第2話 目だけは死んでいなかった
翌朝。
雪に閉ざされたフォルクハルト辺境伯邸は、いつもより微かに重い空気に包まれていた。
「お嬢様、彼が目を覚ましたようです。熱も下がりつつあると、医師から報告がありました」
客室の扉の前で、家令のオルドが小声で私に告げた。
その顔には、昨日からの強い警戒心がまだ色濃く残っている。
「そう。よかったわ」
「……お耳に入れておきたいことがございます。昨晩、王都の知人を通じ、彼の引き起こしたという『婚約破棄騒動』の詳細を調べさせました」
オルドは手元の覚書に視線を落とし、顔をしかめた。
「浮気や暴力、金銭の横領といった事実はありませんでした。ただ……彼は元婚約者の令嬢に対し、ひどく冷淡だったそうです」
「冷淡?」
「ええ。令嬢が寂しさを訴えて涙を流しても、彼は慰めの言葉一つかけず、ただ沈黙を貫いたと。その冷血さこそが、夜会で糾弾され、家からも切り捨てられた最大の理由とのことです」
なるほど、と私は小さく息を吐いた。
確かに、人を愛玩動物や所有物のように扱う貴族は少なくない。心が通い合わない婚約など珍しくもないが、大勢の前で断罪されるほどとなれば、よほど周囲の反感を買う態度だったのだろう。
「お嬢様、やはりあのような得体の知れない男を屋敷に置くのは……」
「オルド。私が確かめたいのは、彼が恋人に甘い言葉を囁けるかどうかじゃないわ」
私は家令の言葉を遮り、客室の重い木の扉を開けた。
部屋の空気は、暖炉の火で十分に温められていた。
天蓋のない簡素なベッドの上で、レオン・クラウゼンがゆっくりと身を起こすところだった。
「……ここは」
ひどく嗄れた声だった。
私がベッドに近づくと、彼は無表情のまま私を見上げた。
「フォルクハルト辺境伯邸よ。雪道で倒れていたあなたを運んだの」
私が告げると、彼は一つ瞬きをして、静かに頭を下げた。
「……助けていただき、感謝いたします」
口調は丁寧で、淀みがない。
だが、その声には一切の抑揚がなかった。感情がすっぽりと抜け落ちているような、ひどく虚ろな響きだった。
彼を看病していた部屋の隅のメイドたちが、びくりと肩を震わせて身を竦めている。
無理もない。「冷血で無能な男」という噂は、使用人たちの間にもすでに回っている。加えてこの愛想のなさだ。
だが、私の興味を引いたのは、彼の態度ではなかった。
レオンは自分の体の状態を尋ねるでもなく、この後の処遇に怯えるでもなく、ただ真っ先に、自分の胸元へ手を伸ばしたのだ。
包帯の巻かれた指が、空を掴む。
「探しているのは、これかしら」
私がサイドテーブルから持ち上げたものを見て、彼の手がぴたりと止まった。
雪で濡れないよう彼が必死に抱え込んでいた、青い保管印の押された紙束。
暖炉のそばで丁寧に乾かした、古い備蓄台帳の写しだ。
「……はい」
「命より先にこれを守っていたわね。どうして?」
問いかけても、彼は答えなかった。
ただ、台帳が無事であることを確認し、微かに肩の力を抜いただけだ。
無口で、愛想もなく、ひどく不器用。
確かに、これでは婚約者を泣かせたと言われても仕方がないかもしれない。人の心に寄り添うことなど、到底できそうにない男だ。
けれど、私は彼を慰めるためにここに運んだわけではない。
「勘違いしないでちょうだい。私はあなたを、可哀想に思って屋敷へ入れたわけじゃないわ」
私はメイドに顎で合図をした。
メイドが怯えながらも、一冊の分厚い革張りの本を運んでくる。
どさりと、少し乱暴に、それをレオンのベッドの上に置いた。
「これは……?」
「現在の、フォルクハルト辺境領の備蓄台帳よ」
レオンの視線が、古い写しから、目の前に置かれた新しい台帳へと移った。
「あなたを雇えるかどうか、確かめるために運んだの」
私は腕を組み、まっすぐに彼を見下ろした。
「あなたが命懸けで守った紙束がただのゴミなのか、それとも意味があるものなのか。……あなたの口ではなく、仕事で証明してみて」
挑発とも取れる私の言葉に、オルドが息を呑む気配がした。
だが、レオンは言い返すことも、戸惑うこともなかった。
彼は黙ったまま、包帯の巻かれた痛々しい手で、分厚い台帳の表紙に触れた。
パラリ、と最初のページがめくられる。
その瞬間だった。
虚ろで、死んだようだった彼の目に、明確な光が宿った。
それは、怒りでも悲しみでもない。
活字を追い、数字の列を正確になぞり、事実だけを掬い上げようとする、極めて鋭い仕事人の目だった。
彼は無能ではない。
あの目は、何かを見落とす人間の目ではない。
レオンは数ページを無言でめくった後、ゆっくりと顔を上げた。
先ほどまでの虚無感は、もうどこにもない。
「……紙と、ペンをいただけますか」
愛を囁く言葉は知らなくても。
彼はただ静かに、事実を記すための道具を求めた。




