表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/27

第2話 目だけは死んでいなかった

翌朝。

 雪に閉ざされたフォルクハルト辺境伯邸は、いつもより微かに重い空気に包まれていた。


「お嬢様、彼が目を覚ましたようです。熱も下がりつつあると、医師から報告がありました」


 客室の扉の前で、家令のオルドが小声で私に告げた。

 その顔には、昨日からの強い警戒心がまだ色濃く残っている。


「そう。よかったわ」

「……お耳に入れておきたいことがございます。昨晩、王都の知人を通じ、彼の引き起こしたという『婚約破棄騒動』の詳細を調べさせました」


 オルドは手元の覚書に視線を落とし、顔をしかめた。


「浮気や暴力、金銭の横領といった事実はありませんでした。ただ……彼は元婚約者の令嬢に対し、ひどく冷淡だったそうです」

「冷淡?」

「ええ。令嬢が寂しさを訴えて涙を流しても、彼は慰めの言葉一つかけず、ただ沈黙を貫いたと。その冷血さこそが、夜会で糾弾され、家からも切り捨てられた最大の理由とのことです」


 なるほど、と私は小さく息を吐いた。

 確かに、人を愛玩動物や所有物のように扱う貴族は少なくない。心が通い合わない婚約など珍しくもないが、大勢の前で断罪されるほどとなれば、よほど周囲の反感を買う態度だったのだろう。


「お嬢様、やはりあのような得体の知れない男を屋敷に置くのは……」

「オルド。私が確かめたいのは、彼が恋人に甘い言葉を囁けるかどうかじゃないわ」


 私は家令の言葉を遮り、客室の重い木の扉を開けた。


 部屋の空気は、暖炉の火で十分に温められていた。

 天蓋のない簡素なベッドの上で、レオン・クラウゼンがゆっくりと身を起こすところだった。


「……ここは」


 ひどく嗄れた声だった。

 私がベッドに近づくと、彼は無表情のまま私を見上げた。


「フォルクハルト辺境伯邸よ。雪道で倒れていたあなたを運んだの」


 私が告げると、彼は一つ瞬きをして、静かに頭を下げた。


「……助けていただき、感謝いたします」


 口調は丁寧で、淀みがない。

 だが、その声には一切の抑揚がなかった。感情がすっぽりと抜け落ちているような、ひどく虚ろな響きだった。


 彼を看病していた部屋の隅のメイドたちが、びくりと肩を震わせて身を竦めている。

 無理もない。「冷血で無能な男」という噂は、使用人たちの間にもすでに回っている。加えてこの愛想のなさだ。


 だが、私の興味を引いたのは、彼の態度ではなかった。

 レオンは自分の体の状態を尋ねるでもなく、この後の処遇に怯えるでもなく、ただ真っ先に、自分の胸元へ手を伸ばしたのだ。


 包帯の巻かれた指が、空を掴む。


「探しているのは、これかしら」


 私がサイドテーブルから持ち上げたものを見て、彼の手がぴたりと止まった。


 雪で濡れないよう彼が必死に抱え込んでいた、青い保管印の押された紙束。

 暖炉のそばで丁寧に乾かした、古い備蓄台帳の写しだ。


「……はい」

「命より先にこれを守っていたわね。どうして?」


 問いかけても、彼は答えなかった。

 ただ、台帳が無事であることを確認し、微かに肩の力を抜いただけだ。


 無口で、愛想もなく、ひどく不器用。

 確かに、これでは婚約者を泣かせたと言われても仕方がないかもしれない。人の心に寄り添うことなど、到底できそうにない男だ。


 けれど、私は彼を慰めるためにここに運んだわけではない。


「勘違いしないでちょうだい。私はあなたを、可哀想に思って屋敷へ入れたわけじゃないわ」


 私はメイドに顎で合図をした。

 メイドが怯えながらも、一冊の分厚い革張りの本を運んでくる。


 どさりと、少し乱暴に、それをレオンのベッドの上に置いた。


「これは……?」

「現在の、フォルクハルト辺境領の備蓄台帳よ」


 レオンの視線が、古い写しから、目の前に置かれた新しい台帳へと移った。


「あなたを雇えるかどうか、確かめるために運んだの」


 私は腕を組み、まっすぐに彼を見下ろした。


「あなたが命懸けで守った紙束がただのゴミなのか、それとも意味があるものなのか。……あなたの口ではなく、仕事で証明してみて」


 挑発とも取れる私の言葉に、オルドが息を呑む気配がした。


 だが、レオンは言い返すことも、戸惑うこともなかった。

 彼は黙ったまま、包帯の巻かれた痛々しい手で、分厚い台帳の表紙に触れた。


 パラリ、と最初のページがめくられる。


 その瞬間だった。


 虚ろで、死んだようだった彼の目に、明確な光が宿った。

 それは、怒りでも悲しみでもない。

 活字を追い、数字の列を正確になぞり、事実だけを掬い上げようとする、極めて鋭い仕事人の目だった。


 彼は無能ではない。

 あの目は、何かを見落とす人間の目ではない。


 レオンは数ページを無言でめくった後、ゆっくりと顔を上げた。

 先ほどまでの虚無感は、もうどこにもない。


「……紙と、ペンをいただけますか」


 愛を囁く言葉は知らなくても。

 彼はただ静かに、事実を記すための道具を求めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ