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第1話 雪の中、彼が抱えていたのは台帳だった

雪の中に、男が倒れていた。


 数歩先の雪だまり。

 そこに、黒い塊のようなものがうずくまっている。


 上等な仕立てだが、所々が破れ、泥と雪にまみれたコート。

 微かに上下する背中を見て、生きていることだけはわかった。


「おい、しっかりしろ!」


 駆け寄った護衛の騎士が、倒れた人物の肩を揺さぶる。

 仰向けにされたのは、若い男だった。


 唇は紫に染まり、長い前髪には霜が降りている。


 だが、私の目を引いたのは、彼の整った顔立ちでも、死に直面した哀れな姿でもなかった。


 彼の両腕だ。


 男は凍えきった腕を胸の前で固く交差させ、コートの裏に何かを必死に抱え込んでいた。

 意識を失っているというのに、その指先は白骨のように力強く、何かを死守している。


「何を抱えているの……?」


 私は思わず雪の上に膝をつき、彼の腕にそっと触れた。


 金目のものだろうか。

 それとも、未練を残した女からの恋文か。


 彼が命よりも優先して守ろうとしているもの。


 凍りついたコートの隙間から見えたそれは――濡れた紙束だった。


「これは……」


 私は息を呑んだ。


 覗き見えた一番上の紙片。

 そこに並ぶ、無機質な数字の羅列。


 そして何よりも、ページの隅に押された見覚えのある『青い保管印』。


 間違いない。


 それは、フォルクハルト辺境領の、古い備蓄台帳の写しだった。


 なぜ、こんな見ず知らずの男が、うちの領地の備蓄記録を持っているの?


 しかも、命に代えてまで守るように。


 フォルクハルト辺境領の冬は、容赦というものを知らない。


 空は重い鉛色に沈み、吹き付ける風はナイフのように頬を切り裂く。

 馬車の窓から見えるのは、どこまでも続く白と灰色の世界だけだった。


 父である辺境伯が病に倒れてから、私は領主代行としてこの広大な土地の差配を任されている。


 本格的な吹雪の季節が来る前に、各村の備蓄状況を確認して回るのが、ここ数日の私の仕事だった。


 薪は足りるか。

 小麦は十分か。

 薬草の在庫は。


 頭の中は常に数字と計算で埋め尽くされている。


 領民を一人も飢えさせず、凍えさせない。

 それが、代行である私に課せられた重すぎる責務だった。


 その帰り道。


「お嬢様、冷えますな。膝掛けをもう一枚いかがですか」


 向かいの席に座る家令のオルドが、心配そうに声をかけてきた。


 私は首を横に振った。


「ありがとう、オルド。でも大丈夫よ。これくらいで震えていたら、この領地の冬は越せないわ」


「それにしても、今年の雪は早すぎます。急ぎ屋敷へ戻りましょう」


 オルドが御者に声をかけようとした、その時だった。


 いななきと共に、馬車が急停車した。


 体が前のめりになり、慌てて手すりを掴む。


「どうしたの?」


「申し訳ありません、アメリア様! 雪道に……人が倒れています!」


 御者の叫び声に、私は即座に馬車の扉を開けた。


 オルドの制止を振り切り、雪が積もる街道へと降り立った。


 そして、今。


 私は雪の中で倒れていた男の胸元に、フォルクハルト辺境領の古い備蓄台帳を見つけている。


「アメリア様、危険です。離れて――っ!?」


 私を庇うように前に出たオルドが、男の顔を覗き込んだ途端、素頓狂な声を上げた。


 いつも沈着冷静な家令が、目を見開いて後ずさる。


「オルド? どうしたの。知り合い?」


「ま、まさか……嘘でしょう。なぜ、こんな辺境に」


 オルドは震える指で、雪に倒れた男を指差した。


「レオン・クラウゼン……元侯爵令息、です」


「クラウゼン侯爵家の?」


 その名には聞き覚えがあった。


 王都の社交界から遠く離れたこの辺境にさえ、その醜聞は届いていたからだ。


 婚約破棄された男。

 それも、自らが捨てられた側として。


「はい。冷血で無能。婚約者である令嬢を散々泣かせた挙句、夜会で断罪され、家からも切り捨てられたと聞いております」


 オルドの言葉は容赦がなかった。


「王都では、断罪された哀れな男として、専らの笑い草になっているとか……」


 冷血。

 無能。

 婚約者を泣かせた男。

 社交界の笑い者。


 それが、この雪の中で倒れている男の評価らしい。


「アメリア様、関わり合いになるべきではありません」


 オルドは厳しい顔で私に諫言した。


「旦那様が病に伏せられている今、アメリア様はあくまで領主代行のお立場です。王都の笑い者を拾い上げたと知られれば、辺境伯家まで同類として嘲笑の的になります。余計な火種は避けるべきです」


 正論だ。


 家令としてのオルドの判断は、何一つ間違っていない。


 私は改めて、レオン・クラウゼンを見下ろした。


 無能な冷血漢。


 だが、私の視線は彼の顔ではなく、胸元に強く抱え込まれた台帳へと向けられていた。


 無能な男が、なぜ命より先に数字の束を守る?


 冷血な男の指が、なぜこんなにも力強く、領地の冬越しの記録を庇っている?


 王都の人間が彼をどう呼ぼうと、関係ない。


 目の前にある事実だけが、私にとっての真実だ。


「……彼を馬車へ運びなさい」


 私は立ち上がり、静かに命じた。


「アメリア様!」


 オルドが悲鳴のような声を上げる。


「正気ですか!? これ以上、ご自身に重荷を背負わせるおつもりですか! あのような無能な男を助けたところで、領地のためには……」


「オルド」


 私は家令の言葉を遮り、まっすぐに彼の目を見た。


「笑われていることと、役に立たないことは別よ」


 オルドが息を呑む。


 私は雪にまみれたレオンを一瞥し、冷たい風の中で言い放った。


「お救いになるのですか、とあなたは言いたいのね?」


「……はい」


「いいえ。救うのではないわ」


 私は凍える手をコートのポケットに突っ込み、小さく笑った。


「雇えるか、確かめるのよ」

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