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第5話 臨時補佐官の机と、置かれた暖石

「……これは、どういうことでしょうか」


 私の執務室のすぐ隣。


 新しく片付けられた小部屋に案内されたレオンは、立ち尽くしたまま呆然と呟いた。


 彼の視線の先には、使い込まれた頑丈なオーク材の机と椅子。


 そして、これから彼が読み解くべき、各村の備蓄と流通を示す新しい台帳の束が高く積まれている。


「どういうことって、あなたの仕事場よ」


 私が事もなげに答えると、彼は僅かに眉をひそめた。


「私は、王都で婚約破棄され、家からも切り捨てられた人間です。極寒の辺境へ送られたのは、事実上の流刑であり、罰のようなものだと理解していました。それなのに、このような……立派な席を与えられる意味がわかりません」


 彼は自分の置かれた状況を、ひどく客観的に、冷たく分析していた。


 王都での彼は、きっと針のむしろに座らされていたのだろう。


「勘違いしないでちょうだい」


 私は彼の言葉を切り捨てるように言った。


「私は道端で哀れな男を『拾って』、同情で席を与えたわけじゃないわ。あなたは三十七袋の小麦を見つけ出し、私にあなたの価値を証明した。だから私は、あなたのその計算能力と『契約』したのよ」


 同情ではなく、契約。


 その言葉を聞いて、レオンは微かに目を見開いた。


「罰としてここにいる暇はないわ。吹雪が来る前に、あの台帳の数字をすべて頭に入れてもらう。できるわね?」


「……はい。直ちに」


 レオンは深く一礼し、すぐさま机へ向かった。


 余計な卑下も、無駄な感傷もない。


 椅子に座り、台帳を開いた瞬間に、彼の纏う空気が再び『仕事人』のそれに切り替わった。



 それから数日後の、夜のことだった。


「ふう……」


 私は執務室で、一人ペンを走らせていた。


 深夜の辺境伯邸は、石造り特有の底冷えがする。


 厚手のウール製のショールを肩から羽織り、かじかむ指先に息を吹きかけながら、各村からの緊急要望書に目を通していた。


 コンコン、と控えめなノックの音が響いた。


「入って」


 現れたのは、隣の部屋で同じように徹夜仕事をしていたはずのレオンだった。


 彼は無言のまま私の机に近づき、視界の端にコトン、と何かを置いた。


 布に包まれた、手のひらサイズの『暖石』。


 それから、保存の利く硬い『黒パン』と、一枚の小さな書付だった。


「これ、は……?」


「備蓄室の温度管理に用いた暖石の、余りです」


 レオンは表情一つ変えずに言った。


「廃棄するには魔力が残っていたので、お持ちしました。それから……」


「それから?」


「空腹状態での深夜の執務は、計算精度を平均して二割低下させるという記録があります。業務効率の観点から、糖分と炭水化物の摂取を強く推奨します」


 淡々と、まるで業務報告書を読み上げるかのような口調だった。


「……業務効率、ね」


 私は置かれた書付に目を落とした。


 そこには彼が言った通りの、事務的で固い文章が几帳面な字で並んでいる。


『心配です』という甘い言葉は、どこにも書かれていない。


 けれど、暖石は私が冷えやすい指先を温めるのにちょうどいいサイズだったし、黒パンには丁寧に、食べやすいよう薄く蜂蜜が塗られていた。


 愛想のない、ひどく遠回しで不器用な言い訳。


 婚約者を泣かせた男は、人を喜ばせる言葉の選び方を、本当に一つも知らないのだ。


「……ふふっ」


 私は思わず、小さく吹き出してしまった。


「アメリア様?」


「いいえ、なんでもないわ。ありがとう、レオン。あなたの推奨通り、業務効率のためにありがたく使わせてもらうわね」


 私が暖石を両手で包み込むと、彼は「では、失礼します」と短く告げ、逃げるように隣の部屋へと戻っていった。


 冷え切っていた指先から、じんわりと確かな熱が伝わってくる。


 彼が不器用な理由をつけて置いていったその温度は、不思議なほど私の心を落ち着かせてくれた。



 ***



 同時刻。


 遠く離れた王都の、豪奢な装飾が施された財務院の一室。


 分厚い絨毯の上で、一人の下級官吏が滝のような冷や汗を流しながら、上役の前に平伏していた。


「……申し訳ありません。クラウゼン侯爵家から追放されたレオンの行方を追っていましたが、どうやらフォルクハルト辺境伯領に流れ着き、あちらの令嬢に拾われたようでして……」


 窓際で葉巻を燻らせていた男が、苛立たしげに舌打ちをした。


「辺境伯に拾われただと? 忌々しい。あの男、まだ『古い台帳の写し』を持ったままか」


「は、はい。追放の際、あれだけは手放さなかったと」


 上役の男は葉巻の灰を乱暴に振り落とした。


「あの無能な男が何をわめこうが、誰も信じやしない。社交界での信用は完全に地に落ちているからな」


 男はそこで言葉を切り、窓の外に広がる王都の灯りを眺めた。


「だが、紙は余計だ」


「紙、でございますか」


「人の口は潰せる。評判も壊せる。泣かせた令嬢の証言があれば、社交界の空気などいくらでも塗り替えられる」


 男の声が、わずかに低くなる。


「だが、数字というものは、時に死人よりしつこい」


 下級官吏は、その言葉の意味を理解しきれないまま、床に額を擦りつけた。


「で、では……いかがいたしましょう」


「急ぎ巡察使を辺境へ差し向けろ。名目は冬の備蓄確認でいい」


 男は、氷のように冷たい目で部下を見下ろした。


「まずは蔵と工房を揺さぶらせろ。備蓄と、あちらで作っているという小型暖房具の状況を確認させる」


「台帳の方は……?」


「台帳そのものは、正式な調査団を出して回収する。巡察使ごときに任せて、余計な騒ぎを起こされては困る」


「はっ」


「奴の口ではなく、紙を奪え。理由は聞くな」


 王都の夜に、低く冷たい命令が落ちた。

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