第34話 進む道ではなく、戻る道
フォルクハルト辺境伯邸の大会議室は、緊迫した熱気に包まれていた。
「監視所の備蓄が二日しか持たないというなら、猶予はありません! 全兵力を結集した討伐隊を即刻山へ向かわせ、魔物の群れを正面から叩き潰すべきです!」
若い小隊長の一人が、机を叩いて声を張り上げる。
彼に同調するように、何人かの血気盛んな騎士たちが「その通りだ」「魔物を麓へ下ろす前に、山中で殲滅すべきだ」と口々に主張した。
彼らの意見は、勇ましく、ある意味で正論のようにも聞こえる。
王都の騎士たちが好むような『華々しい武勲』を求める空気が、会議室を支配しつつあった。
「……討伐部隊の派遣は、下策です」
その熱狂に冷水を浴びせるように、重く低い声が響いた。
声の主は、会議室の隅で静かに状況を見守っていた、足を負傷している元騎士・ガレスだった。
「なんだと? 魔物が迫っているのに、戦わずにどうするというのだ!」
「戦うなとは言っていません。ですが、優先順位が逆だと言っているのです」
ガレスは杖をついてゆっくりと進み出ると、机の上に広げられた北方山脈の古い地図を指差した。
「今は雪解けの時期です。山脈の急斜面は地盤が緩んでおり、大規模な討伐隊が動き回り、魔法や剣撃の衝撃を加えれば、容易に雪崩や落石を誘発します。魔物を倒す前に、自滅する可能性が高い」
「それは……!」
「それに、魔物の群れは『異常移動』をしているのでしょう? 相手の目的や規模が不透明なまま正面からぶつかれば、必ず被害が拡大します。……私たちが今、何よりも先に確保すべきは、敵を倒すための道ではありません。『人を連れて帰るための道』です」
ガレスの主張に、会議室が一瞬静まり返り、すぐに嘲笑と反発の声が上がった。
「戦わずして逃げ道を用意しろと言うのか!」
「だから貴様は、王都の騎士団で『臆病者』と笑われて辺境に左遷されたのだ! 元騎士のくせに、誇りというものがないのか!」
若い兵士の心無い罵倒に、ガレスは表情一つ変えなかった。
彼が王都で理不尽に嘲笑われてきた過去。
その痛みを彼は、ただ静かに飲み込んでいる。
「ガレス」
私は彼らの野次を冷ややかな視線で黙らせ、地図を見つめる老練な元騎士に声をかけた。
「あなたの『撤退計画』を、具体的に聞かせてちょうだい」
「……はっ」
ガレスは私の信頼に応えるように頷き、地図の上に赤いインクで次々と印をつけ始めた。
「まず、群れの進行経路と予測される雪崩の危険地帯を完全に避け、この旧山道を『撤退専用の退き道』として確保します。目印として等間隔に赤布を結びつけ、迷いやすい分岐点には誘導の兵を配置します」
彼のペンは迷うことなく、地図の上に安全な線を描き出していく。
「次に、体力のない村人や負傷者を休ませるための『一時休憩地点』を、この岩陰と洞窟の二箇所に設置します。ここに防寒具とニコ殿の小型暖房具を事前に配置し、凍死を防ぐ。……そして、後衛が魔物を引きつけている間に、足の遅い者から順番に麓へと降ろしていく。これが、被害を最小限に抑えるための撤退の青写真です」
それは、ただ逃げるだけの計画ではなかった。
地形を熟知し、人間の体力と恐怖の限界を計算し尽くし、幾多の修羅場を生き残ってきた者にしか描けない、完璧で冷徹な『逃がすための戦術』だった。
(王都の連中は、これのどこが臆病だと言うのよ)
私は、ガレスの背負ってきた経験の重さに感嘆した。
勝つ道を作る者は多い。
だが、誰一人として欠かすことなく『帰ってくる道』を作れる人間は、彼しかいない。
「……決定よ」
私は立ち上がり、会議室に集まった全指揮官に向けて宣言した。
「正面からの大規模討伐は行いません。ガレスの撤退計画を最優先とし、監視所の兵と山の村人たちを安全に麓へ降ろすことを第一の目的とします。私たちがすべきは、魔物の数を減らすことではなく、領民と兵士の命を一つも欠かさずに連れ帰ることよ」
私の決断に、若い兵士たちは不満げに顔を見合わせたが、領主代行の命令には逆らえず、渋々ながらも準備のために動き始めた。
「アメリア様。……私の案を、信じてくださるのですね」
「ええ。あなたを救援隊の訓練役に選んだのは私よ。……頼りにしているわ、ガレス」
私が微笑むと、ガレスは深く頭を下げた。
だが、私たちが生き残るための最善の道筋を固めようとしていた、まさにその時だった。
「た、大変です! アメリア様!」
会議室の扉が開き、警備隊長が真っ青な顔をして飛び込んできた。
「どうしたの、今から部隊を編成するところよ」
「そ、それが……! 春市の警備応援として、王都から派遣されてきていた騎士団の『先遣隊』が、こちらの制止を振り切って、すでに出立してしまったとのことです!」
「なんだって……!?」
警備隊長の報告に、ガレスが鋭く反応する。
「王都の騎士たちは、『辺境の臆病な撤退計画など待っていられない。我々が華々しい武勲を上げてやる』と息巻き……すでに魔物が蠢く山中へ突入し、現在、完全に連絡が途絶えました!」
最悪の報告だった。
ガレスがもっとも危惧していた『武勲を焦った無謀な突撃』が、最悪のタイミングで引き起こされてしまったのだ。
「……王都の馬鹿どもめ」
私はギリッと奥歯を噛み締めた。
魔物の群れに加え、今度は無謀な王都の騎士たちまでをも、あの危険な雪山から生きて連れ帰らなければならなくなったのだ。




