表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/58

第7話 千春の夢と、選んだ人生

あの千春の事件の日から、三日が経った。


俺は駅から少し離れた住宅街を歩いていた。


夕方の光が、細い路地の奥まで斜めに差し込んでいる。駅前の喧騒はもう遠く、代わりに聞こえるのは、どこかの家から漏れるテレビの音と、自転車のブレーキが鳴る乾いた音くらいだった。


スマホの画面には、千春から送られてきた位置情報が表示されている。


その住所を頼りに角を曲がると、古い二階建てのアパートが見えた。


「ここか……」


思わず、声が漏れた。


外階段。


少し錆びた手すり。


雨風に色褪せた壁。


築年数は、かなり経っていそうだった。


丘の上にある千堂家の屋敷とは、まるで違う。


広い庭も、高い門も、磨かれた石畳もない。


そこにあるのは、生活の匂いが染みついた、どこにでもある古いアパートだった。


俺は少し迷ってから、インターホンを押した。


ピンポーン。


軽い電子音が、夕方の廊下に響く。


少しして、扉が開いた。


「いらっしゃい」


千春だった。


今日は、あの夜のドレス姿ではない。


白いTシャツにショートパンツ。


髪も軽く結んでいるだけで、化粧も薄い。


いつもの派手な雰囲気とは違う。


拍子抜けするくらい、普通の女の子みたいだった。


「どうしたの?」


千春が笑う。


「そんな顔して」


「いや……」


俺はアパートを見回した。


「千春姉ちゃん、ここに住んでるの?」


「うん」


千春はあっさり答えた。


それが当たり前みたいに。


「上がって」


促されて、俺は靴を脱いだ。


部屋はワンルームだった。


小さなテーブル。


ベッド。


簡単なキッチン。


白いカーテン。


必要なものだけがきちんと置かれた、狭いけれど清潔な部屋。


そして壁には、美容雑誌の切り抜きが貼られていた。


ヘアスタイルの写真。


化粧品のサンプル。


色ごとに並べられたリップの試供品。


棚には、美容関係の本が何冊も並んでいる。


「すごいな」


思わず言った。


「なんか、美容室みたい」


千春は少し照れたように笑った。


「好きなんだ。美容」


「へえ」


「座って」


千春は椅子を引いて、自分はベッドの端に腰を下ろした。


「私さ、美容関係の会社で働いてるの」


「え?」


「昼の仕事」


少しだけ肩をすくめる。


「キャバクラは副業」


「副業?」


驚いて聞き返すと、千春は笑った。


「お金、欲しいから」


その言い方は軽かった。


でも、軽く言うには少しだけ重い響きがあった。


千春は壁の写真を見た。


「夢があるんだ」


俺もつられて、壁の切り抜きを見る。


色とりどりの口紅。


柔らかく巻かれた髪。


誰かを綺麗にするためのものが、この小さな部屋の壁いっぱいに貼られている。


「いつか、自分の力で自分のお店を出すの」


俺は素直に言った。


「すごいじゃん」


「まあね」


千春は得意げに笑った。


けれど、その笑顔はすぐに少しだけ静かになった。


「……でも」


ぽつりと、言葉が落ちる。


「本当は、大学に行く予定だったんだけどね」


俺は黙った。


知っている。


千堂家の長女。


本来なら、何も迷わず進学していてもおかしくなかった人だ。


「私が高校生のとき、お母さんが倒れてさ」


千堂千早。


千春の母親。


五年前に病気で亡くなった人。


俺も名前だけはよく覚えている。


千春は天井を見上げた。


白い天井に、夕方の薄い光が滲んでいる。


「お父さん、忙しくてほとんど病院にも来なかった」


声は静かだった。


でも、その静けさの奥に、ずっと沈めてきたものがあるのが分かった。


「仕事、仕事でさ。最後も、看取れなかった」


何も言えなかった。


窓の外で、カラスが鳴いた。


その声が妙に遠く聞こえる。


「よく、お母さんと話してたんだ」


千春は続けた。


「この化粧水がいいとか、この口紅が可愛いとか。そんな話ばっかり。お母さん、すごく楽しそうに聞いてくれて」


千春の視線が、壁の写真に戻る。


「だから、お店の名前はもう決めてあるの」


「名前?」


「CHIHAYA」


千春は小さく笑った。


「お母さんの名前」


その一言で、この部屋に貼られた写真や、並べられた本や、試供品のひとつひとつが、違って見えた。


ただの夢じゃない。


この人にとっては、失ったものにもう一度触れるための場所なのだと思った。


「私は、その夢を早く叶えたい。だから大学には行かなかった。家も出た」


「妹たちは?」


「家政婦さんもいるし」


そこで千春は少しだけ苦笑した。


「まあ千冬の生活面は、ちょっと不安だけど」


俺は小さく笑った。


けれど、すぐに言葉が途切れる。


千春は言う。


「お父さんのことは、尊敬してる」


その声に嘘はなかった。


「お父さんに頼れば、きっと簡単に叶えられる。お店だって、場所だって、お金だって、何とかしてくれると思う」


そこで、千春は自分の膝の上で指を組んだ。


「でも、頼りたくなかった」


静かな決意だった。


「全部、自分の力でやりたい」


俺はゆっくり頷いた。


「千春姉ちゃんらしい」


「でしょ?」


千春は笑った。


さっきより少しだけ、いつもの調子に戻っていた。


そして立ち上がる。


「コーヒー飲む?」


「うん」


キッチンで、お湯を沸かす音がした。


小さな部屋に、電気ケトルの低い音が満ちる。


俺はもう一度、部屋を見回した。


あの夜の千春とは違う。


派手なドレスも、強い香水も、作った笑顔もない。


ここにいるのは、自分の夢のために働いて、狭い部屋で生活して、壁に未来の欠片を貼っている、一人の女の子だった。


千春がカップを二つ持って戻ってくる。


「はい」


「ありがとう」


カップを受け取ると、指先に熱が伝わった。


コーヒーの香りが、部屋の空気に広がる。


少し苦くて、落ち着く匂いだった。


一口飲む。


熱さが喉を通って、胸の奥に落ちていく。


そのとき、千春が俺の顔を覗き込んだ。


「玲くんさ」


「何?」


「なんかさ」


少し笑う。


「急に男っぽくなったよね」


「え?」


「この前」


千春の声が、少しだけ柔らかくなる。


「私のこと、守ろうとしてくれたじゃん」


言葉に詰まった。


千春の死。


腕の中で血が広がっていく感触。


思い出した瞬間、胸の奥がざわついた。


千春が近づく。


「ねえ」


距離が近い。


さっき飲んだコーヒーの香りと、千春の髪からする甘い匂いが混ざる。


潤んだ唇。


漏れる息。


心臓が、嫌なほど大きく鳴った。


「玲くん」


「な、なんだよ」


「私さ、玲くんに助けてもらったんだよね」


千春の人差し指が、俺の胸のあたりを軽くなぞる。


布越しなのに、そこだけ熱を持ったみたいだった。


「だからさ」


千春の手が、俺の手に触れる。


柔らかい感触。


「お礼がしたいな」


「……は?」


千春が顔を近づける。


「キスしてあげる」


「ちょっと待って!」


俺は慌てて立ち上がった。


椅子の脚が床を鳴らす。


千春がきょとんと目を丸くした。


「え?」


「いやいや!」


「ダメだろ!」


その瞬間、千春が吹き出した。


「あはは! 冗談だよ! びっくりした?」


俺は深くため息をついた。


「ああ。心臓止まるかと思った」


「もう。可愛いんだから」


「からかうなよ……」


千春は笑っていた。


本当に楽しそうに。


その笑顔を見ていたら、不意に記憶がよみがえった。


千堂家の庭。


夏の夕方。


俺は確か、友達と喧嘩して負けた。


悔しくて、でも誰にも泣いているところを見られたくなくて、庭の隅で一人、膝を抱えていた。


蝉の声がうるさかった。


夕焼けが庭の芝を赤く染めていた。


そのとき、千春が来た。


高校の制服を着た千春。


今より少し幼くて、それでも俺から見れば十分大人だった。


彼女は何も聞かず、俺の隣にしゃがんだ。


そして、ぽんと頭を撫でた。


「大丈夫。玲くんは将来、絶対いい男になるよ」


そう言って、笑った。


そのまま、俺を抱きしめてくれた。


柔らかかった。


いい匂いがした。


母親とは全然違う。


でも、胸の奥がほどけるような安心感があった。


子どもだった俺は、何も言えなかった。


ただ、千春の制服の布を握って、泣いていないふりをした。


それが、たぶん。


俺の初恋だった。


この人は、昔からずっとこうだった。


優しくて。


少し無責任で。


人の心に平気で踏み込んでくる。


なのに、どうしようもなく、人を好きにさせる人だ。


「そういえば」


俺はカップを置いた。


「千春姉ちゃん」


「何?」


「久しぶりにさ」


少しだけ迷ってから、言った。


「俺、千堂家に行きたい」


千春が瞬きをする。


「え、実家?」


「うん」


「急にどうしたの?」


「千夏とか」


その名前を口にした瞬間、胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。


次は千夏が死にます。


千冬の声が、頭の奥で蘇る。


「千秋とか」


俺は続けた。


「みんな元気かなって」


千春は少し考えた。


それから、ふっと笑う。


「そっか」


その笑顔には、少しだけ懐かしさが混じっていた。


「うん。いいよ。たぶん今日はみんな家にいると思うし」


「本当か?」


「うん」


千春は立ち上がった。


白いTシャツの裾を軽く直しながら、明るく言う。


「じゃあ行こっか」


そして、少しだけ照れたように笑った。


「久しぶりに、家族に会いに」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ