第19話 空箱のまま帰る副使
「さあ、王都の命令に従い、その台帳を早くこの箱へ入れなさい。拒否すれば、反逆と見なしますぞ」
ハーゼン副使の事務的で冷え切った脅しが、応接室に響き渡った。
彼は王都の権限という絶対の盾に守られていると信じ切っている。令状の文言など、辺境の田舎貴族を黙らせるための紙切れ程度にしか思っていないのだ。
「……反逆、ですか」
私は小さく息を吐き、コートの懐から二つのものを取り出した。
一つは、羊皮紙に記された『父の委任状』。
もう一つは、フォルクハルト辺境伯家の当主のみが持つことを許される、重厚な『印章』だ。
私はそれらを、ハーゼンの用意した立派な木箱の横に、静かに、しかしはっきりとした音を立てて置いた。
「王都財務院の決定は、確かに重いものでしょう。けれど、この領地の正式な記録の持ち出しを許可できるのは、辺境伯の正当な代行権限を持つ私だけです。そして私は、令状の範囲を超える不当な要求には一切応じません」
「小娘……! 本気で王都に逆らう気か!」
ハーゼンの冷静な仮面が剥がれ、苛立ちに顔を歪めた。
だが、彼を追い詰めるのは私だけではない。
「アメリア様の仰る通りです。令状に持ち出しの権限は記載されていません」
レオンが、ハーゼンの提出した調査令状を指差して冷徹に告げた。
さらに、ハーゼンの背後にいたエレナが静かに口を開く。
「それに、王都を出発する前の事前説明とも明確に異なりますわ、ハーゼン副使。持ち出しを前提としていたのなら、なぜ我々調査団の面々にすら、その事実を伏せていたのですか?」
「エレナ様! 貴女は王都側の人間でしょう。なぜそちらに加担するのです!」
ハーゼンが声を荒らげるが、エレナは涼涼とした顔で「私は事実を申し上げているだけです」と返した。
彼女は悪女ではない。正しい手続きと事実を重んじる、公爵令嬢としての矜持を持っているのだ。
「……もう、言い逃れはできませんよ」
部屋の隅から、震える、けれど芯のある小さな声が響いた。
ミラだった。
彼女は自分が書き起こした議事録を、両手でしっかりと握りしめていた。
「ハーゼン副使が、令状の不備を指摘された後……『些末な文言などどうでもいい』『王都の権限が法だ』と発言し、強引に台帳を箱に入れさせようとしたこと。……一言一句、すべて、記録に残っています。この議事録は、すでに複写を作成済みです」
声は小さくても、彼女が突きつけたのは『動かぬ証拠』だ。
もしこの記録が正規の手続きで王都の監察局などに回れば、令状を無視して強権を発動したハーゼン自身が、越権行為で裁かれることになる。
「チッ……!」
完全に逃げ道を塞がれたハーゼンは、忌々しげに舌打ちをした。
「……覚えておけ。このまま済むと思うなよ」
彼は恨みがましい目で私たちを睨みつけると、従者から例の立派な『空箱』を引ったくり、自らそれを脇に抱えて、足早に応接室から退散していった。
王都の威信を笠に着て、不都合な物証を奪い去ろうとした調査団の副使は、結局何も入れることのできない空箱を抱えたまま、惨めに引き下がるしかなかった。
その日の夜。
騒動が落ち着き、静寂を取り戻した辺境伯邸で、私は執務室の隣の小部屋を覗いた。
レオンはランプの灯りの下で、黙々と台帳に向かっていた。
だが、彼の様子はどこかおかしかった。いつもなら恐ろしいほどのスピードで数字を処理していく彼の手が、同じページの上で何度も止まっている。
カリッ……バキッ。
鈍い音がして、レオンが持っていたペンの先が真っ二つに割れた。
無意識のうちに、ペンを握る手に強すぎる力がこもっていたのだ。
彼は割れたペン先を呆然と見つめ、小さくため息をつくと、顔を覆うようにして俯いた。
(……引きずっているのね)
私は扉の陰から、彼のその不器用な背中を見つめた。
昼間、エレナに対して言葉を見つけられず、謝罪を言いかけて止まってしまったこと。自分が彼女を傷つけたという事実と、それをどう修復すればいいのかわからないという、彼自身の欠落に対する苛立ち。
胸の奥が、小さく痛む。
私に向けられる彼の言葉は、いつだって計算効率や生存率といった、感情の抜け落ちた数字の話ばかりだ。それでも、あの黒パンや暖石に込められた不器用な優しさを、私は知っている。
私は彼を慰めるために、甘い言葉をかけるつもりはなかった。
彼が向き合うべき課題を、私が奪ってはいけないからだ。
私は執務室へ戻り、引き出しの中から『新しいペン』と、数字の書かれていない『真っ白な紙』、そして冷え切った部屋でも書きやすいように『温めたインク』を用意した。
それらをトレイに乗せ、レオンの部屋へ入る。
「アメリア様……?」
「ペンが割れた音がしたから。予備を持ってきたわ」
私は彼の机の端に、トレイをそっと置いた。
「ありがとうございます。……計算に集中できず、不要な力を込めてしまいました。お恥ずかしい限りです」
「いいのよ。たまには、数字以外のことを考えて手が止まるのも、悪いことじゃないわ」
私は真っ白な紙を、台帳の横に一枚だけ置いた。
「……これは?」
「今はまだ、何も書かなくていいわ。でも」
私は彼の目を見つめ、静かに微笑んだ。
「いつか、数字だけでなく……言葉も書けるようになるといいわね」
それは、領主代行からの命令ではなく。
不器用な彼が、いつか自分の言葉を見つけられるようにと願う、私からの小さな気遣いだった。
レオンは机に置かれた白紙と新しいペンを見つめ、それから、静かに目を見開いた。
ハーゼンを退け、台帳は守り抜いた。
けれど、王都が空箱を用意してまであの『赤い訂正印』と『北七号』を隠滅しようとした事実が、私たちの背後に迫る陰謀の深さを、より一層不気味に際立たせていた。




