第63話 選んだ席、選ばれた人
財務院の兵士たちによって無惨に貼り付けられていたバツ印の封印は、すっかり綺麗に剥がれ落ちていた。
広場に出されていた机や棚が、再び館の中へと運び込まれる。
扉が開け放たれた『再任用室』には、凍えつくような緊張感ではなく、確かな熱気を帯びた実務の活気が戻っていた。
「……各村からの受領書、すべて照合終わりました。帳簿との誤差はありません」
ミラが、山積みになった紙の束から顔を上げ、小さく、けれど誇らしげな声で報告する。
「金流の追跡も順調ですわ。王都の監察が入ったことで、あの忌々しい裏経路は大きく塞がれました。これで、冬越し金がまた中抜きされる危険は、ひとまず抑え込めますわね」
ヴェラが扇子をパチンと鳴らし、優雅に笑う。
部屋の隅では、ニコが新しい暖石の配置図を熱心に書き込み、ガレスが次の救援隊が通る冬道の経路を部下たちに指示している。
ただ、部屋が元通りになったわけではない。
彼らが今座っているのは、王都から『不透明な仮部署』と蔑まれた席ではない。
結果で王都の中央命令をねじ伏せ、王国冬越しのための『臨時補佐機関』として、正式な承認を勝ち取った席だ。
王国全体では、まず北方冬越しの臨時補佐機関として。
そしてフォルクハルト領内では、父の追認を受けた正式な部署として。
再任用室は、ようやく二つの足で立ち始めた。
もう誰にも、彼らを「役立たず」と呼んで追い出すことなどできない。
夕刻。
実務が一段落し、皆がそれぞれの休息へと向かった後。
薄暗くなり始めた執務室には、私とレオンの二人だけが残っていた。
机上のランプに火を灯すと、オレンジ色の柔らかな光が、彼の冷たい横顔を照らし出す。
レオンは手元の台帳を閉じ、銀細工のペンを置くと、静かに私の方へと向き直った。
「……アメリア様」
「お疲れ様、レオン。……何か、報告の漏れでもあったかしら?」
私が問いかけると、レオンはゆっくりと首を横に振った。
「いえ。実務の報告ではありません。……私個人の、契約についての話をさせてください」
彼の声は、いつものように冷静だった。
だが、その氷のような瞳の奥に、かつてないほどの熱い光が宿っているのを、私は見逃さなかった。
「私はかつて王都で、自分の言葉を完全に奪われました。婚約破棄という醜聞を利用され、誰も私の言うことなど信じてくれない『笑い者の席』に縛り付けられていた」
レオンは、かつての自分の傷跡を隠すことなく、真っ直ぐに言葉にする。
「そんな私を、あなたが雪の中で見つけ、仕事を見て雇い入れてくれた。……王都が捨てた私の記録と数字を信じ、筆頭補佐官という仕事の『席』を与えてくれた」
「ええ。あなたは、その席の重責を完璧に果たしてくれたわ」
「ですが」
レオンは一歩、私の前へと歩み寄った。
「あの審問室で……あなたが公衆の面前で私の手を取り、自分の隣へと引き寄せてくれた時。私は、ただ与えられた席に座っているだけでは駄目なのだと、はっきりと悟りました」
彼は、真っ直ぐに私の目を見つめた。
それは、台帳の数字を報告する補佐官の顔ではない。
一人の男としての、偽りのない顔だった。
「私はもう、沈黙の裏に逃げ隠れたりはしない。……アメリア様。私は、ただ仕事のために与えられた席ではなく、私自身の確かな意思で……あなたの隣を、選びたいのです」
息を呑むような、静寂。
彼の言葉は、貴族たちが夜会で囁くような甘い愛の囁きではない。
「レオン・クラウゼンという一人の人間として、生涯あなたの隣に立ち、あなたを支え続ける……そんな新しい契約を、私と結んではいただけないでしょうか」
それは、彼らしい、不器用で、けれど何よりも誠実な『婚約の申し出』だった。
私の胸の奥で、熱いものが込み上げてくる。
かつて王都で、すべてを諦めたように無表情だった男が。
今、自らの足で立ち、自らの言葉で、私の隣にいることを強く望んでくれている。
私は、彼の言葉にただ頷いてすがるような、受け身の令嬢ではない。
私は彼から目を逸らさず、一歩だけ距離を詰め、彼の冷たい手を私の両手で包み込んだ。
「……私があなたを雪道で見つけた時、最初に見たのは、あなたの肩書きではなかったわ」
「はい」
「私はあなたを拾ったんじゃない。あなたの仕事を見て、あなたの価値を知って、私が選んだのよ。最初は、ただの雇用契約だった。領地のための、実務的な理由でしかなかったわ」
私は、彼の手に自分の体温を伝えるように、強く握り返した。
「でも今は、違う」
彼が微かに目を見開く。
「領地のためとか、計算が正確だからとか、そんな理由だけじゃない。……あなたが不器用でも決して逃げない誠実な人だと知ったから。あなたが私を支えてくれるように、私もあなたを支えたいと思ったから」
私は、彼に向けて、心からの微笑みを浮かべた。
「私も、あなたを選ぶわ、レオン。……私の隣に立ち、共に歩んでいくただ一人の人間として」
私の返答に、レオンの表情がわずかに崩れた。
氷のような冷たさが溶け、彼自身の心からの安堵と喜びに満ちた、不器用な笑顔がそこに現れた。
「……光栄です、アメリア様」
「もう、アメリアでいいわ。これは領主代行と補佐官の契約ではなく……私たち自身の、新しい契約なのだから」
彼は私の手を優しく握り返し、深く、誓いのように頷いた。
正式な婚約書は、父の体調が落ち着いてから整えることになるだろう。
家同士の手続きも、貴族として必要な段取りも、まだこれからだ。
けれど、この夜、私たちは互いの意思で、隣に立つことを選んだ。
翌朝。
領主の館の前に、大工の手による新しい木彫りの看板が届けられた。
『フォルクハルト辺境領・再任用室』
ただの仮の部署ではない。
王都の正式な承認印が隅に小さく刻まれた、北方冬越しの臨時補佐機関としての証。
そして、フォルクハルト領内では父の追認を受けた、正式な実務部署としての証。
私たちは、この真新しい看板を、再び開かれた扉の横へ誇らしく掲げるための準備を始めた。
王国の長い冬を越すための、最後の実務に向かうために。




