第35話 止まった荷馬車
監視所を救うため、私とレオンが麓の宿場に到着した時、そこには信じられない光景が広がっていた。
「……どういうことよ、これは」
春の雪解けで泥濘んだ宿場の広場には、監視所へ向かうはずの荷馬車が三十台以上も、車輪を泥に沈めたまま放置されていた。
御者たちは焚き火を囲んで暇そうに談笑し、荷を動かそうとする気配すら見せない。
「これはアメリア様。わざわざ麓までお越しとは」
広場の中心でふんぞり返っていた、王都系の商人の顔役が、薄ら笑いを浮かべて近づいてきた。
「監視所への定期補給便が、なぜこんなところで止まっているの? 魔物の群れが異常移動しているという知らせは届いているはずよ」
「ええ、存じておりますとも。ですが……我々としても、迂闊に荷を動かせない事情がありましてね」
商人は大げさに肩をすくめた。
「先日、エルヴェ商会の『王都認証品』が、辺境の独自基準とやらで不当に販売停止にされたでしょう? あれを知った王都の商人たちは皆、震え上がっているのです。……我々も、いつ言いがかりをつけられて商品を差し止められるかわからない。恐ろしくて、この先の山へは進めませんな」
「それは安全機構の欠如を隠した彼らの自業自得よ! それを理由に、前線への補給を止めるというの!?」
「いやはや、商人の自衛本能とお許しいただきたい」
悪びれる様子もない商人の態度に、私はギリッと奥歯を噛み締めた。
「……見え透いた嘘ですこと」
その時、私たちの背後から、冷ややかな声が響いた。
先行して宿場に入っていた、ヴェラとミラだった。
「アメリア様。安全基準への懸念など、ただの建前ですわ」
ヴェラはパチンと扇子を閉じ、商人たちが放置している荷馬車を指差した。
「彼らが山へ運ぶのを渋って抱え込んでいるのは、小麦と薬草、それから防寒用の毛布ばかりです。……つまり、非常事態で最も高騰しやすい物資だけを意図的に留め置き、山の監視所が本格的に危機に陥って『いくらでも払うから売ってくれ』と泣きついてくるのを待っているのですわ。見下げ果てた値上げ工作です」
ヴェラの鋭い指摘に、商人の顔役がチッと舌打ちをした。
「……証拠もないのに、商人の名誉を傷つけるおつもりか? 元娼館の女の妄言など、誰も信じやしませんぞ」
「あら、証拠ならここにありますわよ」
ヴェラが目配せをすると、隣にいたミラが、自分の背丈ほどもある分厚い記録用紙の束を抱えて前に出た。
「あ、あの……」
ミラは商人たちの威圧的な視線に少し肩を震わせたが、その小さな声は、はっきりと広場に響いた。
「この宿場に留め置かれている、馬車三十四台分の所有者の名前と、積荷の正確な内容……そして、フォルクハルト領と交わした『納品期限の契約日』の一覧です。すべて、荷札と事前の申告書類から書き写しました。……あなた方の馬車はすべて、正当な理由なく、すでに納品期限を過ぎています」
ミラの突きつけた完璧な記録に、商人たちの顔から余裕の笑みが消え失せた。
「……ご苦労だったな、ミラ。ヴェラ殿も」
レオンが静かに進み出た。
彼はミラが作成した一覧を受け取り、懐からフォルクハルト領内における『商取引の基本契約書』の写しを取り出した。
「エルヴェ商会の一件で、王都の商人の方々は『契約』というものを軽んじる傾向があるとお見受けしました。……ですので、今一度確認しておきましょう」
レオンの冷徹な声が、泥濘んだ宿場に落ちる。
「フォルクハルト領内において、領主が『緊急事態』を宣言した場合。契約書の第七項に基づき、領内の全商人には『非常時物資の優先供出』が義務付けられています」
レオンは銀細工のペンで、契約書のその項目を強く叩いた。
「あなた方はすでに納品期限を違反している。その上で、目前に迫る魔物の危機を知りながら、利益のために意図的な抱え込みを続けた」
商人たちが、互いに顔を見合わせる。
レオンはそこで、淡々と次の紙を差し出した。
「このまま荷を動かさないのであれば、契約違反に基づく違約金を請求します。さらに、領主権限により、前線防衛に必要な物資を適正価格で強制買い上げます。悪質な妨害が確認された商人については、領内商取引資格の停止も検討しますが……よろしいですね?」
違約金、強制買い上げ、そして商取引資格の停止。
法と契約に基づく冷酷な宣告に、値上がりを期待して荷を止めていた商人たちの顔が、一瞬にして真っ青になった。
「ま、待て! わかった、今すぐ荷を出す! おい、お前ら早く馬車を出せ!」
顔役の商人が悲鳴のように叫ぶと、広場にいた御者たちが慌てふためいて馬車に飛び乗り、泥に沈んでいた車輪を必死に動かし始めた。
契約の罠と記録の網によって、商人の強欲な補給停止は、一滴の血も流れることなくあっけなく粉砕されたのだ。
「見事だったわ、みんな。これで監視所への物資は確保できたわね」
私が安堵の息をついて振り返ると、しかし、レオンの表情は晴れていなかった。
「……物資の確保には成功しました。しかし、アメリア様」
レオンは動き始めた重そうな荷馬車の列を見つめ、静かに首を振った。
「彼らが無駄にした時間のせいで……あの重い荷馬車を、雪解けのぬかるんだ山道で引かせていては、監視所の備蓄が尽きる『二日後』には、到底間に合いません」
「……えっ」
補給の滞りは解消した。
だが、あの強欲な商人たちが引き起こした空白の時間は、魔物の群れが迫る中、前線の兵士たちが生き延びるための決定的な『時間的猶予』を、すでに奪い去ってしまっていたのだ。




