episode2-10
放課後、SHRを終えて職員室に戻ると、教頭が青い顔をして俺を待ち構えていた。彼は、俺の姿を見るや否や、強ばった表情でこちらに近づいてきた。
「久茂先生、遠野さんがお見えです」
「え……またですか?」
これまで頻繁に学校へ来ていた遠野の母だが、さすがに二日連続で、ということはなかった。またくだらない話を聞かされるのかと思うとうんざりしたが、同時に、教頭の慌てようが気にかかった。
「あの、何かあったんですか」
そう聞くと、教頭は眉間の皺を深くさせ、こう答えた。
「久茂先生、単刀直入に聞きます。遠野春季に対して、何か問題のある行動はとりませんでしたか」
一瞬、教頭が発した言葉の意味が理解出来なかった。問題のある行動? 遠野ではなく、俺が?
「ちょっと、そりゃどういうことですか」
戸惑う俺に向かって、教頭は衝撃的な言葉を放った。
「遠野さんが、久茂先生の問題行動を、教育委員会に訴えると言ってきているんです」
俺は耳を疑った。教頭は今、なんと言った。教育委員会だと? この俺が、遠野親子に対し、教育委員会に訴えられるようなことをしたというのか。一体どういうことだ。
「とにかく、遠野さんがお待ちですので、行きましょう。応接室です。私も一緒に行きます」
そういって職員室を出た教頭を、俺は急いで追いかけた。嫌な汗が、首や脇から溢れ出した。
「いやいや、お待たせしまして、申し訳ありません」
取ってつけたような笑顔を引き攣らせながら、教頭は遠野の母親の前のソファに腰掛けた。一方遠野の母親は、俯いて自分の膝を見つめている。そんな彼女を警戒しながら、俺も教頭の隣に座る。
「一体どういうことですか、遠野さん」
生憎、俺は教頭のように愛想よく笑ったり下手に出たりということができない。隣で話を穏便に進めたい教頭がこちらを睨んだのが分かったが、構わず続けた。
「私に至らない点があったのなら謝罪します。ですから、何が至らなかったのか、教えていただけませんか」
反応はない。暗く沈んだ視線を、ただ自分の膝に向けている。白いロングスカートが、彼女が持つ独特の陰鬱さを強調しているように見えた。
「文句があるなら、直接私に言ってくださいと言っているんです」
「久茂先生!」
隣から鋭い声が飛ぶ。
「とにかく、落ち着いて話し合いましょう。遠野さん、差し支えなければ、久茂先生に抱いている思いを、お話ししてくれませんか?」
猫撫で声が教頭がそう言うと、遠野母親はようやく顔を上げた。そして俺をじっと見つめ、こう言った。
「久茂先生は、うちの子が嫌いなんです」
聞いた瞬間、手足の筋肉や表情筋が一気に凍り付いた。そんなことあるわけがない。自分が受け持つ児童を嫌うなんて、あるはずがない。
確かにそう呟く心の奥底で、本当にそうか、と疑問を投げかける自分がいることに、俺は戦慄したのだ。
「……どうして、そう思うんですか」
ようやく、そんな言葉をひねり出した。泣いた後に喋ったときのような、鼻が詰まった声だった。
「綾斗君から聞きました。先生は、うちの春季にとても厳しいと」
非難した声色とは裏腹に、一切変化を見せないその表情に空恐ろしさを感じる。
「……それは、春季君が宿題をやってこなかったり、授業中におしゃべりをするからです。彼だけを厳しく指導しているわけはありません」
厳しい指導には、それなりの理由がある。ルールを守り、他者を傷つけない児童には、声を荒げたりはしない。それは当然のことだ。
「……授業中におしゃべりをするのは、先生の授業がつまらないからじゃないですか?」
遠野さんそれは、と隣の教頭が制する。心配そうな表情をこちらに向けるが、俺だってそれくらいのことでキレたりなどはしない。穏やかな口調を保ちながら、反論する。
「仮に私の授業がつまらないからと言って、寝たりしゃべったりしていい理由にはなりませんよ」
遠野の母親の目が険しくなる。
「わ、私聞きましたよ。この間、他の子が宿題を忘れた時、先生は軽く注意しただけだったそうじゃないですか。なのに、うちの子には大声で怒鳴りつけたり、立たせたりしてるみたいじゃないですか。そんなの、贔屓じゃないですか」
「毎日のように忘れる子と、たまたまその日だけ忘れてしまった子では、叱り方に差が出るのは当然でしょう。逆に言えば、春季君はそれほど、宿題忘れが多いんです」
そんなことも分からないのか、という言葉は飲み込んだ。教頭の顔が青くなる様が目に浮かんだからだ。
それにしても、今日の彼女は少し様子がおかしい。いつもは理不尽な要求を突きつけながらも、彼女の大人しさや臆病さが感じられたが、今日はやけに攻撃的だ。
「春季、毎日私に言うんですよ。今日も先生に怒られちゃったって。先生は、うちの子が可哀想じゃないんですか?」
「だからって、私に叱るなというのはお門違いでしょう。私に叱られないように、自分のお子さんを指導して頂けませんか」
まぁまぁ、と教頭が割って入る。
「久茂先生、少し、春季君に対して厳しすぎるんじゃないですか? もう少し、子供たちに優しく……」
「私は、間違った指導をしているとは考えていません」
ぐっ、と教頭が越し黙る。今、コイツなんかと話している場合ではない。
「で、他に何かありますか」
遠野の母親の顔が歪む。
「も、もちろんです。先生は、私がこうやって学校に来ていろいろ意見を言っても、全然聞く耳を持ってくださいません。いつも適当にあしらって、追い返そうとするんです」
「その意見とは、夫の就職の手助けをしろという意見のことですか。それとも、私に朝、春季君を起こしてくれないかという話ですか。そんな馬鹿げた話に、私が協力すると思っているんですか」
「ば、馬鹿げたって……」
「久茂先生、そのような表現は……」
「馬鹿げた話を馬鹿げた話と言って何が悪いんですか。それとも、教頭は今のような意見を受け入れると仰るんですか」
「い、いや、それは……」
目を泳がせた教頭から視線を外し、再び遠野の母親へと向けた。その時、俺は彼女の顔が怒りで真っ赤になっていることに気が付いた。
「そんなの、あんまりです!」
突然、遠野の母親が声を荒げた。俺と教頭は、同時に口を噤んだ。
「私はこんなに悩んでいるのに、どうして分かってくれないんですか! どうして私と春季を嫌うんですか! 担任の先生だったら、もっと親身になって考えてくれたっていいじゃない!」
ものすごい剣幕で、彼女はそう捲し立てた。ここまで感情を露にする彼女を見たのは初めてだった。教頭に至っては、口をぽっかり開けて、間抜けな表情を晒していた。
「ちょっと、少しは落ちつい……」
「落ち着けるわけないでしょう! なんなのよ! なんで私と春季だけ嫌われなきゃならないのよ! そんなのおかしいじゃない! それなのに、全然話も聞いてくれないし、助けようともしてくれない! その上、うちの子をいじめるなんて、どうかしてるわ!」
おかしい。どうかしているのはコイツのほうだ。彼女の言動、思考回路、その全てがおかしい。狂っているとしか言いようがない。
「分かったわ! 先生はきっと、うちの子に宿題の範囲を教えていないんです。そうやって、わざと春季を叱る口実を作っているのよ! 最低! あなた、それでも教師なの!」
遠野の母親はいつの間にか立ち上がっており、俺を見下ろす形で怒鳴っていた。血走った目が、俺を捉えて離さない。
「どうしたんです、何事ですか!」
大声を聞きつけたのか、亘が応接室に飛び込んできた。
遠野の母親は、亘を見るなり、どういうわけか気が抜けたような表情になった。あまりの豹変ぶりにこちらが驚いていると、彼女は小さく呟いた。
「……なんでもありません」
虚ろな目をして、彼女はぼそぼそ呟いた。亘も呆気に取られているようだ。
「なんでもないんです。なんでも」
そう言いながら、彼女は自分の荷物を手にとり、応接室の出口へ向かって行った。その目は暗く濁り、何も見えていないように見えた。
「今日は帰ります。さようなら」
小さくお辞儀をし、亘の隣をすり抜けるようにして、彼女は出て行った。その間、残された三人は指先一つ、動かすことが出来なかった。
「……なんなんですか、今のは」
ようやく、隣の教頭が口を開いた。
「一体、何がどうなっているんですか」
「……私にだって分かりませんよ」
頭が狂っている。そうとしか思えなかった。言い分も何もかも滅茶苦茶で、支離滅裂。まさに、モンスターという言葉がぴったりと当てはまる。沈黙に支配された応接室で、俺は深く、溜め息をついた。
しかし、俺はまだ知らなかった。彼女の本当の恐ろしさは、こんなものではなかったのだ。




