第4話 古い砦倉庫の扉
容赦なく吹き付ける雪の中を、馬車は一時間ほどかけて北へ進んだ。
到着したのは、三年前の土砂崩れで放棄された旧トール村の外れだ。
分厚い石積みの壁に囲まれたその建物は、かつて魔物避けの防衛拠点として使われていた『古い砦倉庫』だった。
建物の周囲には誰の足跡もなく、屋根にはこんもりと雪が積もっている。
長い間放置されていた証拠に、頑丈なオーク材の扉は蝶番のあたりまですっかり氷に覆われていた。
「錆びついていて、鍵が回りません」
先行した護衛の騎士が、手元のランタンを掲げながら報告してくる。
「壊してちょうだい」
私が命じると、騎士たちは斧を使って凍りついた南京錠を打ち砕いた。
ギギギ……と、凍てついた蝶番が悲鳴を上げるような音を立て、重い扉がゆっくりと内側へ開く。
カビと埃、そしてひんやりとした古い石の匂いが、鼻をついた。
薄暗い倉庫の中へ、ランタンの灯りが差し込む。
私は息を呑んだ。
「……あるわ」
光の届く先。
石造りの冷たい床の上に、麻袋が山のように積まれていた。
埃をかぶってはいるが、袋に破れはない。
ネズミに齧られた形跡も見当たらなかった。
石壁と極寒の気温が、天然の冷蔵庫のような役割を果たしていたのだろう。
私の隣を、レオンが静かに通り抜けた。
彼は山積みにされた麻袋の前にしゃがみ込むと、無言のまま指差し確認を始める。
一つ、二つ、三つ。
その横顔には一切の感情が浮かんでいない。
ただひたすらに、目の前にある事実だけをカウントしていく。
「……三十五、三十六、三十七」
最後の袋を数え終え、レオンは懐から取り出した小さなナイフで、麻袋の端を少しだけ切り裂いた。
手のひらに、サラサラとした薄茶色の粉がこぼれ落ちる。
「湿気も虫食いもありません。良質な小麦です」
レオンは手のひらの粉を払うと、立ち上がって私を見た。
その声は相変わらず平坦で、得意げな響きは微塵もなかった。
「帳簿の記録通り、三十七袋。過不足はありません」
倉庫の中に、ふうっ、と深い安堵の溜息が広がった。
オルドも、護衛の騎士たちも、肩の力を抜いて麻袋の山を見つめている。
三十七袋の小麦。
それは、谷間の村が一つの冬を無事に越すための、命の重さだった。
「お見事ですな」
オルドが、誰にともなく呟いた。
「何十人もの役人が目を通し、誰も見つけられなかったものを、たった一晩の計算で掘り当てるとは」
彼らの視線が、一斉にレオンへ集まる。
そこにあるのは、王都の笑い者に対する嘲笑ではない。
崇拝や熱狂でもない。
ただ、確かな仕事の成果に対する、純粋な驚きと敬意だった。
この男は、本物だ。
役に立つ。
そんな実務的な評価が、冷たい倉庫の空気を確かに変えていくのを感じた。
「オルド。すぐに荷馬車を手配して。吹雪が来る前に、この小麦を谷間の村へ運ぶわ」
「かしこまりました、アメリア様」
「それから、レオン・クラウゼン」
振り返った彼に向かって、私はコートの内側から一通の折り畳まれた羊皮紙を取り出した。
それは、病床の父から正式に預かっている、領主代行権限の委任状だった。
冬季備蓄、緊急救援、人員雇用。
領民の生命に関わる差配について、私に辺境伯代理としての判断権を認めるもの。
下部には父の署名と、フォルクハルト辺境伯家の印章が押されている。
白紙の命令書ではない。
私がこの場で何を決められて、何を屋敷へ戻って正式な手続きにかけるべきかを、はっきり定めた委任状だ。
「あなたの計算は正確だった。あなたは言葉で人を飾ることはできなくても、数字で人を救うことができる」
私は委任状をオルドと護衛たちにも見えるように掲げ、レオンに向かってまっすぐに告げた。
「領主代行として、あなたをフォルクハルト辺境伯領の『臨時補佐官』として仮雇用します」
レオンの目が、わずかに見開かれる。
「正式な契約書は、屋敷へ戻ってから作成するわ。職務範囲、報酬、期間、守秘義務、台帳閲覧の権限。すべて明記して、双方の署名と押印をもって成立させます」
それは、救済でも同情でもない。
対等な人間同士の、明確な契約の予告だった。
「今この場で命じるのは、緊急救援のための仮任命よ。あなたには、発見された小麦三十七袋の確認と、谷間の村への搬送計画の補佐を任せます」
レオンは少しだけ目を丸くし、それから、深々と頭を下げた。
「……謹んで、お受けいたします」
それ以上の無駄な感謝の言葉は、彼には必要なかった。
屋敷へ戻った後。
私の執務室で、雇用契約の定型書式が二通用意された。
職務名は、フォルクハルト辺境伯領・臨時補佐官。
契約期間は、当面の冬季危機が収束するまで。
職務範囲は、備蓄台帳の精査、物資配分の補佐、緊急救援時の記録管理。
報酬は、同等職の基準に従って支払う。
台帳閲覧権限と守秘義務も、条項として明記した。
オルドが証人として立ち会い、私は携帯用の辺境伯家印章で契約書に押印した。
レオンもまた、震えの残る指で自分の名を署名する。
契約書は二通。
一通は辺境伯家が保管し、もう一通はレオン本人へ渡された。
「これで、あなたは客人でも拾われた哀れな男でもないわ」
私は契約書を乾かしながら、静かに告げた。
「フォルクハルト辺境伯領の、正式な臨時補佐官よ」
「……承知しました」
レオンは契約書を両手で受け取り、深く頭を下げた。
その後、私の執務室のすぐ隣の小部屋が片付けられ、レオンのためのスペースが用意された。
運び込まれたのは、使い込まれた頑丈なオーク材の机と、椅子。
そして、彼が読み解くべき新しい台帳とインク瓶だ。
それは、王都で婚約破棄され、家を追われ、社交界の笑い者としてすべてを失った男が。
この雪深い辺境の地で、初めて手に入れた自分の「席」だった。




