第41話 あなたの席は、ここにある
「一人だけ、足りません。まだ山の中に……戻っていない人がいます!」
歓喜に沸いていた麓の宿場が、ミラのその悲痛な報告によって一瞬にして凍りついた。
「足りない!? 名簿の確認漏れではなくて!?」
「はい……監視所の初期防衛名簿と、私が数えた通過人数の記録を三度照合しました。見回りに出ていた若い兵士が一人、確実に戻っていません」
ミラの小さな声は震えていたが、彼女の記録が間違っているはずはない。
「くそっ、今からあの山へ戻るなど……!」
王都騎士のラウターが呻くように呟いた。
魔物の群れはすでに迂回路のすぐ傍まで迫っており、今からあの雪山へ少人数で引き返すのは、文字通り自殺行為に等しい。
「……アメリア様」
その絶望的な空気の中、私の隣にいたレオンが静かに立ち上がった。
「私が、手持ちの残りの黒パンとニコ殿の暖石を持ち、一人で確認に向かいます」
彼の声は、あまりにも平坦だった。
まるで、倉庫の小麦の数を一つ数え直してくる、とでも言うような軽さで、彼は死地へ向かう許可を求めてきたのだ。
「駄目よ、レオン! あなた一人で魔物の群れを抜けられるわけがないでしょう!」
「ガレス殿の張った縄と赤布を辿れば、迷うことはありません。それに……」
レオンは、伏し目がちに言葉を継いだ。
「私はただの計算役です。前線の兵士や、腕の立つ騎士を危険に晒すよりは、私のような人間が向かうのが、最も被害が少なく合理的です」
(ああ……この人は、まだ)
私は、胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。
王都で「無能」「冷血漢」と罵られ、婚約破棄されてすべてを失った彼。
彼は未だに、自分自身の価値を信じきれていないのだ。
だから、いざという極限の状況で、自分自身を『いつでも切り捨てられる計算の駒』のように扱おうとする。
私は無言のまま足早に彼に詰め寄ると、その雪と泥に塗れた腕を、両手で強く掴み、力一杯引き留めた。
「……アメリア、様?」
「行かせないわ」
私は、彼の冷たい瞳を真っ直ぐに見据えて告げた。
「あなたは『ただの計算役』でも、使い捨ての駒でもない。私が能力を見込み、領主代行として正式に雇用した、フォルクハルト領の筆頭補佐官よ」
私の両手から、少しでも私の熱が彼に伝わるように、さらに強くその腕を握りしめる。
「あなたの席は、あの吹雪の雪山の向こうじゃない。私の隣にあるわ。……あなたの仕事は、全員が帰ってきてからも、明日の補給を計算するために続くのよ。だから、絶対にここから行かせない」
愛の告白ではない。
気の利いた甘い言葉でもない。
けれど、これは領主としての命令という名を借りた、私からの精一杯の『あなたを失いたくない』という感情の表れだった。
レオンは少しだけ目を見張り、私に掴まれた自分の腕と、私の顔を交互に見つめた。
そして、自分の命を粗末にしようとした無茶を恥じるように、小さく息を吐いて足を止めた。
「……申し訳ありません。冷静さを欠いていました」
「わかればいいのよ」
私が彼の腕から手を離し、ホッと息をついたその時だった。
「アメリア様。まだ諦める必要はありません」
ガレスが進み出て、ミラの持つ名簿と地形図を素早く見比べた。
「ミラの記録と、監視所の巡回経路を照合すれば、残された一人の位置は絞り込めます」
ガレスは地図の一点に、太い指を置いた。
「見回りに出た兵が戻っていないなら、おそらくこの旧見張り台です。吊り橋が落ちた時、本道ではなく、崖沿いの細い獣道へ逃げ込んだ可能性がある。魔物の群れが通る大きな道からは外れているが、霧の中では見落としやすい」
「そこへ行けるの?」
「俺の足では遅すぎます。だが、道はわかる。赤布の結び方と、岩場の目印を教えれば、辿れる者がいます」
ガレスの視線が、ラウターへ向けられた。
ラウターは泥だらけの銀甲冑のまま、ハッと顔を上げる。
「私、ですか」
「お前は先ほど、この山を一度下ってきた。無謀ではあったが、馬を捨ててからの足運びは悪くなかった。今度は進むためではなく、連れ帰るために走れ」
ラウターは一瞬、言葉を失った。
つい先ほどまで、彼はガレスを臆病者と罵っていた。
その自分が今、ガレスの地図と判断を頼りに、命を救う役目を託されている。
屈辱ではなく、重い責任として、それを受け取ったのだろう。
彼は泥に汚れた手で、剣の柄を握り直した。
「……承知しました」
ラウターは深く息を吸い、ガレスに向かって短く頭を下げる。
「今度は、進むためではなく、連れ帰るために行きます」
「よし。ニコ、暖石を二つ渡せ。レオン、残りの黒パンを一つ。ミラ、お前はその兵の名前をもう一度確認して、ラウターに伝えろ。呼びかける名を間違えるな」
「はいっ!」
ミラは震える手で記録をめくり、戻っていない兵士の名を読み上げた。
ガレスはラウターの腕に赤布を結び、岩場の目印と足を置く位置を、短く、正確に叩き込んでいく。
「いいか。魔物を見ても追うな。声が聞こえても急ぐな。赤布を結びながら進み、帰りはその赤布だけを見ろ。連れ帰ることだけを考えろ」
「はい」
ラウターはニコから暖石を、レオンから黒パンを受け取り、ミラから兵士の名を書いた小さな紙片を受け取った。
そして、吹雪の山中へと走り出した。
重苦しい沈黙が宿場の広場に落ちる。
誰も歓声を上げなかった。
ただ、赤布の道の向こうを見つめ、待つ。
待つことしかできない時間が、こんなにも長いものだとは思わなかった。
やがて。
「……見えた!」
見張り台の方角を睨んでいた自警団の男が叫んだ。
霧の奥から、二つの影がよろめきながら現れる。
一人は、泥と雪にまみれたラウター。
もう一人は、彼に肩を貸され、胸に暖石を抱えた若い兵士だった。
「戻ってきたぞ!」
宿場の広場に、押し殺していた息が一気にほどけるような歓声が広がった。
ラウターは最後の力を振り絞るように、兵士をこちらへ引き渡すと、その場に膝をついた。
「……連れ帰りました」
その声はかすれていた。
けれど、確かに誇りがあった。
「これで……本当に全員よ。一人も欠けずに、戻ってきたわ」
私は膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、安堵の息を吐いた。
隣に立つレオンも、いつもの冷徹な顔を少しだけ崩し、静かに目を閉じていた。
魔物氾濫の初動を抑え、監視所と王都騎士の命を救い、補給線の停止を乗り越えた。
王都が「役立たず」と呼んだ者たちの力で、私たちはこの絶望的な山の危機を、誰一人欠けさせずに越えたのだ。
「アメリア様」
だが、皆が歓喜に沸くその広場の片隅で。
オルドがひどく重苦しい顔をして、私に一枚の封書を差し出した。
「たった今、王都から早馬で届きました」
それは、真っ黒な封筒だった。
そしてその中央には、財務院の権威を示す、忌々しい刻印が押されていた。




