第14話 元婚約者は悪女ではなかった
ハーゼン副使ら調査団の面々が明日の準備のために離席し、応接室には私とレオン、そしてエレナ・ロシュフォールの三人だけが残された。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、不自然なほど大きく聞こえる。
沈黙を破ったのは、ソファに浅く腰掛けたエレナだった。
「……突然の訪問で驚かせてしまい、申し訳ありません。ですが、どうしてもレオン様の無事を、この目で確かめたかったのです」
彼女は膝の上で手袋を重ねたまま、俯き加減で静かに語り始めた。
「王都の噂は、ひどいものでしたから。極寒の辺境で惨めに野垂れ死にしているのではないかと、ずっと恐れていました」
「心配には及びません」
レオンが、硬い声で答えた。
「私は現在、アメリア様の補佐官として、ここで席を与えられています。野垂れ死にする予定はありません」
「……ええ。お元気そうで、本当によかったです」
エレナは少しだけ悲しげに微笑み、それから、ゆっくりと顔を上げた。
「私は、あなたを恨みに来たわけではありません、レオン様。……あなたが私に対して、決して不誠実な振る舞いをしなかったことは、私が一番よくわかっていますから」
エレナの言葉に、私は少しだけ意外に思い、彼女を見つめた。
王都の噂では、レオンは婚約者を散々泣かせた冷血漢だと言われていた。だが、当事者であるエレナの口から出たのは、怨嗟の言葉ではなかった。
「あなたは浮気もしなかった。手を上げるようなことも、私の家を見下すような真似も、決してしませんでした。あなたはいつも礼儀正しく、約束の時間は守り、贈るべき日には花を贈ってくれました」
エレナは一つ息を吐き、きつく手袋を握りしめた。
「けれど……私は、あなたの隣にいるのに、いつも一人でした」
痛切な、悲鳴のような告白だった。
「私が不安で泣いている時も。心細くて言葉を求めている時も。……あなたは、何も言ってはくれませんでした。ただ黙って、私が泣き止むのを待っているだけでした」
その沈黙が、彼女をどれほど深く切り裂いたか。
甘い言葉や愛の囁きが欲しいのではない。ただ、心が折れそうな時に「大丈夫だ」と声をかけてほしかっただけなのだ。
「私にとって、あなたのその沈黙は……明確な『拒絶』でした。私はあなたに、必要とされていないのだと」
応接室の空気が、痛いほどに張り詰める。
私は胸の奥がギュッと締め付けられるような痛みを感じながら、ただ黙って彼女の言葉を聞いていた。
エレナ・ロシュフォールは、決して噂にあるような『悪女』ではなかった。
彼女は、レオンの沈黙によって本当に傷つき、孤独に震えていた一人の被害者なのだ。
そして同時に、私は思い知らされていた。
レオン・クラウゼンという男は、完全無欠の被害者ではない。
彼は確かに、数字の天才だ。人を飢えさせない仕事ができる。
だが彼は、人の感情の機微を理解し、言葉で寄り添うという機能が致命的に欠落している。
その不器用さは、時に刃となって、隣にいる人間を深く傷つけるのだと。
「……私は」
レオンの喉から、絞り出すような声が漏れた。
「私は、あなたを拒絶する意図は……」
彼は何かを言いかけて、だが、すぐに口を閉ざしてしまった。
悪意がなかったこと。それが免罪符にならないことを、彼自身の賢すぎる頭脳が理解してしまっているのだろう。
だからこそ、彼はまたしても『沈黙』という一番悪い選択肢に逃げ込もうとしている。
言い訳の言葉を持たない男。
彼がただ黙り込む姿を見て、私の胸の痛みは、嫉妬ではなく、どうしようもないもどかしさへと変わっていた。
私が彼を庇って「彼に悪意はないのよ」と口出しすることは簡単だ。だが、それは彼から過去と向き合う権利を奪うことになる。
私は領主代行として、そして彼を雇った者として、ただじっと二人の対峙を見守るしかなかった。
「……わかっています。あなたに私を傷つける意図がなかったことは。ですから私は、婚約の解消を父に相談したのです。このままではお互いが不幸になると」
エレナは静かに首を振り、そして、意を決したように私とレオンを真っ直ぐに見据えた。
「けれど……あの夜のことは、私の望んだ形ではありませんでした」
「……あの夜?」
レオンがわずかに眉をひそめる。
エレナはこくりと頷いた。
「婚約破棄の夜会です。私があなたとの婚約解消を望んだのは事実です。ですが、あのように社交界中の人間の前で大々的に吊るし上げ、あなたを徹底的に断罪し、破滅させるような真似は……私は、決して望んでいなかったのです」
エレナの言葉に、私はハッとした。
ただの痴話喧嘩による婚約破棄。それがなぜ、社交界からの『完全な抹殺』にまで膨れ上がったのか。
エレナの震える声が、その背後にうごめく不自然な悪意の存在を、はっきりと示唆していた。




