第7話 千春の夢と、選んだ人生
あの千春の事件の日から、三日が経った。
俺は駅から少し離れた住宅街を歩いていた。
夕方の光が、細い路地の奥まで斜めに差し込んでいる。駅前の喧騒はもう遠く、代わりに聞こえるのは、どこかの家から漏れるテレビの音と、自転車のブレーキが鳴る乾いた音くらいだった。
スマホの画面には、千春から送られてきた位置情報が表示されている。
その住所を頼りに角を曲がると、古い二階建てのアパートが見えた。
「ここか……」
思わず、声が漏れた。
外階段。
少し錆びた手すり。
雨風に色褪せた壁。
築年数は、かなり経っていそうだった。
丘の上にある千堂家の屋敷とは、まるで違う。
広い庭も、高い門も、磨かれた石畳もない。
そこにあるのは、生活の匂いが染みついた、どこにでもある古いアパートだった。
俺は少し迷ってから、インターホンを押した。
ピンポーン。
軽い電子音が、夕方の廊下に響く。
少しして、扉が開いた。
「いらっしゃい」
千春だった。
今日は、あの夜のドレス姿ではない。
白いTシャツにショートパンツ。
髪も軽く結んでいるだけで、化粧も薄い。
いつもの派手な雰囲気とは違う。
拍子抜けするくらい、普通の女の子みたいだった。
「どうしたの?」
千春が笑う。
「そんな顔して」
「いや……」
俺はアパートを見回した。
「千春姉ちゃん、ここに住んでるの?」
「うん」
千春はあっさり答えた。
それが当たり前みたいに。
「上がって」
促されて、俺は靴を脱いだ。
部屋はワンルームだった。
小さなテーブル。
ベッド。
簡単なキッチン。
白いカーテン。
必要なものだけがきちんと置かれた、狭いけれど清潔な部屋。
そして壁には、美容雑誌の切り抜きが貼られていた。
ヘアスタイルの写真。
化粧品のサンプル。
色ごとに並べられたリップの試供品。
棚には、美容関係の本が何冊も並んでいる。
「すごいな」
思わず言った。
「なんか、美容室みたい」
千春は少し照れたように笑った。
「好きなんだ。美容」
「へえ」
「座って」
千春は椅子を引いて、自分はベッドの端に腰を下ろした。
「私さ、美容関係の会社で働いてるの」
「え?」
「昼の仕事」
少しだけ肩をすくめる。
「キャバクラは副業」
「副業?」
驚いて聞き返すと、千春は笑った。
「お金、欲しいから」
その言い方は軽かった。
でも、軽く言うには少しだけ重い響きがあった。
千春は壁の写真を見た。
「夢があるんだ」
俺もつられて、壁の切り抜きを見る。
色とりどりの口紅。
柔らかく巻かれた髪。
誰かを綺麗にするためのものが、この小さな部屋の壁いっぱいに貼られている。
「いつか、自分の力で自分のお店を出すの」
俺は素直に言った。
「すごいじゃん」
「まあね」
千春は得意げに笑った。
けれど、その笑顔はすぐに少しだけ静かになった。
「……でも」
ぽつりと、言葉が落ちる。
「本当は、大学に行く予定だったんだけどね」
俺は黙った。
知っている。
千堂家の長女。
本来なら、何も迷わず進学していてもおかしくなかった人だ。
「私が高校生のとき、お母さんが倒れてさ」
千堂千早。
千春の母親。
五年前に病気で亡くなった人。
俺も名前だけはよく覚えている。
千春は天井を見上げた。
白い天井に、夕方の薄い光が滲んでいる。
「お父さん、忙しくてほとんど病院にも来なかった」
声は静かだった。
でも、その静けさの奥に、ずっと沈めてきたものがあるのが分かった。
「仕事、仕事でさ。最後も、看取れなかった」
何も言えなかった。
窓の外で、カラスが鳴いた。
その声が妙に遠く聞こえる。
「よく、お母さんと話してたんだ」
千春は続けた。
「この化粧水がいいとか、この口紅が可愛いとか。そんな話ばっかり。お母さん、すごく楽しそうに聞いてくれて」
千春の視線が、壁の写真に戻る。
「だから、お店の名前はもう決めてあるの」
「名前?」
「CHIHAYA」
千春は小さく笑った。
「お母さんの名前」
その一言で、この部屋に貼られた写真や、並べられた本や、試供品のひとつひとつが、違って見えた。
ただの夢じゃない。
この人にとっては、失ったものにもう一度触れるための場所なのだと思った。
「私は、その夢を早く叶えたい。だから大学には行かなかった。家も出た」
「妹たちは?」
「家政婦さんもいるし」
そこで千春は少しだけ苦笑した。
「まあ千冬の生活面は、ちょっと不安だけど」
俺は小さく笑った。
けれど、すぐに言葉が途切れる。
千春は言う。
「お父さんのことは、尊敬してる」
その声に嘘はなかった。
「お父さんに頼れば、きっと簡単に叶えられる。お店だって、場所だって、お金だって、何とかしてくれると思う」
そこで、千春は自分の膝の上で指を組んだ。
「でも、頼りたくなかった」
静かな決意だった。
「全部、自分の力でやりたい」
俺はゆっくり頷いた。
「千春姉ちゃんらしい」
「でしょ?」
千春は笑った。
さっきより少しだけ、いつもの調子に戻っていた。
そして立ち上がる。
「コーヒー飲む?」
「うん」
キッチンで、お湯を沸かす音がした。
小さな部屋に、電気ケトルの低い音が満ちる。
俺はもう一度、部屋を見回した。
あの夜の千春とは違う。
派手なドレスも、強い香水も、作った笑顔もない。
ここにいるのは、自分の夢のために働いて、狭い部屋で生活して、壁に未来の欠片を貼っている、一人の女の子だった。
千春がカップを二つ持って戻ってくる。
「はい」
「ありがとう」
カップを受け取ると、指先に熱が伝わった。
コーヒーの香りが、部屋の空気に広がる。
少し苦くて、落ち着く匂いだった。
一口飲む。
熱さが喉を通って、胸の奥に落ちていく。
そのとき、千春が俺の顔を覗き込んだ。
「玲くんさ」
「何?」
「なんかさ」
少し笑う。
「急に男っぽくなったよね」
「え?」
「この前」
千春の声が、少しだけ柔らかくなる。
「私のこと、守ろうとしてくれたじゃん」
言葉に詰まった。
千春の死。
腕の中で血が広がっていく感触。
思い出した瞬間、胸の奥がざわついた。
千春が近づく。
「ねえ」
距離が近い。
さっき飲んだコーヒーの香りと、千春の髪からする甘い匂いが混ざる。
潤んだ唇。
漏れる息。
心臓が、嫌なほど大きく鳴った。
「玲くん」
「な、なんだよ」
「私さ、玲くんに助けてもらったんだよね」
千春の人差し指が、俺の胸のあたりを軽くなぞる。
布越しなのに、そこだけ熱を持ったみたいだった。
「だからさ」
千春の手が、俺の手に触れる。
柔らかい感触。
「お礼がしたいな」
「……は?」
千春が顔を近づける。
「キスしてあげる」
「ちょっと待って!」
俺は慌てて立ち上がった。
椅子の脚が床を鳴らす。
千春がきょとんと目を丸くした。
「え?」
「いやいや!」
「ダメだろ!」
その瞬間、千春が吹き出した。
「あはは! 冗談だよ! びっくりした?」
俺は深くため息をついた。
「ああ。心臓止まるかと思った」
「もう。可愛いんだから」
「からかうなよ……」
千春は笑っていた。
本当に楽しそうに。
その笑顔を見ていたら、不意に記憶がよみがえった。
千堂家の庭。
夏の夕方。
俺は確か、友達と喧嘩して負けた。
悔しくて、でも誰にも泣いているところを見られたくなくて、庭の隅で一人、膝を抱えていた。
蝉の声がうるさかった。
夕焼けが庭の芝を赤く染めていた。
そのとき、千春が来た。
高校の制服を着た千春。
今より少し幼くて、それでも俺から見れば十分大人だった。
彼女は何も聞かず、俺の隣にしゃがんだ。
そして、ぽんと頭を撫でた。
「大丈夫。玲くんは将来、絶対いい男になるよ」
そう言って、笑った。
そのまま、俺を抱きしめてくれた。
柔らかかった。
いい匂いがした。
母親とは全然違う。
でも、胸の奥がほどけるような安心感があった。
子どもだった俺は、何も言えなかった。
ただ、千春の制服の布を握って、泣いていないふりをした。
それが、たぶん。
俺の初恋だった。
この人は、昔からずっとこうだった。
優しくて。
少し無責任で。
人の心に平気で踏み込んでくる。
なのに、どうしようもなく、人を好きにさせる人だ。
「そういえば」
俺はカップを置いた。
「千春姉ちゃん」
「何?」
「久しぶりにさ」
少しだけ迷ってから、言った。
「俺、千堂家に行きたい」
千春が瞬きをする。
「え、実家?」
「うん」
「急にどうしたの?」
「千夏とか」
その名前を口にした瞬間、胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。
次は千夏が死にます。
千冬の声が、頭の奥で蘇る。
「千秋とか」
俺は続けた。
「みんな元気かなって」
千春は少し考えた。
それから、ふっと笑う。
「そっか」
その笑顔には、少しだけ懐かしさが混じっていた。
「うん。いいよ。たぶん今日はみんな家にいると思うし」
「本当か?」
「うん」
千春は立ち上がった。
白いTシャツの裾を軽く直しながら、明るく言う。
「じゃあ行こっか」
そして、少しだけ照れたように笑った。
「久しぶりに、家族に会いに」




