第25話 春市の小火
その日の夕刻。
空が薄暗くなり始めた頃、けたたましい鐘の音が春市の熱気を引き裂いた。
「火事だ! 市場の端、商人宿の裏手から火が出たぞ!」
報告を受けるなり、私は即座に執務室を飛び出した。
レオンとニコ、そして記録係のミラたちを連れ、煙が立ち上る現場へと急行する。
幸いにも大火事には至っていなかったが、木造の仮設宿と職人長屋が隣接する区画だ。
春の乾燥した風に煽られれば、一気に燃え広がり、多くの命に関わる事態になりかねない。
「ガレス! 風下の天幕を今すぐ解体して! 燃え移りそうな荷車は道の反対側へ!」
「承知!」
ガレスは杖を突きながらも、現場の若者たちへ鋭く指示を飛ばした。
「お前たちは水桶を列で回せ! そっちは天幕の杭を抜け! 風下に人を立たせるな、煙を吸って倒れるぞ!」
戦場で生き残る道を知る男は、火事場でも冷静だった。
突撃ではなく、被害を広げないための動き。
彼の声に従い、若者たちは燃えかけた天幕を素早く畳み、商人宿の周囲から可燃物を遠ざけていく。
「診療所の者は負傷者の確認を! ミラ、現場にいた人の証言を順に記録して!」
「は、はいっ!」
私が指示を飛ばす横で、レオンは火元に飛び込むのではなく、燃え残った床板と周囲の品を冷静に見比べていた。
焼け焦げた販売札。
宿の帳場に残された購入記録。
火元の位置。
そして、黒く煤けた床の中央に転がる金属の箱。
彼はそれらを一つずつ確認し、証拠として保全するよう護衛に指示した。
「アメリア様。延焼はガレス殿が抑えています。火元は商人宿の奥、暖房具が置かれていた床板付近です」
レオンが手袋をはめた手で、焦げた木板と、その上に転がっていた『ある物』を示した。
高熱によって無惨にひしゃげ、内部の魔石が黒く焼け焦げている金属の箱。
それは間違いなく、今日、エルヴェ商会が『王都認証品』として春市で飛ぶように売り捌いていた、あの粗悪な暖房具だった。
「ひどい……」
ニコが、ひしゃげた魔導具を見て顔を覆った。
熱を逃がすための安全弁を持たないその欠陥品は、使用者が魔力を込めすぎた結果、内部で急激に過熱し、魔力暴走を起こして発火したのだ。
「一体何の騒ぎですかな!」
人だかりをかき分け、エルヴェ商会の恰幅の良い代理人が足早に現れた。
彼は焼け焦げた商人宿の床板と、レオンが保全させた魔導具を一瞥するなり、大げさに顔をしかめてみせた。
「これはひどい。だが、我々エルヴェ商会には一切関係のないことですな!」
「関係ない? これがあなたの商会が売っていた暖房具であることは、販売札にも購入記録にも残っているわよ」
私が冷たく言い放つと、代理人は鼻で笑い、私の隣にいたニコを指差した。
「冗談を。王都の厳正な審査を通過した我々の商品が、火を噴くわけがないでしょう。……どうせ、そこの三流職人が作った欠陥品が原因に決まっています。我々の国定商品に似せた、粗悪な模倣品を配って回るからこんな事故が起きるのだ」
息を吐くような、見事なまでの責任転嫁だった。
「な……っ」
「我々は被害者ですよ、アメリア代行。このような海賊版のせいで商会の名誉を傷つけられたのですからな」
自分の設計を盗まれ、安全性を削られた粗悪品で火事を起こされた上に、その全責任まで押し付けられる。
ニコはショックのあまり顔色を失い、その場に崩れ落ちそうになった。
自分の技術が人を傷つけるものとして扱われたことが、根からの職人である彼にとってどれほど辛いことか。
「……見事な逃げ口上ですこと」
ヴェラが扇子で口元を隠しながら、隣にいるミラへ小さく囁いた。
「ミラ。今の発言、商会が『これは自分たちの商品ではなく、ニコの作った盗作品である』と明言したこと、一言一句違わず記録に残しておきなさいな」
「は、はいっ……!」
ミラが震える手で、必死に議事録へペンを走らせる。
レオンもまた、代理人の言葉を逃さず書き留めていた。
怒鳴り返すのではなく、敵自身の言葉を証拠として積み上げるために。
「……ニコ」
私は、うつむいて震えるニコの肩を叩いた。
「アメリア様……俺……俺のせいで……」
「泣いている暇はないわよ。あなたは職人でしょう」
私は彼を、可哀想な被害者として甘い言葉で慰めることはしなかった。
「外を見てみなさい。火事は収まったけれど、宿を追い出された商人や子どもたちが、寒空の下で凍えているわ。……本物の職人なら、あなたの『消えない火』で彼らを温めてきなさい」
私の言葉に、ニコはハッと顔を上げた。
彼は涙を乱暴に拭うと、自分が持ってきた『安全弁付きの暖房具』の試作品と予備の数台を抱え、避難者たちが集まる広場へと走っていった。
「さあさあ、こっちへ来てください! これは絶対に火を噴いたりしませんから!」
ニコが魔力を込めると、本物の暖房具は、ジンワリとした安定した温もりを放ち始めた。
大きな広間を一瞬で暖めるような派手な炎ではない。
けれど、寒さに震えていた子どもたちの真っ赤な指先を優しく包み込み、決して彼らを傷つけることのない、確かな温もりがそこにあった。
「ああ、あったかい……」
「坊主、ありがとうよ」
避難していた老人や商人たちが、ニコの手を握って安堵の息を漏らす。
自分の技術で人が救われる光景を見て、ニコの目から再び大粒の涙がこぼれ落ちた。
けれどそれは、先ほどの絶望の涙とは違う、職人としての誇りを取り戻した涙だった。
「……感動的な茶番ですな」
その光景を冷ややかに見下ろしながら、エルヴェ商会の代理人が忌々しげに吐き捨てた。
「だが、事故の責任は追求させてもらいますぞ。我々商会の名誉を傷つけた補償として……そこの職人が持っている盗作商品の『設計権』をすべて、我がエルヴェ商会へ無償で譲渡していただこうか」
火事の責任を押し付けた上で、本物の権利まで堂々と奪い取ろうとする、底なしの強欲。
王都の商会という巨大な怪物が、ついにその牙を完全に剥き出しにして私たちに襲いかかってきた。




