第38話 撤退線を引く騎士
不吉な霧が立ち込める雪山へと、混成救援隊は足を踏み入れた。
遠くから、低く唸るような地響きが聞こえてくる。
季節外れの魔物の群れが、確実にこちらへ向かって移動している証拠だった。
だが、部隊の先頭に立つガレスは、腰の古い騎士剣を抜こうとはしなかった。
彼は足を引きずりながらも、地面の雪の解け具合、岩肌の起伏、そして風の匂いだけを鋭く凝視している。
「そこだ! その岩場は雪解け水で地盤が緩んでいる。足を踏み入れず、右の木から太い縄を張り渡して命綱を作れ!」
「はっ!」
「分岐点には必ず『赤布』を結びつけろ! 霧が濃くなっても、赤布を辿れば絶対に麓へ帰れるようにするんだ!」
ガレスの指示を受け、地元の自警団や職人たちが素早く動き、雪山の険しい獣道が、人間が安全に通れる『帰還路』へと次々に改造されていく。
「ニコ、その窪地に風除けの天幕を張れ。暖石を置き、一時的な休憩地点とする。ミラはそこで待機し、通過する者の数を記録しろ」
「了解です!」
「……はいっ」
魔物を倒すための前進ではない。
ガレスが構築しているのは、一人残らず生きて帰るための、完璧な撤退線だった。
やがて、私たちは谷間の開けた場所で、目的の者たちを発見した。
「……いたわ。王都騎士の先遣隊よ」
彼らは数十匹の魔物の群れに半ば包囲される形で、雪の中に座り込んでいた。
武勲を焦って突撃した結果、地形の悪さに足を取られ、体力を使い果たして孤立していたのだ。
「増援か!? 遅いぞ辺境の田舎部隊め!」
ボロボロの銀甲冑を着た先遣隊の小隊長が、私たちを見るなり怒鳴り声を上げた。
「早くその魔物どもを蹴散らして、我々の進軍路を確保しろ!」
「……討伐はしない。部隊をまとめろ。ただちに退却する」
ガレスが冷たい声で言い放つと、小隊長は目を丸くし、そして顔を真っ赤にして激昂した。
「退却だと!? 騎士の誇りにかけて、尻尾を巻いて逃げるわけにはいかん! だから貴様は王都で『逃げ癖のある臆病者』と笑われたのだ!」
「……っ」
その暴言に、私が怒りで前に出ようとした瞬間。
私より先に、レオンが小隊長の前に歩み出た。
「あなたの誇りで、負傷した部下の腹は膨れますか?」
レオンの声は、雪山の空気よりも冷たく、容赦がなかった。
「あなた方の補給袋はすでに空です。剣を振るう体力もなく、このまま戦えば全滅は免れない。……誇りを抱いてここで凍死するか、生き延びて王都へ帰るか。選ぶのはあなたです」
「くっ……!」
レオンの突きつけた冷徹な現実に、小隊長は反論できず、ギリッと歯を食い縛った。
「ミラ、名簿の確認を。負傷者札を配れ」
ガレスが再び指揮を執る。
「重傷の者から優先して搬送する。歩ける者は前の者の背を追い、絶対に列を乱すな。……俺の引いた縄から手を離さず、赤布だけを見て歩け!」
魔物の群れが唸り声を上げて迫る中、ガレスの統制された指示により、混乱していた先遣隊の撤退が始まった。
王都でガレスを「臆病者」と笑っていた小隊長も、今は無様に這いずるようにして、ガレスが固定した命綱にしがみつき、彼が結びつけた赤布の道標に縋らなければ、一歩も前へ進めなかった。
(……見たことか)
私は、ガレスの広げた撤退路を歩く騎士たちを見下ろしながら、密かに胸のすく思いだった。
王都が評価しなかった『逃がす力』。
それが今、王都の騎士たち自身の命を救い、彼らを文字通り泥に塗れさせているのだから。
ニコの設置した休憩地点で暖をとりながら、順調に負傷者の搬送が進んでいく。
このまま、全員を安全に麓へ降ろせる。
そう確信した時だった。
「アメリア様! 大変です!」
最後尾で、山の監視所にいた兵士たちを誘導していた自警団の男が、悲痛な顔で駆け寄ってきた。
「監視所へ続く、谷底の『吊り橋』が……先ほどの雪崩の余波で、完全に崩落しています!」
「なんだって……!?」
私は血の気が引くのを感じた。
「吊り橋の向こう側に、監視所の兵士たちと、逃げ遅れた村人数名が取り残されています! あのままでは、魔物の群れに……!」
最悪の報告だった。
完璧に構築されたはずの撤退路が、過酷な自然の気まぐれによって無惨に断ち切られてしまったのだ。
「レオン、橋を修復する資材は……」
「足りません。ここにある縄だけでは、谷を渡ることは不可能です」
背後から迫る魔物の群れの咆哮が、雪山に不気味に響き渡る。
帰還の道が途絶えた雪山の奥深くで、私たちは最も過酷な決断を迫られようとしていた。




