episode2-11
職員室に戻ったが、仕事をする気分にはなれなかった。しばらく、俺は緑茶を啜りながら暗くなったデスクトップを見つめていた。
「あの、大丈夫ですか」
振り返るのが億劫だったが、その声で、話しかけてきたのが亘だと分かった。
「……まあ、怪我はないな」
冗談のつもりでそう言ったが、乾いた笑い声しか出なかった。
「久茂先生、遠野さんは大丈夫なんですか。僕から見ても、彼女、少しおかしいですよ」
そんなこと、言われなくたって分かっている。俺は返事をせずに、茶を啜った。
「亘先生、ちょっと変なことだが、聞いていいか」
「……なんですか」
「……子供たちのこと、好きか」
「は?」
自分の児童のことを、嫌うはずがない。しかし、先ほど遠野の母親に、遠野春季のことが嫌いなのではと問いつめられた時、胸を張って好きだと言いきれない自分の存在に気づいてしまった。彼女のおかしさとは別に、俺はそのことが、ずっと引っかかっていた。
「当たり前じゃないですか。どんな子も、大好きです」
亘は迷う素振りを微塵も見せず、そう言いきった。
「でもよ、子供にもいろいろいるだろ。大人しい奴、手のかかる奴、しっかりした奴、落ち着きのない奴。それなのに本当に、児童全員を、好きになんてなれるか」
そう尋ねると、亘は考える素振りを見せた。それは、迷っているというふうではなく、俺が言ったことが不服だと思っているような表情だった。
「うぅん、どうなんでしょう。でも、僕の中では、そういうのを超越した何かが、教師と児童の間にあるんじゃないかと思います」
超越した何か……。
「まあ、親子愛に似た感じ、ですかね」
親子愛。そんな感情が、本当に俺たちの間に存在するのか。俺は、遠野春季を、我が子のように愛しているのか。愛さなければならないのか。
胸を張って子供たちを好きだと言える亘が、正直うらやましかった。単にまだ若いからか、それとも、コイツの人間性なのかは分からないが、本当に教師に向いているのは、こういう奴なのではないかと思った。
それに比べて俺は、どうなのだろう。俺は本当に、子供たちが好きか。遠野の母親のようなモンスターの子供を、俺は愛せるのか。
まさかこの歳になって、教師としての自信が揺らぐとは思っていなかった。長年積み上げてきた何かが、今、一人のモンスターによって崩れかけている。
「もしかして、遠野さんに何か言われたんですか」
勘のいい亘が、心配そうな表情を浮かべて尋ねてきた。
「もしそうなら、あまり気にしないほうがいいですよ」
控えめな慰めに、俺は、ああ、とだけ返事をして、立ち上がった。
「ちょっとタバコ吸ってくる。一緒に行くか」
「ああ、僕、さっき吸ってきちゃったんですよ。遠野さんが来ていた時に」
そう言えば、亘のスーツからは微かにタバコの匂いがする。
「俺が言うのもなんだが、あまり吸いすぎるなよ。体に毒だ」
そう言うと、亘は照れたように笑った。
お前は教師に向いている。だから、健康でいたほうがいい。流石にそんなエールは、こっ恥ずかしくて口にはできなかったが。
一服終えて職員室に戻ると、さっきまでの疲労感は少し薄れてきていた。俺は机に座り、プリントの作成や小テストの採点に取りかかった。
どれくらいの時間が経っただろう。辺りを見渡すと、職員室の窓の外は、すっかり暗くなっていた。時計を見ると七時だった。
「まだ帰らないの、久茂先生」
背後からそう声を掛けてきたのは、道元だった。
「珍しいじゃない。久茂先生が残業なんて。いつもはとっとと帰っちゃうのに」
普段、仕事は家に持ち帰ることが多い俺は、あまり残業をしない。
「ええ、まあ。昼間、ちょっと出来なかったもんで」
「あ、遠野さんね。なんでも、教育委員会がどうとか」
「はい。ほんと、参っちゃいますよ」
暗くなった校舎で仕事をしていると余計に気が滅入る。そろそろ帰ろう。
「それにしても、最近の親が考えていることはさっぱり分かりません。ありゃ、一体なんなんでしょう。日頃の鬱憤が溜まっておるんでしょうが、それを俺たちに向けられても、ねぇ」
思わず帰り支度をしながら愚痴をこぼしてしまった。やはり、自分でも気づかないうちに、かなり精神的に参っているようだ。
「久茂先生、お子さんは?」
「いますよ。もう成人して、家を出て行きましたが」
「そう……」
道元は、ボーッとした表情で窓の外を見つめている。
「私はね、ちょっと分かるわ。俗に、モンスターペアレントって呼ばれる人たちの気持ち」
それは意外な言葉だった。いつものように、ホントよねぇ、などと笑って返されると思っていたからだ。
「それは、あれですか。自分の子供を心配しているとか、そういったことですか」
少し皮肉まじりに言った。そういう親は、子離れが出来ていない馬鹿な人間だと思っているからだ。
「うーん、確かにそれもあるけど、それだけじゃないと思うわ」
「というと?」
「例えば、今は働いているお母さんってすごく多いじゃない。パートでも正社員でも、子供が小さい頃から働いていて、少子化って言われているのに長時間の保育所はどこも一杯で」
確かに、待機児童の増加が現在、大きな問題となっている。
「それが、モンスターペアレントとどういう関係があるんですか」
「学校が、子供の『預け先』になろうとしているんじゃないかしら」
「預け先?」
「そう。長時間預けられて、ついでに勉強も教えてくれる預け先。本来は当然、学校は教育の場なんだけど、その考えが崩れ始めている。もちろんそんな考えを持っている親は少数よ。でも、考えてみて。子供を『預け先』から引き取って、例えば怪我なんかしていたら、その『預け先』を問いつめたり、先生のせいにする人たちが出てきてもおかしくはないじゃない」
道元の意見は新鮮だった。それに確かに、遠野の母親も、パートを掛け持ちして働いている。
「もちろん、母親が働きに出ることが問題な訳じゃない。不景気や少子高齢化によって、女性の社会進出は労働人口の面から見ても必須だし、これからますますそうなっていくわ。それに、他にもいろいろな要因がある。私が言いたいのは、モンスターペアレントって、そういった環境から『自然発生』した存在なんじゃないかしら、ってことなの」
「自然発生、ですか。遠野さんみたいなモンスターペアレントが」
食い止める術のない自然発生的存在。なんと恐ろしい言葉だろうか。
「昔、になっちゃうのよね。私たちが学生だった頃って、廊下に立たされたり、給食を全部食べさせられたり、しょっちゅうだったじゃない」
「そうですね。部活なんかでも、水は飲むなと言われたり」
「そうそう。でもそれって、立派な体罰なのよ。今じゃ、誰もそんなことやってない」
体罰は、1947年に制定された学校教育法ですでに禁止されていたし、戦前にもそのような法律は存在する。体罰禁止は何も、最近決まったことではないのだ。
「体罰が絶対ダメとは、言いきれないと思いますがね」
「それでも、教師が子供たちに対して、ある種の越権行為を行っていたことは事実でしょ。それに確かに、度が過ぎた暴力を振るう教師もいた。それで、九十年頃に問題となって、たくさんのメディアで報じられた。昔は良かったなんて言う人がいるけど、昔は昔で、教師による暴力で苦しんでいた子供がいたというのも事実ね」
「ということは、それで、教師と親のパワーバランスが逆転したんですかね」
「モンスターペアレントという言葉が使われ出したのは、確か2007年頃だったわね。その刺激的な呼び名が誕生して、あっという間に全国に広まっていった。テレビでも毎日のように報道されていたのを覚えてるわ」
確かに、雑誌やニュースに留まらずバラエティ番組、ドラマにまでその言葉が使われていた。
「でもその言葉って、刺激的であると同時に、すごく便利な言葉でもあるのよ。だってそうでしょ。私たちにとって気に喰わない保護者に、モンスターペアレントっていうレッテルを貼付けることができるようになったんだから」
「レッテルですか。いや、でもそういや、最近テレビで見ましたな。モンスターティーチャーとかいうものが増えてるって。セクハラとか体罰教師を指す言葉みたいでしたが」
「それは多分、モンスターペアレントが世の中に浸透したことで、今度は保護者の立場が、また弱くなってしまったからでしょうね。今の親はみんなモンスター。そんな考えが広まって、至って常識的な親たちまでもが、行動しにくくなってしまった。結果的に、おかしなことをする教師がまた、増えてしまった」
「でも、それって……」
繰り返しだ。親が悪い。いや、教師が悪い。いや、やっぱり親が……。そんな議論がテレビやメディアを通じて面白おかしく報じられる。こんなひどい親がいますよ。こんなひどい教師がいますよ。そんな話を聞いて、驚いた振りをして喜んでいるその他の人々。
「結局は、どっちかを悪者にして、皆楽しんでいるのよ。こんなひどい要求をする親がいるってことを知って、自分はこんな親じゃないって知って安心している。そんな身勝手な世論のなかで、いろいろなモンスターが育まれている」
道元が言っていることが全てとは思わない。しかし、的外れというわけでもないだろう。何より、謎めいたこの教師の内面を、ほんの少し垣間見れた気がした。
「今テレビで報道される教育問題なんか、親と教師が争って、それを囃し立てるように観客が騒いでいるようにしか見えないのよ。でもそこに、本来主役であるべきの子供たちはいないの。本当は、子供たちをどう育てていくかが問題なのに、刺激的な問題ばかりが目立って報道される」
「子供たち、だけじゃない。多くの教育現場が正常に機能しているということもまた、置き去りにされている。皆が囃し立てる中、実際に教育に携わる『正常な』親や教師が、翻弄されている」
淡々とした口調ながら、彼女の言葉には静かな怒りが含まれていた。彼女がそんな考えを持っているとは思っていなかったから、俺は思わず、彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。すると、道元は照れたように笑った。
「話がずれちゃったわ。遠野さんの話だったわね。私が言いたいのは、彼女は理不尽な要求をするモンスターペアレントには違いないのかもしれないけど、彼女には彼女なりの理由があるってこと。理論的でなくても、子供への愛とか、そういった、根本的な原因がね」
そう言って、道元は何事もなかったように職員室を出て行った。残された俺は、しばらく、その場から動けないでいた。




