第42話 救援隊の帰還と黒い封書
黒い封書が私の手に渡る、ほんの少し前のこと。
麓の宿場の広場は、最後の一人が無事に帰還したという歓喜と、安堵の熱気に包み込まれていた。
「ラウター、よく戻ったわ。怪我は?」
「……腕を少し擦っただけです。救出した兵も、ニコ殿の暖石のおかげで凍傷には至っていません」
泥と雪にまみれたラウターは、荒い息を整えながらそう答えた。
その顔に、最初に会った時のような高慢さはなかった。
彼は自分の手の中に残った赤布を見つめ、それから、少し離れた場所で地図を畳んでいるガレスへ視線を向けた。
「……私は、進むことしか考えていませんでした」
ラウターの声は、低く、重かった。
「魔物を倒すこと。前へ出ること。武勲を立てること。それだけが騎士の価値だと信じていた。ですが……今回、私が兵を連れ帰れたのは、ガレス殿が示した戻る道があったからです」
彼は泥に汚れた銀甲冑のまま、ガレスの前へ歩み出た。
そして、王都騎士としての誇りを折り畳むように、深々と頭を下げた。
「ガレス殿。私は、あなたの戦いを見誤っていました。臆病者などではない。あなたは、戦場から人を帰すための道を知る騎士です」
宿場の広場が、静まり返った。
王都の騎士が、王都で笑われた元騎士へ、衆目の前で頭を下げている。
それは、派手な勲章よりも、勝利の凱歌よりも、ガレスの価値を強く証明する光景だった。
「我々先遣隊の命を救っていただき、感謝します」
「……頭を上げろ、若いの」
ガレスは短く答えた。
だが、その声はいつもよりわずかに掠れていた。
「帰ってこれたなら、それで十分だ。次に山へ入る時は、進む道だけじゃなく、戻る道も見ておけ」
「はい」
ラウターは顔を上げ、強く頷いた。
王都で奪われたガレスの名誉が、この辺境の雪山で、確かな成果とともに回復された瞬間だった。
その近くでは、ミラが最後の名簿に震える手で丸をつけていた。
「全員……帰還、確認しました」
小さな声だった。
けれど、その一言は、どんな大声の勝利宣言よりも重かった。
ニコがその場にへたり込み、抱えていた暖房具を胸に押し当てる。
「よかった……本当に、よかった……」
ヴェラは扇子で口元を隠しながら、いつもの艶やかな笑みを浮かべていたが、その目元はわずかに潤んでいた。
「まったく、心臓に悪い職場ですこと。王都の帳簿より、辺境の雪山の方がよほど手強いですわ」
「同感です」
レオンが淡々と返した。
けれど、その声にも、いつもよりほんの少しだけ安堵が滲んでいた。
私は周囲を見渡した。
声の小さな記録係。
魔力の弱い職人。
足を負傷した元騎士。
王都で信用を失った補佐官。
そして、この土地で長く生き抜いてきた自警団や職人たち。
全員がそれぞれの席で働いたからこそ、誰一人欠けることなく帰ってこられた。
再任用室は、ただ王都で捨てられた人を拾う場所ではない。
辺境に必要な力を見つけ、その力が既存の領民と噛み合うように組み直す場所だ。
再任用室で痛感した失敗の意味が、今ようやく、少しだけ形になった気がした。
「……皆、本当によくやってくれたわ」
私は深く息を吸い、雪と泥にまみれた救援隊へ向けて告げた。
「監視所の兵も、山の村人も、王都騎士の先遣隊も、全員戻った。これは、誰か一人の手柄ではないわ。全員が、自分の席で働いた結果よ」
その言葉に、宿場の広場に静かな拍手が広がった。
最初は一人。
次に二人。
やがて、救援隊全体を包むように、拍手と安堵の声が広がっていく。
派手な祝宴などない。
けれど、その泥臭い拍手こそが、今の私たちには何よりも誇らしかった。
その時だった。
「アメリア様」
オルドが、人々の輪を避けるようにして私のもとへ歩み寄ってきた。
いつもの穏やかな家令の顔ではない。
唇を固く結び、ひどく重苦しい表情をしている。
「たった今、王都から早馬で届きました」
彼が差し出したのは、一枚の黒い封書だった。
封筒の中央には、財務院の権威を示す刻印が押されている。
歓声の名残が、急速に遠ざかっていくようだった。
私は泥に汚れた手袋を外し、その封を切った。
中から現れたのは、王都財務院の正式な召喚状。
宛名には、私とレオンの名が並んでいた。
「……読み上げます」
私の隣で、レオンが低い声で言った。
私は黙って頷き、召喚状を彼に渡す。
レオンは銀細工のペンを持つ時と同じ、冷静な指先で羊皮紙を広げた。
「フォルクハルト辺境伯領代行、アメリア・フォルクハルト。ならびに、同領筆頭補佐官、レオン・クラウゼン。両名は、王都財務院の命により、北方七領補助金および王都認証品販売停止に関する事情聴取のため、王都へ出頭すること」
宿場の空気が凍りつく。
レオンは続けた。
「なお、レオン・クラウゼンについては、王都社交界における過去の不名誉な経歴、ならびに財務院保管記録の不当持ち出し疑惑についても、併せて審問の対象とする」
私の奥歯が、ぎり、と鳴った。
やはり来た。
春市の公開審理で暴いた王都認証印の矛盾。
北七号の金流。
そして、レオンが命懸けで守った青印の控え。
王都はそれを称えるつもりなどない。
むしろ、私の『代行』という立場の弱さと、レオンの過去の傷を突き、私たちが築いた席を根元から引き抜こうとしている。
「……アメリア様」
レオンが静かに私を見た。
その顔は青ざめていたが、もう逃げる者の顔ではなかった。
王都で言葉を信じてもらう権利を奪われた男が、今度は自分の足で、その王都へ戻ろうとしている。
私は黒い召喚状を握りしめ、宿場に集まった仲間たちを見渡した。
ガレスも、ミラも、ニコも、ヴェラも、そしてラウターまでもが、私たちを見ている。
ここで怯めば、王都はすべてをなかったことにする。
北七号も、エルヴェ商会も、危険な暖房具も、止められた補給も。
そして、王都が捨てた者たちがこの辺境で確かに役に立ったという事実さえも。
「行くわよ、レオン」
私は、黒い封書をまっすぐに掲げた。
「王都が私たちを呼ぶというなら、こちらから証拠を持って乗り込んで差し上げましょう。……彼らが見ようとしなかった数字を、今度こそ本丸に突きつけるのよ」
「……はい、アメリア様」
レオンは深く頭を下げた。
魔物の群れよりも、雪山よりも、厄介な敵が待つ王都へ。
私たちは、辺境で積み上げた記録と契約、そして自分たちの席を守るため、次なる戦いへ向かうことになった。




