことだ」
「俺、昨日は綾斗んちに泊まって、そっから学校来たから」
泊まった? じゃあ今日は、母親と会っていないのか。
「じゃあ昨日は。昨日とは服が違うから、家に帰ったんだろう。お母さん、どんな感じだった」
学校に乗り込んで来たくらいだから、昨日はパートの仕事を休んだのだろう。いや、最近は頻繁に来ていたから、もうすでに辞めているかもしれない。
「うーん、ちょっと怖かった。でも、俺がギャグやったら、笑ってくれたよ」
怖かった、か。やはり、昨日の出来事が原因か。
「あ、だから今日は、宿題ちゃんとやったぜ。綾斗の母ちゃんに教えてもらったから」
おそらく、仕事で帰れないからと嘘をつき、小林綾斗の母親にコイツを預けたのだろう。しかしなぜだ。なぜそこまでして、俺や学校に執着するんだ。
「それで、どうします。これからも、電話かかかってくるかもしれません」
「来るだろうな。……一時間目、空いている先生はいるか」
「僕、空いてますよ。一時間目は音楽ですから」
「だったらちょうどいい。悪いが、二組に行ってくれないか。自習でいいから、ちょっと見ていてほしい。俺はここに残って、電話をとる」
「え、でも……。いや、僕が電話をとります。先生は、授業へ……」
「いや、相手は俺のクラスの保護者だ。俺がやる」
「……分かりました」
その会話を聞いていたのか、遠野がはしゃいだ声を上げた。
「自習? 一時間目自習? やったー!」
「遠野、ちょっと静かにしてくれ」
「イェーイ、今日って一時間目理科だよね。俺、理科嫌いだから良かったー!」
注意しても静かにしない遠野に、怒りが沸々と沸いてきた。先ほどのイライラのせいだ。
「いい加減にしろ、ここは職員室だ」
「亘先生が来るの? ねぇねぇ、一時間目カルタにしようぜ! 俺、この前あんまりとれなかったから」
「あ、いや、カルタはちょっと無理かな……」
「馬鹿モン。理科のドリルでもやっていろ」
「えー、いいじゃんいいじゃん」
「ダメだ」
大体、誰のせいでこんな目に……。
「ドリルなんかやだ。カルタがいいカルタがいいカルタがいいカルタが」
「うるさい!!」
職員室が、一瞬で静まり返った。自分でも驚くほどの怒鳴り声だった。
「は、春季君。理科の時間なんだから、理科の勉強しようよ。カルタだったら、昼休みとかに貸してあげるから」
取り繕うように亘がフォローしてくれたが、当の本人は至ってケロッとしていた。普段から怒鳴られ慣れているからだろうか。
「もう、先生。そんなに怒らないでよ。それじゃ、昨日のうちのお母さんみたいだよ」
「……何?」
「うちのお母さんみたいだよ、先生。そうやってすぐに怒るの。そういうところ、そっくりだよ。怖いから、やめてよ」
怖いから止めろ? お前が訳わからないこと言うからだろう。ぎゃあぎゃあ騒ぐからだろう。わがままを言うからだろう。宿題をやってこないからだろう。暴力を振るうからだろう。俺の、癇に障ることばかりするからだろう。
お前の母親に似ているだと。ふざけるな。あんなモンスター。俺は、あいつのせいで苦しんでいるんだ。訳が分からないことを言われ、その度に俺の時間がなくなっていく。それを、貴様、似ているだと? 俺が、あんなやつに?
「く、久茂先生、一旦落ち着きましょうよ。ほら、春季君。先生にちゃんと謝ろう……」
「そうだ、先生にいいもん見せてやるよ。これ見たら、ぜってー笑うから」
そう言って、遠野は自分の両頬を手で引っぱりながら白目をむいて、舌を突き出した。そして……。
「べろ〜ん!」
それは、今子供たちの間で人気のアニメでよく出てくる、ギャグの一つだった。俺は見たこともないが、子供たちがよく真似をしているのは知っている。このギャグについて、今まで特に思う所はなく、子供たちの間に限った一時的なブームという認識しかなかった。しかし、今の俺にとって、それは……。
ただの侮辱にしか映らなかった。
「久茂先生! ダメです!」
亘の怒鳴り声が、頭の中にぼんやりと響いた。なんだ、コイツ。何を怒っているんだ。頭の中で声が木霊し、そして消える頃、ようやく俺は現状を把握した。
俺は、右腕を高く振り上げていた。そして目の前には、その腕を必死に抑えようとしている亘。さらに、その奥には……。
自分の頬を軽くつまみながら、驚愕の表情を浮かべている遠野。
なんだ。俺は、何をしている。この右手は何だ。亘はなぜ、俺の腕を掴んでいる。遠野はどうした。さっきまで、ふざけて騒いでいたじゃないか。なのに、なんだその顔は。俺は、どうした。この右手で、俺は何をするつもりだったんだ。こんな太い腕を振り上げて、まるで、誰かを殴ろうとしていたみたいじゃないか。誰を。亘か。いや、そんなわけない。じゃあ、俺は、遠野を?
嘘だ。そんなわけがない。だって、俺のクラスの児童だぞ。しかもまだ二年生だ。それを、俺が、手をあげようと……まさかそんな。俺は、俺は教師だぞ。三十年近く教鞭を揮ってきたベテランだ。体罰なんて、そんなこと、するはずがない。そうだろう。それを、愛すべき児童を。
愛さなければならない子供を。
「あ、ああ……」
全身から力が抜けた。先ほどまでふつふつと沸いていた怒りが消え、心の中ががらんどうになってしまったみたいだ。そこへ、喉の奥から、冷たい水がぽつり、ぽつりと落ちてきた。
俺は、こんな小さな子供を、殴ろうとしたのか。こんな、こんな大きな手で……。
「久茂先生、少し休んだほうがいいです。……麻倉先生、悪いけど、春季君を頼む」
「え、あ、はい」
遠野は麻倉に連れられ、職員室を出て行った。後には、俺と、亘と、一部始終を見ていた他の教員が残された。
「……すまない」
ようやく、声が出た。本当に謝らなければならない相手が亘ではないことは分かっていた。だが今の俺には、謝罪以外の言葉は浮かばなかった。
「とりあえず、一時間目は頼んだ。……他の先生方も、すみません。お騒がせしました」
頭を下げ、席についた。その直後、電話が鳴る。受話器をとり、耳に当てる。しかし、いつまで経っても、声は聞こえてくることはなかった。




