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第6話 すべては、最初の場所に戻る

「千春の死は、まだ残っています」


その言葉が、夜の空気に溶けていく前に。


千春が玲の腕を掴んだ。


指先に力がある。震えていない。


「玲くん」


「何だ」


千春が笑った。


さっきまでとは違う笑い方だった。


何かを決めた人間の顔だった。


「私、分かっちゃった」


「何が」


「私の死ぬ場所、ここじゃない」


玲の背筋が冷える。


千冬がタブレットから顔を上げた。


千春は構わず続ける。


「玲くん、最初の場所覚えてる?」


頭の奥で、映像が走った。


ネオン。


看板の光。


店の前。


男の声。


千春の横顔。


「……最初の場所」


「そこに行こう」


「なんで分かったんだ」


千春はわずかに首を傾けた。


街灯の光が、彼女の髪に落ちる。


「だって」


その声は、柔らかかった。


「物語っていつも最後は最初に戻るでしょ?」


その言葉が、頭の奥に引っかかった。


物語。


この春の繰り返しを、千春はそう呼んだ。


玲は何も言えなかった。


千春は玲の手を引く。


温かい手だった。


「行こう」


そして笑う。


「春を終わらせよう」


チリン。


遠くで鈴が鳴った。


風が止まる。


街のざわめきが一拍だけ遠のいて、また戻ってくる。


季節が、また少し動いた気がした。


ネオン街の夜は、何も変わっていなかった。


看板の光が濡れたように路面に滲んでいる。


客引きの声。


酒と香水の混ざった匂い。


何度来ても、この通りだけは同じ顔をしている。


玲と千春は、店の前に立っていた。


千春が最初に死んだ場所。


ナイフが落ちた場所。


血がアスファルトに広がった場所。


玲の体はまだその夜の感触を覚えていた。


「強烈な時間残響反応」


千冬が少し離れた場所で呟いた。


タブレットの画面が、彼女の眼鏡に青白く反射している。


「ここです」


玲は息を吐いた。


「やっぱりここか」


店のネオンが、二人の影をアスファルトに縫いつける。


赤。


青。


その光の中で、千春は正面を向いていた。


背筋が伸びている。


逃げる気がない。


そのときだった。


「千春ちゃん」


後ろから声がした。


玲の体が、音より先に反応した。


振り向く。


スーツの男が立っていた。


くたびれた上着。


崩れた襟元。


目だけが、異様に光っている。


何度見ても、慣れない目だった。


「……また来たの?」


千春の声から、感情の色が消えた。


冷たい声だった。


けれどその足は、一歩も下がらない。


男は笑う。


「当たり前だよ。だって千春ちゃんは俺のものなんだからさ」


玲は一歩前に出た。


「帰れ」


男の視線が、玲に移る。


品定めするような、ぬめるような目つきだった。


「千春ちゃん、こいつ誰?」


千春は少しだけ黙った。


玲は横目で彼女を見る。


千春は小さく息を吐いた。


「……友達」


男が笑う。


「友達? 嘘つくなよ。こいつ男だぞ」


空気が変わった。


玲は状況を把握する。


このままでは、また同じ流れになる。


男が苛立つ。


ナイフが出る。


千春が狙われる。


阻止しても、世界が別の経路で千春を殺しにくる。


「千春姉ちゃん」


玲は小さく言った。


「ん?」


「条件がある」


千春が首を傾ける。


「条件?」


「ループを終わらせる条件」


千春の目が、わずかに大きくなった。


しばらく玲を見ていた。


それから、少しだけ眉を下げて笑った。


「……まさかキス?」


玲は頷いた。


千春は困ったような、呆れたような顔をする。


「玲くん、そういうことはもっとロマンチックに言って欲しかったな」


「状況を見ろ」


「見てるよ」


そのとき。


「なにイチャイチャしてんだよ!」


男の声が荒くなる。


空気が張り詰めた。


玲は千春を見た。


千春も玲を見た。


一秒、目が合う。


次の瞬間、千春が動いた。


玲の胸ぐらを掴む。


引き寄せる。


そして、玲の唇に、キスをした。


短い。


けれど、はっきりとした温度があった。


「……は?」


男が固まっていた。


千春は男に向き直る。


ネオンの光を正面から受けて、彼女は一切揺れていなかった。


「見て分かるでしょ。私の彼氏」


男の顔が歪む。


眉が寄る。


口元が引きつる。


「……ふざけんな」


「諦めて」


千春は玲の腕に手を添えた。


静かな、それでいて迷いのない動作だった。


「迷惑だから」


男はしばらく動かなかった。


玲は息を殺す。


拳を握る。


まだナイフが出るかもしれない。


まだ世界が動くかもしれない。


男の喉が動いた。


そして。


舌打ちが、夜に落ちた。


「……チッ」


男は背を向ける。


「マジかよ。興味なくなったわ」


足音が遠ざかる。


ネオンの光の中に、その背中が溶けていく。


玲は動けなかった。


本当に、去ったのか。


「……マジか」


声が掠れた。


それだけ言うのが精いっぱいだった。


その瞬間。


世界が揺れた。


ネオンの輪郭が、一瞬だけ歪む。


通りの喧騒が引き伸ばされて、低く、遠くなる。


足元のアスファルトが、透明なガラスみたいに薄く見えた。


「……え」


千春が小さく声を上げた。


手が、玲の腕の上で止まる。


「また……」


頭を押さえる。


その指が震えていた。


玲は千春を支えるように体を向けた。


「大丈夫か」


「うん、大丈夫」


千春は答えながら、目を閉じていた。


眉間にしわが寄っている。


「また思い出した」


「何を」


千春は目を開けた。


ネオンの光の中で、その瞳が揺れている。


「千咲……」


涙が、一筋だけ落ちた。


「私たちの、一番大切だった妹」


玲の胸が締まった。


妹。


千春はそう言った。


私たちの。


「玲くん」


千春が玲を見る。


泣きそうなのに、笑おうとしている顔だった。


昔から変わらない、この人の癖だ。


「絶対助けて。千咲を」


玲は頷いた。


「ああ」


迷わなかった。


迷える余地がなかった。


その瞬間、千冬のタブレットが音を立てた。


画面が切り替わる。


白い光が、三人の顔を照らした。


SPRING LAYER


CLEARED


千冬は画面を見つめていた。


少しの間、何も言わなかった。


それから、静かに言う。


「春ループ、終了しました」


玲は息を吐いた。


肺の奥に溜まっていたものが、少しだけ出ていく。


「……終わったんだな」


「はい」


千春が玲の顔を見上げた。


そして、困ったように笑う。


「じゃあ、これからは私も仲間だね」


「仲間?」


「だって助けるんでしょ? 千咲を」


千春の声は、涙の跡が残っているのに明るかった。


その強さが、玲にはまだ慣れない。


チリン。


遠くで鈴が鳴った。


さっきより近い気がした。


それとも、玲が敏感になっただけか。


千冬がタブレットを操作する。


画面の波形が、新しい形に変わっていた。


「次の時間残響の発生予測時期が観測されました」


画面に英字が表示される。


NEXT SEASON LAYER


SUMMER


千春が画面を見て、小さく呟いた。


「もしかして千夏?」


玲は千春を見る。


「どういう意味だ」


千春は何も言わなかった。


代わりに、千冬が口を開いた。


「次は千夏が死にます」


千堂家の次女。


千堂千夏。


玲はその名前を、まだほとんど知らない。


街のネオンが、いつの間にか少しだけ色を変えていた。


赤から、橙へ。


春の終わりの光ではない。


もっと、熱を持った色だった。


夏が、始まろうとしていた。

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