第64話 王都が見なかった人たち
凍てつくような白い寒波は、まだ王国全土を重く覆っている。
だが、フォルクハルト辺境伯領の館の廊下に響く人々の足音に、かつてのような切羽詰まった絶望の響きは、もうどこにもなかった。
「少し右です。……はい、そこでしっかり固定してください」
朝の冷気の中、大工の力強い槌音が響き渡る。
新しく削り出された木彫りの看板が、再び開け放たれた重厚な扉の横に、しっかりと掲げられた。
『フォルクハルト辺境領・再任用室』
その看板の隅には、王都がこの部署を北方冬越しの臨時補佐機関として認めたことを示す、小さな承認印が誇らしく刻まれている。
王国全体では、まず臨時の補佐機関として。
フォルクハルト領内では、父の追認を受けた正式な実務部署として。
再任用室は、ようやく誰にも否定できない形で、そこに席を得た。
もう誰にも「不透明な仮部署」などとは呼ばせない。
ここは王国の冬を越すために、絶対に必要な実務の席だ。
部屋の中からは、朝早くから忙しなく立ち働く面々の声が聞こえてくる。
「あの、昨日の北の村からの受領書、まとめ終わりました。記録との誤差はゼロです……」
ミラの声は、相変わらず小さくて微かに震えている。
けれど、彼女が書き上げる議事録と照合記録の正確さは、王都の役人たちでさえ舌を巻くほどになっていた。
「次の暖石は、二時間ごとに交代で魔力を補充してください! 無理に一気に温めようとしなくていいです。小さく、長く、安定して温めるんです!」
ニコが職人組合の若者たちに囲まれ、必死に説明している。
かつて魔力が弱いと嘲笑された彼の暖石は、今や寒波の中で最も頼りにされる道具になっていた。
「その道は駄目だ。昼には通れても、夕方には雪が落ちる。……こっちの炭焼き道を使え。遠回りに見えるが、戻ってこられる道だ」
ガレスは古い地図に赤い線を引きながら、自警団と王都騎士の有志たちへ指示を出している。
臆病者と笑われた男が作る帰還路によって、今日もまた、雪に閉ざされた村へ救援隊が向かう。
「こちらの金流は、王都の監察部へ写しを送っておきますわ。……あら、また黒い商印の残党が顔を出しましたわね。懲りない方々ですこと」
ヴェラが扇子で口元を隠し、艶やかに笑う。
王都で前職を理由に嘲笑されていた彼女は、今や誰よりも鋭く王国の金の流れを見張る番人になっていた。
王都が見なかった人たち。
王都が「役立たず」と呼び、席から追い出した人たち。
その一人一人が、今この部屋で、確かに王国の冬を支えている。
「……アメリア」
隣から呼ばれて、私は振り返った。
レオンが、いつもの銀細工のペンと分厚い台帳を手に、静かに立っていた。
昨夜の『新しい契約』の後でも、彼の表情は相変わらず冷静で、不器用で、少しだけ硬い。
けれど、私を見る瞳の奥には、もう王都の笑い者としての諦めはない。
私の隣に立つことを、自分の意思で選んだ男の、静かな強さがあった。
「各村の配給予定表です。中央倉庫の封鎖が解けたことで、薪と黒パンの追加搬出が可能になりました。ガレス殿の冬道を使えば、三日以内に全村へ最低限の物資を届けられます」
「さすがね。……でも、無理はしていないでしょうね?」
「休息時間も計算に入れています。あなたに叱られる前に」
「よろしい」
私が小さく笑うと、レオンの口元もほんの少しだけ緩んだ。
ほんの少し前まで、私は自分を『代行令嬢』にすぎないと思っていた。
病床の父の委任状だけを頼りに、王都の顔色を窺う代行令嬢。
王都の制度の前では、すぐに足元を掬われる、頼りない代理人。
だが今は違う。
私は、王都が見なかった人たちの価値を見つけ、彼らに席を用意し、彼らと共に王国の冬を越す道を作った。
私はもう、ただ父の名を借りて怯えるだけの娘ではない。
フォルクハルト辺境伯領を守る領主代行として、自分の判断と、自分が選んだ人々の力で、ここに立っている。
「レオン」
「はい」
「まだ寒波は終わっていないわ。王都の監察も、財務院の調査も、これから本格化するでしょう。……でも、もう怖くない」
私は再任用室の中で働く仲間たちを見渡した。
「この席がある限り、私たちは何度でも物資を動かし、人を救える。王都が見なかった人たちの力で、王国の冬を越してみせるわ」
レオンは静かに頷き、私の隣へ並んだ。
「ええ、アメリア。共に動かしましょう」
その一言は、補佐官としての忠誠だけではない。
婚約者として、対等な相棒として、同じ未来を選んだ人の言葉だった。
私は彼と共に、新しい看板の前に立った。
ミラが記録を取り、ヴェラが金流を読み、ニコが暖を作り、ガレスが帰る道を引く。
レオンが数字を整え、私がそのすべてを領主代行として動かす。
それは、誰か一人の奇跡ではない。
王都が切り捨てた人々が、それぞれの席で働いた結果だった。
「さあ、仕事を始めましょう」
私は扉の前で、仲間たちに向けて声をかけた。
「今日も、凍えている誰かのところへ、薪とパンと暖を届けるわよ」
「はい!」
再任用室の中から、いくつもの声が重なった。
大きな声も、小さな声も、低い声も、震える声も。
すべてが、この部屋に必要な声だった。
かつて、王都は彼らを見なかった。
声が小さい者を。
魔力が弱い者を。
帰る道を選んだ者を。
前職を理由に嘲笑された者を。
言葉を持てなかった者を。
けれど私は、彼らを見た。
そして彼らは、自分の席で王国の冬を救った。
再任用室の扉が大きく開かれる。
外ではまだ、白い寒波が吹き荒れている。
けれど、部屋の中には、確かな熱があった。
王都が見なかった人たちが、王国の冬を、今日も少し暖かくしている。




