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第3話 小麦三十七袋

翌朝、私がオルドを伴って再び客室の扉を開けると、部屋の中にはツンとしたインクの匂いが漂っていた。


「……一睡もしていないの?」


 思わずこぼした私の声に、窓際のデスクに向かっていた背中がぴたりと止まった。


 サイドテーブルに置かれた燭台は、すっかり蝋が溶け落ちている。

 レオンは傷が癒えきっていない体にもかかわらず、私が渡した紙とペンを使い、徹夜で二つの台帳を読み比べていたようだった。


「申し訳ありません。没頭してしまい、気づけば夜が明けていました」


 レオンが立ち上がり、静かに頭を下げる。

 その顔には明らかな疲労の色が浮かんでいたが、瞳の奥にある理性の光は昨日よりもずっと鋭さを増していた。


「謝る必要はないわ。それよりも、何か見つかった?」


 私が尋ねると、彼は手元の書き損じの紙を数枚束ね、私の方へ差し出した。


「はい。致命的な不一致が一つ」


 レオンの言葉は、氷のように冷たく、そして正確だった。


「記録上、小麦三十七袋が消えています」

「三十七袋ですと!?」


 私の隣で、オルドが血相を変えて声を荒らげた。


「それは見過ごせません。どこかの村の庄屋か、あるいは輸送を請け負った商人の横領ですか!」


 辺境の厳しい冬において、小麦三十七袋の損失は、そのまま一つの小さな村が飢えることを意味する。家令であるオルドが顔色を変えるのも当然だった。


 だが、レオンは淡々と首を横に振った。


「いいえ。盗まれたわけではありません。これはただの転記ミスです」

「ミス……?」

「はい。現在の台帳では、この三十七袋は『消失』または『消費済み』として処理されていますが、古い青印の控えを見ると、本来の輸送先は『旧トール村の第三倉庫』となっています」


 旧トール村。

 その名を聞いて、私はハッとした。


「トール村は三年前の土砂崩れで放棄されて、今はもう誰も住んでいないわ。生存者は隣の谷間の村に移住したはずよ」

「その通りです」


 レオンは手元の紙に書き出した数字と地名を、指先でトントンと叩いた。


「おそらく、三年前の村の合併と倉庫の統廃合の際、書類の引き継ぎが上手くいかなかったのでしょう。古い村の名称と、使われなくなった倉庫番号が混同され、新しい台帳を作成する過程で『行き場のない小麦』として帳簿の隙間に落ちてしまった」


 レオンの説明は、感情を一切交えない、極めて事務的なものだった。


「誰も悪意を持って盗んではいない。ただ、記録上で消えているだけです。現物は、今もどこかの倉庫で眠っているはずです」


 簡潔で、無駄のない報告。

 私は手渡された紙の束を見つめ、思わず小さく息を吐いた。


 たった一晩だ。

 何人もの役人が目を通し、誰も気づかなかった膨大な数字の羅列の中から、彼は見事に領民を救うための『三十七袋』を見つけ出した。


 私は改めて、目の前に立つ不器用な男を見上げた。


 なるほど、確かにこの男は、婚約者を泣かせたのだろう。

 不安に怯える女性に対して、安心させるような甘い嘘や、優しい慰めの言葉は、ただの一つもかけられなかったに違いない。

 人の感情の機微を読み取るには、彼はあまりにも事実と数字に誠実すぎた。


 けれど。


「……素晴らしいわ」


 私が呟くと、レオンは意外そうな顔でわずかに目を瞬かせた。


「あの分厚い台帳から、一晩でこれを見つけ出すなんて。あなたは、有能ね」


 人を喜ばせる言葉は、下手かもしれない。

 甘い恋を語ることは、できないかもしれない。


 だがこの男は、飢える人数と小麦の袋数を誰よりも正確に数えることができる。

 人が生きていく上で本当に必要な『事実』を、決して見落とさない。


 領主代行である私にとって、それ以上に美しく、頼もしい能力など存在しなかった。


「アメリア様」


 オルドが、少しだけ声を潜めて私を呼んだ。

 その目には、昨日までの「無能な男に対する侮蔑」は消え去り、確かな「仕事人に対する驚愕」が浮かんでいた。


「彼の計算が正しいとすれば、その小麦三十七袋は今、どこにあるのでしょうか」

「決まっているわ」


 私はレオンの書き出した覚書をしっかりと握りしめ、力強く答えた。


「旧トール村の第三倉庫……今は誰も使っていない、『古い砦倉庫』よ」


 もしそこに、本当に三十七袋の小麦が眠っているのだとしたら。

 吹雪が来る前にそれを運び出すことができれば、谷間の村は今年の冬を越すことができる。


「オルド、すぐに馬車と護衛の手配を! 古い砦倉庫へ向かうわ」

「かしこまりました!」


 私は身を翻し、急いで部屋を出ようとして――ふと足を止め、振り返った。


「レオン・クラウゼン」


 名前を呼ばれた彼は、静かに背筋を伸ばして私を見た。


「あなたも来なさい。自分の計算が正しかったかどうか、その目で確かめるべきよ」

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