第40話 臆病者の帰還路
雪山の向こうで、弱々しく上がった赤い救難信号。
それは監視所に残された兵と村人たち、そして孤立した王都騎士たちが限界を迎えたという、悲痛な叫びだった。
「急ぐぞ。これより迂回路を通り、監視所へ向かう」
ガレスが杖を握り直し、部隊の先頭に立って宣言した。
「だが、勘違いするな。我々の目的は魔物との戦闘ではない。群れの視界と嗅覚を切り、あくまで『逃げるための道』をこじ開けて、あの場にいる全員を回収する。……剣は、道を塞ぐ魔物を払うためだけに使え」
その徹底した「撤退第一」の指示に、王都騎士のラウターが微かに顔をしかめるのが見えた。
王都において、騎士とは華々しく前進し、魔物を討ち取る存在だ。
かつて王都の騎士団に所属していたガレスは、ある魔物討伐の折、上官の無謀な突撃命令に背いた。
彼は部下の命を無駄に散らすことを良しとせず、独自の判断で撤退を命じたのだ。
結果として多くの兵が生き残ったが、彼はしんがりを務めて足を負傷し、その上で「騎士の誇りを汚した臆病者」という烙印を押され、王都を追放された。
しかし、今、私が見ている彼は臆病者などではない。
「ガレス」
「はっ、アメリア様」
「王都が何と言おうと関係ないわ。私は、あなたの『戻る判断』を全面的に認める。……全員、生きて連れ帰ってきなさい」
「……御意!」
ガレスは深く頷き、雪深い迂回路へと足を踏み入れた。
道中は過酷を極めた。
ガレスは魔物の唸り声が響く中、地形と風向きを読み、雪煙を利用して群れの目を逸らしていく。
魔物と遭遇しても決して深追いはせず、盾で弾き、足止めだけを行って部隊を前へ進めた。
やがて、崩れた吊り橋の向こう側、魔物に半ば包囲されかけていた監視所へと私たちは到達した。
「救援部隊だ! 助けが来たぞ!」
監視所に身を寄せ合っていた村人たちと、疲労困憊の兵士たちから歓声が上がる。
その中には、本隊とはぐれ、監視所へ逃げ込んでいた王都騎士の先遣隊の一部の姿もあった。
「休むな! すぐに立つんだ!」
ガレスが雷のような声を飛ばした。
「体力のない村人は隊列の中央へ! 重傷者は俺たちが用意した荷車へ乗せろ! ニコ殿の暖石を懐に入れ、絶対に止まらずに歩き続けろ!」
「し、しかし魔物の群れがすぐそこまで……!」
「俺が引いた縄から手を離すな! 赤布だけを見て進めば、必ず麓へ帰れる!」
ガレスの気迫と、迷いのない明確な指示に、混乱しかけていた人々が次々と動き出した。
帰り道は、まさに彼が構築した『撤退の技術』の結晶だった。
吹雪で視界が奪われても、赤布の目印が道を教えた。
凍えそうになっても、ニコが要所に設置した休憩地点の暖房具が、彼らの命を繋ぎ止めた。
魔物の追撃は、ガレスが的確に落とした雪庇によって分断された。
泥臭く、決して華々しくはない。
だが、その一歩一歩が確実に、命を死地から引き剥がしていく。
やがて、私たちは安全圏である麓の宿場へと、無事に帰還を果たした。
出迎えた領民たちと、先に撤退していた兵士たちから、割れんばかりの歓声と安堵の声が上がる。
「……信じられん」
監視所から生還し、泥だらけになってへたり込んでいたラウターが、荒い息を吐きながらガレスを見上げた。
「あのような状況から、魔物との本格的な戦闘を避け、これほどの大所帯を連れ帰るなど……」
ラウターの目には、もうガレスをただの「臆病な逃げ癖のある男」と見下す色はなかった。
そこにあったのは、自分たちには到底真似できない『生還させるための指揮能力』への、驚きと戸惑いだった。
それでも彼は、まだ何かを言い切ることはできず、ただ黙ってガレスの背を見つめていた。
王都の価値観が一度で崩れ去るほど、人は単純ではない。
だが、彼の中で何かが揺らいだことだけは、確かだった。
「アメリア様、やりましたね! これで全員無事に……」
オルドが喜びの声を上げ、私も安堵の息を吐こうとした。
だが、その平穏な空気を、震える小さな声が遮った。
「あの……アメリア様」
皆の視線が、名簿と負傷者札を照合していたミラに集まった。
ミラの顔は真っ青だった。
彼女は自分が書き留めた記録の束をギュッと抱きしめ、信じられないものを見るような目で呟いた。
「……数が、合いません」
「数が合わない? どういうことよ、ミラ」
「監視所に元々いた兵士の数と、今戻ってきた人たちの数を……何度数え直しても……一人だけ、足りません。まだ山の中に、戻っていない人がいます……!」
歓声に包まれていた麓の宿場が、一瞬にして凍りついた。
全員生還したはずの撤退劇。
だが、絶対に間違えることのないミラの記録が、残酷な事実を突きつけていた。




