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第45話 下町の冷えた配給所

「また明日、お手柔らかに」


 ユリウス・セイルは、ひどく美しい、けれど毒を孕んだ笑顔を残して、宿の廊下へと消えていった。


 彼の足音が完全に聞こえなくなるまで、レオンは真っ直ぐに廊下の先を見つめていた。


 表情こそ平坦だったが、その背中はかつての断罪劇の痛みを思い出すように、わずかに強張っているように見えた。


「……気にすることはないわ、レオン」


「ええ。わかっています。……彼らがどんなに美しい言葉を紡ごうと、我々の手には確かな証拠がありますから」


 レオンは短く答え、私の瞳を見返した。


 その声に揺らぎはない。


 彼はもう、王都の悪意にただ黙って耐えるだけの男ではない。


「明日の審問の前に、王都の現状を少し見ておきたいの。……ヴェラ、案内を頼めるかしら」


「承知いたしましたわ。表通りは華やかですが、一歩裏に入れば、王都の本当の姿が見えますからね」


 私たちは証拠の束を厳重に隠し持ち、宿の裏口からこっそりと抜け出した。


 ヴェラの先導で向かったのは、華やかな貴族街からは隔絶された、王都の下町だった。


 そこは、私たちがつい数時間前に通ってきた白亜の石畳とは別世界だった。


「……なんてこと」


 細い路地には、薄着で寒さに震える下町の人々が溢れていた。


 まだ春の訪れには程遠く、王都の風は冷たい。


 本来なら、国からの冬越し用の備蓄として、薪や安価な暖房具が配給されているはずの時期だ。


 だが、路地の隅にある配給所には、人の列だけが長く伸びており、荷を積んでいるはずの荷馬車には『空の配給箱』が積まれているだけだった。


「どうして……薪の配給はないの? 王都の備蓄は十分に足りていると、以前の調査で確認したはずよ」


「ええ、そのはずです。ですが……」


 レオンが、配給所で人々の対応に追われている下級役人の手元を鋭く見つめた。


「あの役人が持っている配給の伝票束。……一番上の紙には、はっきりと『配布済み』の印が押されています」


 その言葉に、私は辺境の雪山で直面した、あの身の凍るような危機を思い出した。


(……帳簿上のパンと、同じだわ)


 紙の上では、薪も暖房具も、すでにこの下町の人々へ配られたことになっている。


 数字の上では、国は完璧に民を寒さから守っている。


 だが、現実はどうだ。


 現場の配給箱は空っぽで、人々は凍えながら明日を待っている。


 備蓄されたはずの物資は現場に届かず、どこかで抜き取られ、別の場所で高値で売り捌かれているのだ。


「ひどい……。帳簿の数字だけを合わせて、現場の命を切り捨てているなんて」


 私がギリッと奥歯を噛み締めていると、人混みに紛れて役人の手元を覗き込んできたヴェラが、パチンと扇子を鳴らした。


「アメリア様。やはり、ただの役人の横領ではありませんわ。……あの『配布済み』の伝票の隅、見覚えのある印が押されています」


「見覚えのある印?」


「ええ。マルセル・エルヴェが率いる、王都商会連盟の『黒い商印』ですわ」


 ヴェラの指摘に、レオンの目が鋭く細められた。


「エルヴェ商会……。北方七領だけでなく、この王都下町の配給物資にまで入り込んでいる可能性があるのですね」


「ええ。しかも、同じ黒い商印。偶然にしては、少々出来すぎていますわ」


 ヴェラは扇子で口元を隠しながら、役人の手元をもう一度見た。


「あの印の欠け方、春市の伝票で見たものと同じです。右下の羽飾りが、わずかに潰れている。マルセル会頭の個人決済印で間違いありませんわ」


「今すぐ、あの役人を問い詰めて伝票を……」


「お待ちください、アメリア様」


 怒りに任せて歩み出そうとした私を、レオンが静かに制止した。


「今ここで彼らを問い詰め、末端の不正を暴いても、トカゲの尻尾切りにされるだけです。それに、我々の目的は明日の貴族院での審問。……ここで騒ぎを起こせば、彼らに『辺境の代行令嬢が王都の行政を妨害した』という隙を与えることになります」


 レオンの冷徹な、しかし極めて正しい判断に、私は強く握りしめた拳をゆっくりと下ろした。


「……わかっているわ。この根本を断ち切らなければ、この人たちは救われない」


「あ、あの……」


 隣に控えていたミラが、小さく手を挙げた。


「今なら、役人の手元に見えている範囲だけですが……記録できます。配給所の名前、日付、配給箱の数、伝票に押された『配布済み』印。それから、ヴェラさんが見つけた黒い商印の位置も」


「お願い、ミラ。声は上げなくていいわ。見えるものだけを、正確に残して」


「はい……」


 ミラは人混みの陰に隠れるようにして、小さな帳面へ素早く記録を書きつけた。


 配給所の名前。


 日付。


 空の配給箱の数。


『配布済み』の印。


 そして、伝票の隅に押された黒い商印の特徴。


 ヴェラもまた、その印の形と欠け方を目に焼きつけるように、じっと見つめていた。


「今は問い詰めません」


 レオンが低く言った。


「ですが、この記録は必ず後で効きます。王都下町にも、帳簿上では配られた物資が、現実には届いていない。……その証拠になります」


 冷たい風が吹き抜け、配給所に並ぶ幼い子供が寒さに肩をすくめる。


 辺境の雪山でニコの暖房具に救われた子供たちの顔と、目の前の王都下町の光景が重なった。


 王都の不正は、決して遠い辺境だけの問題ではなかった。


 彼らの強欲と嘘は、自分たちの足元にいる王都下町の命さえも、こんなにも冷たく凍えさせているのだ。


(絶対に、許さない)


 私は冷え切った下町の光景をその目に深く刻み込み、きびすを返した。


「戻りましょう。明日の審問で……彼らの用意した美しい嘘の席を、記録と契約で根こそぎひっくり返してやるわ」


 王都がひた隠しにしてきた巨大な闇の輪郭が、いよいよはっきりと姿を現し始めていた。

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