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第9話 泥靴の巡察使

屋敷の応接室は、これ以上ないほど冷ややかな空気に包まれていた。


「まったく、忌々しい雪と泥だ。辺境の道というものは、王都の整った石畳とは比べ物にならんな」


 王都財務院の巡察使、ロイス卿。


 彼は高価な毛皮のコートを乱暴にソファへ投げやると、雪と泥でドロドロに汚れた革靴で、辺境伯邸の応接室に敷かれた絨毯を容赦なく踏み躙った。


「長旅でお疲れのところ申し訳ありません、ロイス卿。私がフォルクハルト辺境伯領・領主代行を務めております、アメリアです」


 私は努めて平静な声で名乗り、席を勧めた。


 だが、ロイス卿は私を一瞥すると、鼻で短く笑った。


「辺境伯ご本人は病床と聞いている。こんな小娘が代行とはな。ただでさえ厳しい冬の差配、さぞかし荷が重かろうに」


 彼は私の『領主代行』という権限を、あからさまに軽く見ているようだった。


 王都の官吏からすれば、当主ではない二十歳そこそこの令嬢など、適当に威圧すれば御せる相手だと踏んでいるのだろう。


「ご心配には及びません。領地の冬越しは、代行の私と、優秀な補佐官によって滞りなく進められておりますので」


「優秀な補佐官、だと?」


 私の言葉に、ロイス卿の目が冷たく細められた。


 彼の視線が、私の斜め後ろに無言で控えているレオンへと突き刺さる。


「笑わせるな。婚約破棄されて王都を逃げ出した男を重用するなど、フォルクハルト家の品位を疑うぞ。それに、道中で奇妙な噂を耳にした。王都の役所や騎士団から『使えない』と追い出された落ちこぼれ共を、わざわざこの屋敷に集めているそうだな?」


 ロイス卿は、心底見下したような溜息をついた。


「ゴミを集めても、ゴミの山にしかならん。王都で役立たずとされた者が、辺境で役に立つわけがなかろう。無駄な真似はよすことだ」


 華やかで力のある者だけが生き残る、王都の価値観。


 それを体現したような男だった。


 彼にとって、声の小さなミラも、魔力の弱いニコも、足の悪いガレスも、そして沈黙を貫いたレオンも、等しく無価値な存在なのだ。


「彼らの価値は、私が判断します」


 私は静かに、しかしはっきりと返した。


「それで、王都財務院の巡察使殿が、わざわざこのような泥深い辺境まで、何の御用でしょうか」


「……ふん。表向きは、冬季防衛備蓄の確認だ」


 ロイス卿は泥靴の足を組み替え、本題に入った。


「王都は今年の寒波を重く見ている。ついては、辺境で余剰となっている小麦や薪などの備蓄、それに最近そちらの職人が作っているという『小型の暖房具』について、状況を確認する必要がある」


「余剰などありません。すべて領民が冬を越すために必要なものです」


 私が即座に答えると、ロイス卿は鼻で笑った。


「それを判断するのは、お前ではない。王都財務院だ」


 ロイス卿は、応接室の壁に掛けられた古い地図を一瞥した。


「もし余剰が確認されれば、王都が正当な価格で買い上げてやる。名誉なことだぞ。辺境の粗末な備蓄が、王都の冬越しに役立つのだからな」


「買い上げの対象になる余剰はありません」


「ふん。小娘の申告だけで済むなら、巡察使など不要だ。蔵の中身も、工房の品も、こちらで確認してやる」


 言い方こそ買い上げだが、その目には最初からこちらの事情を聞く気などなかった。


 ただし、今この場で備蓄を奪うために来たというより、何がどれだけあるかを値踏みしに来たのだろう。


 そして、ロイス卿には、もう一つ探りたいものがあるらしかった。


「それと、レオン・クラウゼン」


 ロイス卿は嫌な笑みを浮かべ、私の背後に立つレオンへ視線を向けた。


「その男が、妙な記録を抱えているという話も聞いている。後ほど確認させてもらおう」


 その言葉が出た瞬間、私の背後に立つレオンの空気が、ピンと張り詰めたのがわかった。


「……確認、ですか」


 レオンが、感情の乗らない平坦な声で答えた。


「フォルクハルト領の記録であれば、領主代行であるアメリア様の許可なく閲覧することはできません」


 ロイス卿の顔が、怒りでサッと赤くなる。


「貴様、自分の立場がわかっているのか! これ以上王都に刃向かうというなら、正式な検査権限を行使して蔵も工房も封鎖し、貴様を逃亡者として王都へ引きずり戻すぞ!」


 レオンを連れ戻すというのは、明らかに脅しだ。


 彼らはレオンという男に価値を見出しているわけではない。


 彼が何かを知っているかもしれないことが、どうしようもなく邪魔で、恐ろしいのだ。


 私が、領地の契約と規定を盾に反論しようと口を開きかけた、その時だった。


 カン、カン、カン、カンッ!


 屋敷の外から、けたたましい鐘の音が鳴り響いた。


 それは、領内に緊急事態を知らせるための吹雪の鐘だ。


「な、なんだ、騒々しい!」


 ロイス卿が眉をひそめる中、応接室の扉がバンッと乱暴に開かれた。


「アメリア様! 申し上げます!」


 雪にまみれたオルドが、息を切らして駆け込んでくる。


「予定より早く、猛吹雪が来ました! 北の三つの村から、緊急の救援要請です!」


「孤立したのね」


「はい! すでに街道は雪で塞がりつつあります!」


 私はバッと立ち上がった。


 王都の理不尽な政治の駆け引きなど、今はどうでもいい。


 目の前に、飢えと寒さに直面している領民がいるのだから。


「アメリア様、救援隊の編成はすでに完了しています。出発の許可を」


 レオンが、すかさず私の横に立ち、分厚いコートを手渡しながら言った。


「ええ、すぐに出るわ」


 私はコートを羽織り、唖然としているロイス卿を見下ろした。


「申し訳ありませんが、卿の相手をしている暇はありません」


 そして、静かに言い添える。


「……辺境の役立たずたちがどう働くか、特等席で見学していくといいわ」

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