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第39話 帳簿上のパン

「アメリア様! 監視所へ続く谷底の『吊り橋』が……先ほどの雪崩の余波で、完全に崩落しています!」


 自警団の報告に、雪山の冷気がさらに一段、鋭く肌を刺したような気がした。


 魔物の群れが迫る中、撤退路の要であった橋が落ちた。


 吊り橋の向こう側には、監視所の兵士たちと、逃げ遅れた山の村人数名が完全に取り残されている。


「……ガレス! 他の道は!?」


「北の尾根を回り込む迂回路があります。足場は悪いですが、縄を使えば渡れないことはありません」


 ガレスは即座に古い地図を指差したが、その顔は険しかった。


「しかし、大幅な時間の浪費になります。今の彼らに、そこまで迂回して歩く体力が残っているか……」


「アメリア様」


 ガレスの言葉を引き継ぐように、レオンが進み出た。


 彼は懐から補給帳簿を取り出し、銀細工のペンで素早く数字を追いながら、冷徹な現実を突きつけた。


「この迂回路を採り、かつ負傷者と村人を連れて戻る場合。彼らの体力を維持し、この寒さを凌ぐための熱量計算をすると……我々が現在持ち歩いている手持ちの食料では、往復の補給が確実に足りなくなります」


「足りない!? でも、麓の宿場で商人たちから供出させた小麦と保存食が、後続の荷馬車でまだ何台分も上がってきているはずでしょう! 帳簿の上では、十分すぎるほどの量があるわ!」


「ええ。帳簿の上には、確かにあります」


 レオンは補給表から顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。


「ですが、雪解けの泥濘んだ山道では、重い物資を積んだ後続の馬車は速度を出せず、まだこの前線には到着していません。……『帳簿上のパン』は、現場で凍える兵士の腹を満たしてはくれないのです」


 その言葉が、私の胸を鋭く抉った。


(……また、やってしまった)


 再任用室を立ち上げた時と同じだ。


「席」を作っただけで満足し、現場での運用の取り決めの説明を怠った私の失敗。


 今回もそうだ。


 麓の宿場で強欲な商人たちから「物資を確保すること」に成功し、帳簿上の数字を満たしたことで安心し、それが「この過酷な現場で、必要な時間に届くかどうか」という生きた補給の視点を、私は甘く見ていたのだ。


「……私の落ち度だわ。ごめんなさい」


 私は一瞬だけ唇を噛み締め、だが、すぐに頭を振って顔を上げた。


 領主代行として、落ち込んでいる暇など一秒もない。


「オルド! 近隣の安全な山村へ走って、地元の保存食を緊急で買い上げてきて! 支払いは辺境伯家が保証するわ!」


「はっ!」


「レオン! 今ここにある手持ちの予備の『黒パン』を、最前線の部隊へ全量再配分して! ニコは暖房具を最大出力にして、彼らの体力の消耗を最低限に抑えるのよ! ……ガレスの迂回路で、最後の一人まで助けに行くわ!」


 私が立て続けに指示を飛ばすと、救援隊の動きが再び活気を取り戻した。


「承知いたしました」


 レオンは即座に帳簿に目を落とし、すさまじい速度で、限られた黒パンと保存食の再配分計算を始めた。


 しかし、吹き荒れる冷風の中でペンを走らせ続ける彼の指先が、微かに震え、真っ白に冷え切っていることに私は気づいた。


 彼は、自分の限界を計算に入れない。


 必要な数字を弾き出すために、自分の手が凍傷になろうともペンを止めようとしないのだ。


「……レオン」


 私は無言のまま、自分のコートのポケットで温めていた予備の『暖石』を取り出し、彼の冷え切った左手に押し付けた。


 驚いて顔を上げた彼の手に、私自身の両手を重ね、その指先を少しだけ包み込む。


「アメリア、様……?」


「計算は止めないで。……でも、あなたの手が凍えたら、ここで誰の腹も満たせなくなって終わりよ。少しは自分も労りなさい」


 甘い言葉などない。


 ただ、彼という『大切な相棒』を失わないための、不器用な気遣い。


 レオンは少しだけ目を見張り、そして、私の手から伝わる温度を確かめるように、小さく息を吐いて暖石を握り直した。


「……恐縮です。計算、終わりました」


 彼の瞳に、再び鋭い理性の光が戻る。


「第一陣へ黒パンを配分! ニコ殿の暖房具を前に出せ! ガレス殿、退路の確保を!」


 レオンの声が飛び、ガレスが迂回路へと足を踏み出そうとした、その時だった。


「アメリア様! 見てください!」


 ミラが叫び、谷の向こう側を指差した。


 霧の奥、監視所があるはずの方角から。


 ヒュルルル……と、弱々しい音を立てて、空に『赤い救難信号』が打ち上がったのだ。


「あれは……」


「最後の救援要請です。……監視所の防衛線が、限界を迎えた合図です」


 ガレスが苦渋に満ちた声で呟く。


 猶予はない。


 魔物の群れが迫り、帳簿上のパンが届かないこの絶望的な雪山で、最後の一人を連れ帰るための、極限の撤退戦が始まろうとしていた。

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