第62話 王国冬越しの反証
フォルクハルト辺境伯領の館、大広間。
貴族院から遣わされた特命監察役を上座に据え、王国の冬越しの命運を決する臨時評議が幕を開けた。
広間の片側には、私とレオン、そして再任用室の面々。
対するもう一方には、王都審問の後、寒波対策の視察という名目で北方方面の財務院支所に入っていた財務院長、バルツァーの姿があった。
彼は監察官派遣の報告を受け、数日前から北方に滞在していたのだ。
「……王国の秩序を守るためには、冬越し物資の中央管理こそが唯一の正解である」
バルツァーは一切感情を乱すことなく、冷徹な声でそう主張した。
彼の従者が、分厚い『中央命令の帳簿』を広間の長机に広げる。
「ご覧いただきたい。財務院の指示のもと、物資は速やかに中央指定の倉庫へと集約された。各村への配分量も計算され、帳簿上にはすでに『配布済み』の印章が押されている。手続きは完璧に機能しているのだ」
バルツァーの言葉は、氷のように滑らかで淀みがない。
「現在生じている現場の多少の遅れは、辺境の代行令嬢が国法を乱し、勝手な差配を行ったことによる混乱にすぎない。……不透明な仮部署を解体し、すべてを財務院の管理下に戻すこと。それこそが、この寒波を乗り切る唯一の道だ」
彼は、私たちを感情的に罵倒したりはしない。
ただ、王都が作り上げた「制度」と「命令」という絶対の武器を使って、私たちを理路整然と押し潰そうとしている。
「……手続きは完璧、ですか」
その整然とした虚構の壁に、レオンが静かに歩み寄り、冷ややかな声を響かせた。
「では、その完璧な手続きが残した『結果』を確認しましょう」
レオンは、バルツァーが提示した財務院の帳簿を銀細工のペンで指し示した。
「確かに、この帳簿には配布済みの印があり、物資は王都の命令通りに倉庫へと集められています。……だが、王都からの印章と許可を待つ間に倉庫の扉は凍りつき、現場の村には一本の薪も、一欠片のパンも届いていない」
「それは一時的な滞りにすぎん」
「一時的、ではありません。それが命を奪うのです」
レオンが振り返ると、ミラが抱えきれないほどの記録の束を、長机の上にどさりと置いた。
「こちらが、我々再任用室が広場の机で動かした『実績』です」
レオンの合図で、ミラが震えない、はっきりとした声で記録を読み上げる。
「東の村へ、黒パン四百個と暖石三百個が到着。……受け取りの確認として、村長と世帯主全員の署名があります。ガレス殿が山裏の獣道を開拓し、ニコ殿が職人組合と連携して氷点下でも機能する暖房具を調整した記録……そのすべてに、関わった職人と運搬役の署名と日付が残されています」
二つの帳簿が、長机の上に並べられた。
片方は、手続きは整っているが、現場には何も届いていない『中央命令の帳簿』。
もう片方は、どの村に何が届き、誰が受け取り、どの道を通ったのかがすべて具体物と現場の署名で示された『再任用室の実績』。
バルツァーの怜悧な眉が、ここで初めて微かにピクリと動いた。
「……それは、正規の手続きを経ていない。いくら小手先の成果を並べようと、法を無視した暴挙であることに変わりはない」
「いいえ、バルツァー院長」
私は一歩踏み出し、王都の闇を束ねる男の目を、真っ直ぐに射抜いた。
「あなたの言う『正規の手続き』が、凍える領民を一人でも温めたでしょうか? 紙の上でどれだけ美しい数字を並べても、現実の物資は一つも動かなかったわ」
ヴェラが静かに、金流表を差し出した。
そこには、中央倉庫へ集められた物資の一部が、かつて北方七領の冬越し金を吸い上げた『北七号』と同じ経路へ流れかけていた痕跡が残っていた。
「その上、動かなかった物資の一部は、またしても裏の経路へ消えかけていた。……あなたの命令は、領民を温めるどころか、寒波を利用して物資を止める口実になっていたのよ」
バルツァーの顔から、少しずつ余裕の色が剥がれ落ちていく。
「あなたの負けは、日付の矛盾でも、契約の不備でも、席順の罠でもないわ」
私は、私たちが血と汗で積み上げた現場の記録の束を、彼に突きつけた。
「……あなたの敗北の理由は、ただ一つ。あなたの命令では領民を救えなかったという、その『結果』よ」
沈黙が、大広間を支配した。
バルツァーは一瞬だけ口を開きかけ、すぐに閉じた。
反論できないからではない。
反論すればするほど、二つの帳簿の差が大広間に刻まれると悟ったからだ。
制度と命令を完璧に使いこなしてきた男は、初めて、現場で積み上げられた『結果』という刃を前に、沈黙を選ばざるを得なかった。
双方の記録を無言で精査していた特命監察役が、やがてゆっくりと顔を上げた。
「……結果は、火を見るより明らかだな」
特命監察役の厳格な声が、最終的な裁定を告げる。
「バルツァー院長の寒波対策における緊急差配権を、直ちに停止する。さらに、一連の配給の滞りと物資の不自然な流れについて、財務院中枢への正式調査を開始する」
その場にいた財務院の従者たちが、青ざめた。
だが、特命監察役の言葉はまだ終わらなかった。
「バルツァー院長。貴殿が所持する財務院の緊急差配印は、調査が終わるまで貴族院が預かる」
「……」
バルツァーの指先が、懐にある印章入れの上で、ほんの一瞬だけ止まった。
王国の物資を動かすための印が、初めて彼の手から離れる。
それは逮捕ではない。
だが、彼の権力の中枢を奪う、誰の目にも明らかな敗北の絵だった。
バルツァーは無言のまま印章入れを取り出し、特命監察役の従者へ手渡した。
その所作は最後まで乱れなかったが、広間にいる誰もが理解していた。
財務院長の絶対的な差配は、ここで止められたのだ。
「そして、アメリア・フォルクハルト代行殿。……貴殿が設立した再任用室への業務停止命令を無効化する。加えて、同部署を北方冬越しの『臨時補佐機関』として、王都より正式に承認しよう」
広間に、安堵の吐息が広がった。
国王代理が突然助けに来てくれたわけではない。
王都の偉い人が気まぐれで許してくれたわけでもない。
王都に見捨てられた私たちが、己の席で積み上げた『記録と成果』が、重く冷たい中央の扉を、実力でこじ開けたのだ。
評議が終わり、数時間後。
領主の館の奥、薄暗い廊下で、財務院の兵士たちが無言のまま作業を進めていた。
「……剥がれました」
彼らの手によって、私たちの居場所である再任用室の扉から、あの忌まわしいバツ印の封印が、音を立てて引き剥がされていく。
閉ざされていた重い扉がゆっくりと開き、私たちはついに、自分たちの『席』を取り戻したのだった。




