第6.5話 あの日、彼女は俺をかばって死んだ
その日、玲は夢を見ていた。
最近、よく見るあの悪夢を。
三月。
雨だった。
交差点。
赤信号。
濡れたアスファルトが、暗い空を鈍く反射している。水たまりの表面が、わずかに揺れる。
玲は横断歩道の手前に立っていた。
冷たい雨が頬を打つ。傘はない。雨粒が濡れた髪を額に張り付かせ、視界を少しだけぼやけさせる。
なぜここにいるのか。
分からない。
分からないはずなのに。
この場所を、知っている気がした。
胸の奥が、ざわつく。
……ここは。
言葉にならない。
思い出せない。
でも、何かが起きると、分かっていた。
そのときだった。
遠くで、エンジン音がした。
低く、唸るような音。
タイヤが滑る。
キィイイイ、と耳障りなブレーキ音が夜の街に響き渡る。
玲の背筋が凍る。
視界の端で、ライトが揺れた。
その瞬間、トラックが目の前に来ていた。
「……っ!」
逃げなければいけない。
そう分かっているのに。
体が、動かない。
膝が、地面に縫い付けられたみたいだった。
その瞬間。
背中に、衝撃。
ドン、と強く押された。
玲の体が歩道へ転がる。
水たまりに倒れ込む。顔に冷たい水しぶきが跳ねた。
次の瞬間。
轟音。
金属がぶつかる音。
ガラスの砕ける音。
雨の中で。
何かが、壊れる。
玲は顔を上げた。
視界が、ぼやけている。
雨粒の向こうで、世界の輪郭が滲んで見えた。
それでも、見た。
そこに――
少女が倒れていた。
雨に濡れた黒髪。
白い肌。
ピンクのワンピースが、ゆっくりと赤に染まっていく。
玲の呼吸が止まる。
……知っている。
心臓が、強く鳴る。
……俺はこの子を。
名前が、喉まで出かかる。
けれど、文字にならない。
玲はふらつきながら立ち上がる。
足がもつれる。
地面に手を突き、無理やり体勢を立て直す。
それでも、近づく。
少女が、ゆっくりと目を開けた。
その瞳が、玲を見つめる。
どこか安心したように。
そして――
小さく、笑った。
「……よかった」
玲の胸が、強く締めつけられる。
少女は、かすれた声で言う。
「玲……」
その名前を呼ばれた瞬間。
何かが、弾けた。
胸の奥で、ずっと閉じ込められていた何かが、ゴムが切れたみたいに一気に溢れ出す。
「……っ」
息が詰まる。
頭が痛い。
けれど、視線を逸らせない。
少女は続ける。
「これで……」
言葉が途切れる。
呼吸が浅い。
肩が、わずかに上下している。
それでも、無理に言葉を紡ぐ。
「やっと……終われる」
玲は首を振る。
やめろ。
そう言いたかったのに、声が出ない。
少女は、少しだけ目を細める。
優しく。
どこか、寂しそうに。
そして。
「……ねえ」
玲を見る。
まっすぐに。
その瞳の奥には、雨空が映っていた。
「ここからは――」
一瞬だけ、言葉が止まる。
雨音が、わずかに遠のく。
でもすぐに、微笑んだ。
「玲の番」
玲の思考が止まる。
「……は?」
意味が分からない。
分からないはずなのに。
その言葉だけが、心の奥に深く突き刺さる。
そのとき、少女の胸元の青いペンダントが、かすかに光った。
雨の中で小さく揺れる光が、冷たい夜を、ほんの一瞬だけ柔らかく照らした。
少女は、小さく息を吐いた。
そしてその手から、力が抜ける。
ゆっくりと落ちる。
玲の腕から、温もりが遠ざかる。
「……おい」
玲の声が震える。
「おい……待てよ」
返事はない。
腕の中の重みが、どんどん軽くなっていく。
「……なんで」
喉が詰まる。
誰なんだよ……
お前は。
そのとき。
チリン。
鈴の音が鳴った。
耳の奥で。
静かに。
確かに。
世界が歪む。
空気が揺れる。
光が崩れる。
雨粒が、空中で止まったみたいに、宙に浮く。
玲は叫ぶ。
「待て!!」
手を伸ばす。
届かない。
すべてが遠ざかる。
白。
光。
そして――
玲は、目を覚ました。
天井が見えた。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
息が荒い。
心臓がうるさい。
ドクン。
ドクン。
体中から、自分の鼓動が聞こえる。
手を見る。
震えている。
そうか、夢か。
そう思おうとする。
でも違う。
はっきりと、分かる。
これは現実だ。
さっきの少女。
あの顔。
あの声。
あの笑顔。
覚えている。
忘れられるはずもない。
俺の大切な幼馴染。
玲は、ゆっくりと呟いた。
「……千咲」
その名前が、自然に口から出た。
理由は分からない。
けれど、間違っていないと、強く確信できた。
胸の奥が、熱くなる。
その熱が、体中に広がっていく。
あの言葉が、まだ残っている。
――玲の番だよ
玲は目を閉じる。
そして静かに、息を吐いた。
「……分かった」
誰に言うでもない。
けれど、確かに届くように。
「絶対に救ってやるよ」
拳を握る。
爪が手のひらに深く食い込んだ。
「何度やり直してでも」
目を開ける。
玲の瞳には、もう迷いはなかった。




